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城データ

城名:九日市城

別名:井元城、沢谷城

標高:199m

比高:40m

築城年:室町時代後期

城主:佐波氏、井元氏

場所:35.048316/132.668815

北緯:東経:島根県邑智郡美郷町九日市井元

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

九日市城全景。

攻城開始。

急な斜面を這い上がる。

最初の曲輪に到着。

曲輪内は散策しやすい。

周辺部。

本丸へ向かう。

本丸。

 

余湖図【九日市城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

 

城の概要

城の北側には、沢谷川をへだてて邑智町から赤名への道が通り、九日市の集落がある。

 

北側に対しては川もあって堅固だが、南側に回り込まれれば比高はほとんど無い。

 

居館は城の東側井元の集落に考えるべきか。町誌は、佐波氏の城とする。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

九日市城

九日市城は、邑智町九日市部落と川を隔てた所にある小さな山にあったが、佐波清連が住したといわれる井元土居ではないかと思われる。

 

文安6年(1449)清連は佐波赤穴の戦いに宗家の元連に味方して従ったが、泉山城の戦いに大敗しれ所領を失ったといわれる。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

城の歴史

最初は佐波氏の所領であった為、佐波清連が住したと言われる。

 

その後、庶家である赤穴氏で赤穴常連の息子の清連が地元の在地名を取り井元姓を名乗った。

 

1406~1500年頃:井元氏はその後、三代がこの地域にいたが4代目の清房が井元から吾郷姓に改めた。

 

1500年頃には吾郷姓に変えて本城も松笠城や鳶ヶ城に移していたが、まだこの九日市城は吾郷一族にあったかもしれない。

 

天文11年(1542):大内、毛利連合による出雲侵攻時に吾郷武則は本家である赤穴氏の家老として奮戦したが、最後には赤穴当主と同じように戦死してしまう。

 

その後、主家である赤穴氏が尼子氏から毛利氏につき、家老である吾郷氏も毛利につく、しかし、毛利元就が吾郷家の尼子家への内通を疑い、再度毛利方から尼子方へ寝返る。

 

城主家系図

 

 

後日、吾郷武日様からのご教示により詳しく判明しましたので詳細を記載します。

当初 家号(名字)が 「吾江」 であった事を示す古文書を紹介します。

井元家初代清連はまだ井元姓を名乗らず、佐波次郎四郎清連、佐波備中守清連と称していました。

 

佐波惣領家9代・幸連は赤穴常連の次男正連が養子に入って佐波惣領家を継いだといいます。

 

この佐波幸連の別名は正連、頼連、清連とされてきました。

 

その結果、佐波惣領家9代の佐波清連と井元家初代の佐波清連が、しばしば混同され、様々な混乱が生じてしまったのです。

 

1411年の応永飛騨合戦に赤穴弘行(注)と佐波清連が出陣しましたが、注:前述のとおり、正しくは「赤穴弘行」ではなく「佐波弘行」です)「郡連置文」を根拠として、この佐波清連は佐波惣領家9代・幸連のことだと考えられてきました。

 

しかし、最近、応永飛騨の乱に関する古文書を分析した結果、応永飛騨合戦に出陣した佐波清連とは、佐波家9代惣領ではなく、赤穴常連(当時は「佐波常連」)の三男で井元家初代の佐波清連であることが解明されました。

 

佐波家9代幸連は「三河守」ですが、井元家初代清連は「備中守」です。

 

応永飛騨の乱に関する古文書(中川文書)は、全て「佐波備中守清連」です。
「佐波三河守清連」はまったく出てきません。

 

つまり、飛騨合戦に出陣したのは、佐波惣領家当主ではなく、井元家初代の佐波清連であることが解明されました。

 

佐波惣領家9代幸連(正連)の別名を「清連」とした唯一の根拠が郡連置文ですが、その唯一の根拠が崩れたわけですから、佐波惣領家9代・幸連の別名から「清連」を削除すべきだ、というのが私の見解です。

吾郷武日

 

吾郷武日様には大変感謝いたします。

 

 

以下ご教示の要約。

 

この地域は、最初は佐波氏所領であった為、佐波氏が管轄していたと思われる。

 

井元九日市の初代城主・佐波清連は、佐波惣領家の当主ではなく、赤穴常連の三男で、井元家初代の井元清連である。

 

ただし、このころは赤穴家も井元家も、まだ赤穴や井元の家号(名字)は使用しておらず、みな、佐波を称していた。
(このことは、吾郷武日様が古文書を精査して確認)

 

注1
赤穴家初代常連は佐波備中守常連。
赤穴家2代弘行も佐波善四郎弘行、あるいは三善弘行と称している。
後世の人が赤穴常連、赤穴弘行と呼んだらしい。
赤穴の家号(名字)を使い始めるのは3代赤穴幸重から。

 

注2
井元家初代清連は まだ井元姓を名乗らず、佐波次郎四郎清連、佐波備中守清連と称していた。

 

注3
井元氏は三代までこの地域にいたが(1406~1500年頃)、

4代目の清房が井元から吾江庄に移り、家号(名字)を吾江に改めた(1500年頃)
(なお、この頃は、地名も名字も 「吾郷」ではなく 「吾江」であった。
「吾郷」が使用されるのは江戸時代になってから。)

 

所感

●中世の典型的な山城で当時このような村単位の領主が多くいたと思われる。

 

●曲輪も複数ありその加工もしっかりしている印象があった。

 

●本丸部分は2郭よりも10m位高く、矢竹も生えていた。

 

●地元では九日市城よりも井元城として通っている。

 

関連URL

【島根県】瀬戸山城【尼子十旗4城目】

主家である赤穴氏の居城。

 

参考URL

城郭放浪記(石見九日市城)

武家家伝(佐波氏)

武家家伝(赤穴氏)

 

参考文献

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『日本城郭大系』14

『島根県の地名』

『島根県地名大辞典』

『石見の山城』

『萩藩諸家系譜』

『萩藩閥閲録』

『毛利八箇国御時代分限帳』

公開日2022/01/09

 

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