城データ
城名:賀田城(かだじょう)
別名:無し
標高:494m
比高:110m
築城年:戦国時代
城主:烏田氏(からすだ)
場所:島根県飯石郡飯南町下来島
北緯:東経:35.045414/132.728417
攻城記
城主島田氏の子孫が碑を建立している。
登山道が整備されており楽にいける。
曲輪跡。
曲輪跡。
賀田城跡
右の図は、賀田城のある松本山を上方から見たものに、城の構造を実測して書き加えだものです。
およそ標高(盤越) 450メートルの山頂まで、様々な防御施設が築かれているのが分かるかと思います。
賀田城の最大の特徴とも言える「連続堅堀群」は、主郭部の南側一体に長さ約30m幅3〜5mの堀が八本、真下へ向かって延びています。
また、七郭への進入口である「虎口」、八郭の土塁といった特殊な縄張り(城の構造・防御施設の配置)は県下でも類例がなく、初めての発見です。
賀田城を守る会
三の丸。
余湖図【賀田城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
【城史】
毛利氏が瀬戸山城に籠る赤穴氏に降伏を迫った時、徹底抗戦を唱えた赤穴氏配下の森田氏と鳥田氏が籠った 「松本山の石城」が賀田城とされている。
両氏はゲリラ 戦を展開したが、毛利氏との戦いのなかで鳥田氏、そし て森田氏が討死すると残った将兵は白鹿城に向けて敗走したという。
『出雲の山城』より引用。
賀田城
賀田城跡が加田と松本集落間の通称城山にあり、南北朝時代佐波実連の弟秀清が籠城。
また赤穴幸清の弟左馬助幸季の居城とされる高名和城は賀田城にあたると推定される(赤来町史)。
永禄三年(一五六〇)尼子方赤穴右京亮の臣森田勝経・烏田勝定勢はこの城に拠って抵抗した(雲陽軍実記)。
川尻区黒谷地内に宝篋印塔と思われる墓一基と、その付近に八人塚とよばれる古い墓碑が散在する。
『島根県の地名』より一部引用。
看板より
城の歴史
正平元年(1346):佐波実連の弟・秀清が下来島高名和城に籠るがこの城か。
永禄3年(1560):毛利の尼子討伐戦の時に立て籠るが結局落城する。
所感
●公園化されており本丸は楽に到着できる。
●城は小ぶりながらしっかりとつくられており、見ごたえあり。
●1560年当時実際に戦が繰り広げられた城なので、攻め手、守り手の立場で散策すると興味深い。
●城主は烏田(からすだ)で島田でも鳥田でもない。
関連URL
主君である、赤穴氏の城。
参考URL
参考文献
『佐田町の遺跡 窪田地区』
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『日本城郭大系』14
『島根県の地名』
『島根県地名大辞典』
『出雲の山城』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2022/01/10