城データ
城名:有井城
別名:無し
標高:52m
比高:30m
築城年:南北朝時代
城主:有井三郎左衛門尉、山県備前
場所:広島県広島市佐伯区石内南
北緯:東経:34.412938/132.382568
攻城記
道路脇にある標識、目立っている。
直登実施。
この道を建設する為に城の一部が削り取られている。
本丸。
麓を臨む。
この部分は改変されていると思われる。
城の下部分であるが、ここも大きく改変されている。
位置関係
城の一部がえぐられている。
余湖図【有井城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【有井城】
拡大図。
城の概要
有井城は、石内川周辺をおさめていた小幡氏が、地域をまとめる中心として築いた山城である。
城内にはしっかりと組んだ石垣が見られ、水をくむ井戸もいくつか掘られていた。
また、なべ・皿・すりばち・火鉢などの日用品が多く見つかった。
こうしたことから、この城は戦いのための一時的な「とりで」ではなく、普段は武士たちが生活をしており、戦いが起こった時には守りの中心となるような施設だったと思われる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
有井城跡 五日市町石内有井
標高五二・八メートルのまるこ山にある南北朝期の城跡。
小規模ではあるが、中世の山城の面影を示している。
「国郡志下調書出帳」に「山県備後守在城」とある。
「佐伯郡誌」は「有井城は元南朝の忠臣有井三郎左衛門尉の 築きしものにして、後山県備前の居城たり」と記す。
「五日市町誌」は、「太平記」巻二一(先帝崩御事)に後醍醐天皇が死去した際、列挙される南朝方のうちに「安芸ニ有井」 とあるのを当城主に比定している。
城跡は尾根続きの中 途を掘切って独立した高さ約三〇メートルの小山で、頂 上まで三段に分れ、二段目の平地に館があったと考えられる。
近くに有井家・有井池・有井神社があり、数基の五輪塔が残る(五日市町誌)。
『広島県の地名より引用』
城の歴史
南北朝時代:後醍醐天皇が死去した際、列挙される南朝方のうちに「安芸ニ有井」 とあり、「佐伯郡誌」では有井三郎左衛門尉とある。
戦国時代:小幡氏が城主となる、また小幡氏が滅亡した後は山県氏が城主となったのかもしれない。
有井三郎左衛門尉
太平記21巻の193 先帝崩御事に「有井」の記載記載あり。
一部抜粋。
就中世の危を見て弥命を軽ぜん官軍を数るに、先上野国に新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興、武蔵国に其家嫡左少将義宗、越前国に脇屋刑部卿義助、同子息左衛門佐義治、此外江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河・山名・桃井・額田・一井・金谷・堤・青竜寺・青襲・小守沢の一族都合四百余人、国々に隠謀し所々に楯篭る。造次にも忠戦を不計と云事なし。他家の輩には、筑紫に菊池・松浦鬼八郎・草野・山鹿・土肥・赤星、四国には土居・得能・江田・羽床、淡路に阿間・志知、安芸に有井、石見には三角入道・合四郎、出雲伯耆に長年が一族共、備後には桜山、備前に今木・大富・和田・児島、播磨に吉河、河内に和田・楠・橋本・福塚、大和に三輪の西阿・真木の宝珠丸、紀伊国に湯浅・山本・井遠三郎・賀藤太郎、遠江には井介、美濃に根尾入道、尾張に熱田大宮司、越前には小国・池・風間・禰津越中守・大田信濃守、山徒には南岸の円宗院、此外泛々の輩は数に不遑。皆義心金石の如にして、一度も変ぜぬ者共也。身不肖に候へども、宗信右て候はん程は、当山に於て又何の御怖畏か候べき。何様先御遺勅に任て、継体の君を御位に即進せ、国々へ綸旨を成下れ候へかし。」と申ければ、諸卿皆げにもと思れける処に、又楠帯刀・和田和泉守二千余騎にて馳参り、皇居を守護し奉て、誠に他事なき体に見へければ、人々皆退散の思を翻て、山中は無為に成にけり。
山県備前
山県備後守は,毛利元就の家臣の山県備後守(就延)と考えられる。
山県氏は,戸坂を本地とする川内水軍のひとつとして武田氏の家臣であったが,毛利氏の進出とともに,毛利氏の触頭として佐東衆を統率する存在となっている。
『有井城発掘調査報告』より
小幡氏
中世の石道において文献にあらわれる国人領主として小幡氏がみられる。
小幡氏は武蔵児玉党の一族秩父行高の子行頼が,上野国甘楽郡小幡の地に拠って小幡氏を称したのにはじまると伝えられており,その一族が,おそらく南北朝初期までには地頭職を得て安芸国に西遷してきたのであろう。
文献上では,文和元年(1352)11月の『足利義詮下文』,『沙弥某施行状写』に「安芸国兼武名小幡右衛門尉跡」とあるのが初見といわれている。
当時の兼武名の性格・所在地等は不明であるが,おそらく国衙領の別名と思われる。
戦国時代において,小幡右衛門尉の系譜を引くとみられる石道の小幡行延が廿日市の洞雲寺との所領争いの中で,円満寺分并丸山名に対する自分の権利の正当性を主張する論拠として,そこが兼武名の内であるとしていることは,この兼武名が,小幡氏の一貫した勢力基盤であったことを窺わせる。
また,石内地区のなかに丸山という小字名があることもそれを首肯させるといえよう。
さらに,応永11年(1404)の当時の守護山名氏に対抗するため安芸国人領主33名が結んだ軍事的盟約である『安芸国人一揆契状』に厳島安芸守親頼(厳島神社神主藤原親頼)とならんで小幡山城守親行の名があることや,大永3年(1523)の友田興藤の大内氏に対する反乱のとき,石道の小幡興行が大内氏与党として武田氏から攻撃され,三宅の円明寺で親類8人とともに切腹させられていることは,小幡氏が佐西郡内にありながら神領衆とは異なり,神主家とは自立した立場であったとみることができる。
『有井城発掘調査報告』より
所感
●城は半分位えぐられているが、本丸部分は残っており、本丸から眼下を臨むと当時の雰囲気が感じられる。
●城主が有井氏、山県氏とあるが、南北朝時代に有井氏がおり、その後、小幡氏が入部するが、厳島合戦前後に没落して、その所領を山県氏にあてがわれたのかもしれない。
●毛利元就の側室である、中の丸はこの小幡氏の出身だとされている。
関連URL
近隣の城。
参考URL
参考文献
『有井城発掘調査報告』
『日本城郭大系』13
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/01/23