城データ
城名:十神城
別名:無し
標高:93m
比高:93m
築城年:室町時代
城主:松田氏
場所:島根県安来市安来町十神
北緯:東経:35.433707/133.260935
攻城記
十神城全景。
麓の看板、城についての説明は無い。
公園化されているので山頂まですいすい行ける。
十神城の矢竹。
本丸跡。
神社の跡がある。
山頂部分。
こちらにも祠がある。
休憩できる場所あり。
周辺部。
弓ヶ浜を臨む。
余湖図【十神城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
自然地形を利用した水軍の城で、郭の加工は不十分なものである。
山頂部と尾根上に十神山古墳・小十神山古墳が半壊状態で残るのも、郭の加工がどの程度のものであつたかを物語る。
平成4年度に完成した遊歩道で遺構の一部が損壊している。山麓部の向陽寺あたりに館が想定できる。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
十神城
中海南岸の安来港の湾頭にある円錐形をした美しい山容の山が十神山で、十神山城はこの山上に位置した。
天平五年(七三三)に勘造された『出雲国風土記』には「砥神島。周り三里一百八十歩。高さ六十丈あり」と記され、昔は島 であったことがわかる。
十神山から一望のもとに見下ろせる安来港は、美保関などの出雲国や伯音国・ 隠岐国などとを結ぶ海上交通路の要衝の地であると共に、奥出雲の鉄の積出港 でもあった。
十神山城を本拠としていたのは松田備前守である。
彼は安来荘の荘官で、 義郡内の各地に地頭職や買得田地を持ち大きな勢力を保持していたといわれ、 交通の要衝、美保関の代官職にも任ぜられていたようである。
なお、松田氏は日御碕検校小野氏の一族の出であった。
応仁の乱が起こると山名氏に味方した松田備前守は尼子清定と対立し、応仁 二年(一四六八)六月二十日、尼子氏の富田城下を攻めたが撃退され、逆に清定 によって同年七月一日、備前守の支城が攻撃されて、伯耆・隠岐の国人百余人が討たれた。
さらに、七月二十一日には山名六郎・松田備前守が立て籠もって いた十神山城は、清定によって落城させられてしまった。
その後、尼子氏が支配する時代になると、十神山城は尼子十砦の一つとなった。
すなわち、美保関の森山城と共に中海の海上権を掌握する富田城の支城と して十神山城は活用され、松尾遠江守が守将として在城した。
永禄八、九年(一五六五、六六)の毛利氏による富田城攻撃の際には、富田城 の兵糧が乏しくなったため但馬や因幡からの兵糧船が数十艘弓ヶ浜近辺まで来航し、その争奪戦が再々くり返された。
尼子氏が富田城を開城することになる同九年には、毛利氏の水軍児玉就忠によって十神山城も落城した。
郭は主に山頂に造られており、郭の配置は東西一〇m×南北一九mの主郭を頂部に置き、それを囲むように幅六m前後の環状の郭が、西・北側は三段に、 東・南側は一段に造られている。
北側では、それぞれの郭の高低差は約二~三mである。
南側の範にある向陽寺から上り道があるが、その途中にも郭が二か 所認められる。
山上の郭からは四周の見通しがよく、中海での船の動静が手にとるように察知できたものと思われる。
『日本城郭大系』14より引用。
十神城跡 現安来市安来町
現安来港の湾頭に位置する十神山の山頂にあった城で、 十神山城ともいう。
十神山から一望のもとに見下ろせる 安来津は、美保関(現美保関町)とともに出雲と隠岐・伯耆各国などとを結ぶ海上交通の要衝で、十神城はこの安来 津を守備する任務も併せ持っていたと考えられる。
この城が明確な史料のうえに登場するのは、応仁の乱に際し 安来庄地頭松田氏の庶子家にあたると推定される安来庄領家方代官松田備前守が、伯耆国山名六郎などと結んで 蜂起した際のことである。
応仁二年(一四六八)と推定され る一〇月二〇日の尼子清貞宛生観書状(佐々木家文書)に、 九月一九日「安来十神城=山名六郎・松田備前以下敵共楯籠処、同廿一日令出陣、彼城被攻落」とみえる。
この 後、文明八年(一四七六)四月一七日に松田氏惣領家の拠点であった安来庄地頭方が没収され、尼子清貞の被官人らに分配されたが「京極政高感状」同文書)、それに伴って安来津・十神城も完全に尼子氏の統治下に置かれたと考えられる。
永禄五年(一五六二)出雲に進出した毛利氏は、中海・宍道湖などの海上封鎖によって尼子氏の糧道を断つ作戦に出た。
「雲陽軍実記」に翌年一一月頃、因幡・但馬から小船に積んで十神山・福良山の向城に兵糧を転漕しようとしたが、毛利軍に妨げられてこれが困難であったとあるのはこれを示している。
同八年五月六日、隠岐国の笠置氏が十神山の在番などを勤めたとして隠岐国内で所領を 与えられているのも「尼子義久知行充行状」笠置家文書)、こ れにかかわるものであろう。
十神城がいま一度注目を集 めたのは、永禄一二年の尼子勝久による尼子氏復興戦の際のことである。
元亀元年(一五七〇)と推定される九月五 日の国司元武外二名連署書状(閥閲録)で、湯浅将宗は十神への出陣を要請され、同九月二五日の毛利輝元安 署書状(同書)にも、「就十神不慮之儀、某許気遣推量候」 とあって、この直前に尼子軍が毛利方の守備していた十 神城を落し、安来津を掌握したようである。
毛利氏は急遽軍勢を派遣してその奪回に努めたらしく、同一一月一 日の毛利元就・同輝元連署書状(同書)には「十神即時落去候」とある。
毛利氏はその後も番衆を置いて十神城の守備を固めたようであるが(年未詳九月四日「吉川元春書状」 湯浅家文書)、勝久の出雲からの退去により、それも終了 したとみられる。
十神城の郭は山頂に造られており、東西一〇メートル ×南北一九メートルの主郭を頂部に置き、それを囲むよ うに幅六メートル前後の環状の郭が西・北側は三段に、 東・南側は一段に配置されている。
北側ではそれぞれの 郭の高低差は約二・三メートルである。
南側の麓にある向 よう 陽寺から上る道があるが、その途中にも郭が二ヵ所認め られる。
山上の郭からは四周の見通しがよく、中海での 船の動静が手に取るように察知できたものと思われる。
『島根県の地名』より引用。
城の歴史
室町時代:松田氏により築城されたと思われる。
応仁2年(1468):山名氏に組した松田備後守が拠り尼子清定に抗したが、尼子氏に攻められ落城した。
(松田備前守は安来庄地頭松田氏の庶子家と推定されている)
文明2年(1476):4月17日 松田氏惣領家の拠点であった安来庄地頭方が没収され、尼子清定の被官らに分配されたが、それに伴って安来津、十神山城も完全に尼子氏の統治下におかれた(このころ城代として尼子方の武将が入ったものと思われる)
永禄5年(1562):出雲に進出した毛利氏は中海、宍道湖などの海上封鎖によって尼子氏の糧道を断つ作戦にでた。
永禄6年(1563):11月頃、因幡、但馬から小船に積んで十神山、福良山の向城に兵糧を転漕しようとしたが、毛利軍に妨げられこれが 困難であったとある。
永禄8年(1565):隠岐国の笠置氏が十神山の在番などを勤めたとして隠岐国内で所領を与えられている。
永禄9年(1566):児玉就忠の率いる毛利氏方の水軍に攻められ落城した。
永禄12年(1569):兵を挙げた尼子氏残党が拠る所となる。
元亀元年(1570):布部山の戦いで尼子勢が大敗を喫し、諸城と共に十神山城も開城した。
城主家系図
所感
●城の遺構はほとんど無し、十神山城の説明している看板等もないので普通の人は城とは分からない。
●当時はおそらく島であったと思われる。
●松田氏はその後尼子氏の支配下に入り、尼子晴久の頃には一番重要な城(尼子十旗第一の城)である白鹿城の城主を勤めていた。
松田誠保は政久の娘と結婚していた為、尼子晴久とは義兄弟の関係にあった
関連URL
松田氏の子孫が一時期城番となった可能性がある。
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『日本城郭大系』14
『島根県の地名』
『島根県地名大辞典』
『出雲の山城』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2022/01/03