城データ
城名:八木城
別名:無し
標高:69m
比高:55m
築城年:貞応元年(1222)
城主:香川氏
場所:広島県広島市安佐南区八木
北緯:東経:34.482125/132.502903
攻城記
現在麓は中学校になっている。
城山北中学校の部分も何かしらの遺構があったかもしれない。
削平地。
反対の山側にも遺構があると思われる。
山頂を目指す。
城は植林されている。。
本丸には香川氏の祖鎌倉権五郎景政を祀る社がある。
麓には香川氏の墓もあり、この場所に萩に行かなかった香川氏が帰農したものと思われる。
open-hinataより【八木城】
余湖図【八木城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【八木城】
鎌倉権五郎景政を祀る社はある。
城の記載は無い。
土井(土居)の記載もある。
戦後すぐの八木城跡
城の概要
本城跡は、太田川の右岸にあって、丘陵の東裾は太田川の河岸となっている。
対岸には恵下山城跡・地蔵堂山城跡があり、四囲の眺望も秀れている。
城山の北から西にかけてはすでに宅地化されていて、郭の構成の全貌はつかめないが、現状では山頂郭群のほか三郭群が認められている。
山頂郭群は最高所の1郭の周囲に六か所の小郭をめぐらすもので、その外縁は登坂困難な急斜面となっている。
山頂郭群の南西100mのところに六か所の小郭を階段状に連ねた郭群がある。
この郭群の最高所には現在小社があある。
西へ少し離れたところに階段状の郭3からなる郭群がある。
さらに、西方には、中心の郭を三段の帯郭で取り囲んだ郭群がある。
山頂郭群との比高は約30m。
城跡の西裙には「土居」の地名が残り、この郭群から南へ下ったところには城主であった香川家の墓所と伝える場所もある。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
八木城
八木城は太田川が三篠川と合流する地点より一皿下った右岸の独立低丘陵上に所在する。
前面を太田川が流れ、後背部を国道五四号線と国鉄可部線が通る交通の要衝である。
城主の香川氏は承久の変の功により貞応元年、相模国高座郡香川荘より、八木村の地頭として移ってきた。
永正十四年(一五一七)、大内氏に背いた武田元繁は、小田刑部少輔信忠の有田城を包囲し、有田合戦が行なわれるが、香川兵庫助行景も高松城の熊谷次郎元直、己斐豊後守師道入道宗端らと共元繁軍に馳せ参じて、毛利・吉川の連合軍に敗れ、元直・宗端らと討死している。
また天文二年(一五三三)、武田光和の高松城(熊谷信直)攻めには、香川左衛門尉光景は己斐豊後守直之らと参加 している。
光和の死後家督問題が起こり、武田家の老臣品川氏と香川・己斐両対立し、品川氏は八木城を攻撃した。武田氏は内部分裂して滅ぶが、香川氏は毛利氏に仕え、そのうち吉川元春に仕え た系統は同氏に従って 岩国に移っている。
城は、幅一四m×長 さ三五mの本丸を中心 に、同心円状に二〇m前後の郭を数か所配し ている。
本丸北端部には土塁と共に大きな竪 堀が認められる。
城の西麓には土居の地名が残っており、屋敷跡と推定される。
また、本丸南側の丘陵上には香川氏の祖鎌倉権五郎景政を祀るという小社が存在する。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
貞応元年(1222):承久の乱にて活躍してその褒章として香川経景が八木村地頭となる。
永正14年(1517):有田中井手の戦いにて当主である香川行景が討死する。
天文2年(1533):武田光和が熊谷氏の高松城を攻めた時には香川光景が参加している。
天文9年(1540):武田光和死去、この頃武田から離反して毛利方につく。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いで萩に移転する。
城主家系図
城主石高
香川神右衛門(元景)
584.919石
【内訳】
275.130石 安芸 山県
308.789石 備後 神怒
香川左衛門(広景)
531.368石
【内訳】
372.188石 周防 都濃
159.180石 備後 怒歌
所感
●鎌倉時代から関ケ原まで生き延びた名門武家。
●城の遺構は中学校の建築などで往時の姿ではないが、雰囲気はつかめる。
●中学校の北側の方が本丸と思われる。
関連URL
有田中井手の合戦で討死した武将の城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/01/30