城データ
城名:亀居城
別名:小方城
標高:88m
比高:87m
築城年:慶長13年(1608)
城主:福島氏
場所:広島県大竹市小方
北緯:東経:34.240483/132.216497
攻城記
市指定史跡 亀居城跡
慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦に敗れた西軍の盟主毛利輝元は、領国8ヶ国の内、防長2ヶ国を与えられ、その本城広島を去り、東軍に味方した豊臣恩顧の武将福島正則が芸備2ヶ国を与えられて、そのあとに入りました。
広島に入った正則は直ちに領国の経営に乗り出す一方、小方・三次・東城・三原・神辺・鞆に支城を置いて守りを固めました。
このとき小方の城将には、甥の福島伯耆(1万石)を配備して、慶長8年(1603)から築城をはじめました。
築城に際しては、水野次郎右衛門が総奉行、片尻飛騨が大工棟梁として指揮にあたりました。
5年の歳月を経た慶長13年(1608)にこの城は完成しましたが、不幸にして城将福島正則は完成の前年他界したので、これに代わって守将山田小右衛門、森佐助の両名が兵を率いて入城しました。
海に面したこの城の規模は、面積10町歩(992アール)、周囲18町(1,960メートル)におよび、山頂に本丸・これに二の丸・三の丸・有の丸・なしの丸・松の丸・名古屋丸・捨の丸の8台が続き、本丸と有の丸の横に詰の丸、その下に鐘の丸・妙見丸があって、合計11台よりなり、また海に面しない部分の周囲には、新町川の流水や海水を導入した堀や、から堀が巡らされていたといわれています。
なお、この城が亀居城と称されたのは、城地が亀の伏した形に似ていたことに由来します。
かくして亀居城は、広島本城の支城として、毛利氏に対する軍事的見地から脚光を浴びましたが、この頃正則に対する幕府の圧力は非常に厳しく、完成後間もない慶長16年(1611)、この城は取り壊される運命となりました。
大竹市教育委員会
亀居城の石垣の刻印(その1)
城は「建てる」とはいわずに「築く」といいます。
城の威力は建物よりも、石垣の要害に負うところが大きいからです。
その石垣の石に、刻印を付けたものが慶長~寛永(1603~1642)の頃の築城に、著しく見受けられます。
刻印の目的は、種々考えられますが、亀居城の場合は、石の出荷を厳しく督励するために仕事を請けたグループごとに、目印のマークを彫りつけさしたものと思われます。
石垣は、花崗岩で築かれていますが、山そのものは、堆積岩(水成岩=玖珂層群)で出来ています。
この石垣のすべての石が、島や海岸からばくだいな労力で運び上げられたものです。
亀居城の刻印は、42種類-264個が発見されており、このうち広島城の刻印と同型のものが、21種類もあります。
このことは、両城とも福島正則が普請したという、一つのあかしとなります。
「三の丸」の刻印は左記のように16種類・54個あります。
※印は広島城と同じ型です。
大竹市教育員会
井戸跡。
刻印のある石垣。
破城後の石垣か。
天守台。
天守前の石段。
矢穴。
破城後の石垣か。
刻印のある石。
朝日を浴びる亀居城
前方は厳島。
位置関係
福島氏の亀居城と毛利(吉川氏)の岩国城は15キロ、3時間でいける距離で、ひとたび戦となればすぐに攻め込める近さであった。
福島正則がこの地に城を築く理由が分かる。
余湖図【亀居城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【亀居城】
1825年当時の絵図でもまだ麓までに海が迫っていた。
当時はこの位の近さに海が迫っていたと思われる。
城の概要
関ヶ原の戦いの後,安芸・備後の大名として福島正則が入り,1603(慶長8)年,山口との境である小方にこの城を置き,甥の福島伯耆を配した。のち,一国一城令により廃城となる。
城は,独立丘陵全体に石垣を築いて天守閣を設けた近世城郭である。
城域として,城下の黒川地域の一部まで含めた形跡が残っている。
天守閣は,遺構から見て複合連結式(附櫓,渡櫓)であり,推定7間×7間の三層であったと思われる。
郭は,階段状に7つ並べ,他に3つ配し,計10郭から構成される。
中心部の石垣は,天守台付近が打込ハギの積み方であるが,その他は公園整備により旧石を使って築き直されていて,昔の積み方でない。
所々に現状をとどめたところがあり,野づら積みによって構築してある。南の谷間には石垣を4列並びにして特に厳重にしている。
城下は市街化によって遺構の残りが良好でないが,北槽の基壇石垣の一部は見ることができる。
井戸は,天守台下と詰の丸の2か所で確認されている。
出土遺物として大量の瓦があり,本丸部分,松の丸部分で見られる。軒丸瓦はほとんどが巴紋で,その他鳥衾・軒平・平・丸・鬼瓦等がある。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
亀居城
亀居城は、安芸国の西端に位置しており、本城の後背は急峻な山がそびえ、 前面には瀬戸内海が広がり、広範囲の地域を望むことができる。
慶長五年、関ヶ原の戦で西軍に与した毛利輝元は、領国九か国のうち七か国 を削られ、防長二か国に転封された。
それにかわって東軍に味方した福島正則が、安芸・備後の大名として封じられ、翌年、広島城に入った。
福島正則はまず領国の抑えとして小方・三次・東城・三原に支城を構えることとし、小方には甥の福島伯耆を配備した。
そして当城の構築は 慶長八年から開始し、水野次郎右衛門を総奉行に 片尻飛騨を大工棟梁に任じて五年後の慶長十三年 に完成したが、城主であ った福島伯耆は前年に死 去したため、新たに山田小右衛門・森左助の両名が城番として入城した。
しかし、本城完成間もない慶長十六年には、徳 川幕府の圧力によって廃城の憂き目をみるにいたった。
本城の規模は、周囲が 二十町、面積が約十町歩 で、本丸(縦九間、横八間)は標高八八mの最高所に位置している。
本丸の東側には二の丸(縦十四間、横十間)、三の丸(縦二十三間、横二十間)、有の丸(縦 二十間、横十六間)、なしの丸(縦二十四間、横十四間)、松の丸(縦二十一間、 横十間)、名古屋丸(縦三十六間、横十三間)、捨の丸(縦十六間、横二十二間) の各郭が構築され、また、三の丸の南西には結の丸(縦三十二間、横二十間)が、 さらに松の丸の南西には鐘の丸(縦四十五間、横三十二間)が設けられ、各郭は 石垣によって守られていたが、とくに東側が堅固である。
一方、本城の南西約 二〇〇mに位置する独立丘陵上には妙現丸(縦十七間、横二十間)が築かれ、この西の谷筋には高い石垣を四列直交させて防禦していた。
水の手は、古文書によると、三か所が記入されているが、現状では詰の丸の 北側と西南部分に一辺約二・五mの方形状の井戸が確認される。
なお、昭和五十三年、公園整備に伴って発掘調査が実施された結果、本丸から東西三間×南北四間の建物礎石が 検出され、多くの瓦類が出土した。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
慶長8年(1603):築城開始。
慶長12年(1607):城主である福島正宣が死去。
慶長13年(1608):城が完成。
慶長16年(1611):廃城となる。
所感
●毛利時代にも円通寺城という城があり、城主が桂四郎兵衛だったらしい。
●49万石の石高で5年という歳月を費やしただけあって、かなり立派な城だった、現存したら福山城、三原城にも劣らない城だと思われる。
●刻印がある石垣も多く、発見しながらの散策もいい。
関連URL
15キロしか離れていない毛利側の城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『安芸の城館』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/01/15