城データ

城名:伊秩城

別名:無し

標高:240m

比高:90m

築城年:室町時代

城主:伊秩氏、熊谷信直

場所:島根県出雲市佐田町一窪田

北緯:東経:35.241009/132.669909

伊秩城はここ

攻城記

現在伊秩やすらぎの森となっている。

 

伊秩城址

一、起源 応仁の乱の戦功により、伊換政行が出雲、 伯者、六千貫の領収をなり、伊秩山に城を築い たという伝承がある。

 

二、城主 緒既があるが、地元では伊機政行を初代とし 五代重政までの治政であったと伝えあれている。

 

三、主な戦いとその後  天正七年二五七九年五代伊税 重政の時、毛利軍に政められ、城主重政は落城とともに自刃して果て、 一族郎党は周防、石見 方面に落ちていっだ。

 

その後、毛利氏は熊谷信直(高櫓城主、熊谷広実の父)にこの地を支配させた

 

一説には大永三年 (一五二三年〉尼手経久のために攻められ四月四日落城したともいわれている。

 

中腹からみた景色。

田園風景が広がる。

このような削平利が連なる。

神社跡。

曲輪跡。

本丸。

投石用の石か。

曲輪。

伊秩城全景。

 

余湖図【伊秩城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

この地域は古代から伊秩と称 されている。

 

城は応仁の乱の戦功で山名宗全の被官人、井筒行守が因幡国から移封され、地名の伊秩を姓にしたと伝える地域支配の城である。

 

しかし現在に見える城の構造は後世に幾度かの改修を経た結果であろう。

 

主郭となる頂部は広く、階段状の郭群で下降し、間に八幡郭を持ち、両端部に水源を備えている。

 

南側の緩斜面は腰郭と連続竪堀群を配置する。

 

大永三年(1523)、 尼子経久に攻められて落城、尼子解体の後、元就は出雲国内 36個所の城に城督を置くが、その中にこの城と高櫓城がある。

 

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

 

伊秩城

窪田地区の中では、最 も整 った城跡である。

 

位置は、神戸川 と伊佐川の合流地点下の左岸、独立 峰に構築 され、山据には「町」 と呼ばれる集藩が展開する。

 

構造は、南北 にのびる丘陵上面を広範囲に削平し、東西は急峻な斜面を残している。

 

主郭部から南側の遺構をみると、土塁、曲輪、竪土塁、腰曲輪などを配し、その下の緩斜面には、 8条からなる畝状の竪堀群が設けられている。

 

南東へのびる支丘上にも曲輪群があ り、その東側には土塁が設け られている。

 

また先端の曲輪には櫓台を設けた形跡がある。

 

この丘陵から一段下がって南西に続く丘陵の鞍部は、大堀切りで遮断されている。

 

丘陵の頂と南側斜面には、平坦地がみられるが、伝承によると、 この丘は「 段 ノ辻」 と呼び、城兵 の訓練所があったところという。

 

この城の特徴的な部分をあげてみると、山頂に近い位置の南北 2か所に、水源用とした井戸が堀 られている。

 

また主郭部南側にあ る第 3郭東側の虎口から北東に下 る坂道 に突当りには、「 隠し曲輪」 と称される施設が設けられている。

 

その位置から反転して谷底を降りる通路は、両側から横矢攻撃を受ける構造となり、南側の斜面 には畝状竪堀群 (畝型阻塞)がある。

 

この施設は、緩斜面を強化するために構築 されたもので、佐田町では高櫓城跡 (西須佐)、 立花城跡 (東 須佐)に もみられ、攻め登る敵の横移動を封じる構造 となっている。

 

この城については、前述の井筒行守の移封以後、大永 3年 (1523)尼子経久の攻撃をうけて落城し、その後、経久の子・元久 ? が伊秩姓を名乗 って、 この城に入 ったといわれ る (佐田町史)。

 

尼子氏が解代されたあと、毛利氏は出雲国内 36か所の城に城督を置 くが、その中に伊秩城 と須佐高機城もある。

 

この城跡の南側 山裾 には宝医印塔、五輪塔の残欠 が集中する古墓群がある。

 

『佐田町の遺跡 窪田地区』より引用。

 

城の歴史

室町時代:山名宗全の被官であった井筒政行が因幡からこの地に移封されて、地元の地名から「伊秩」を称する。

 

大永 3年 (1523:)尼 子経久の攻撃をうけて落城して伊秩氏も滅亡する。

 

天正2年(1574)もしくは天正7年(1579):毛利軍に攻められ落城し、城主伊秩重政は自刃、その後熊谷信直を入城させる。

 

城主家系図

伊秩重政は尼子経久に攻められて落城自刃、保連が30年後の人物から子か孫の世代だと思われる。

 

 

毛利に攻められた時に城を守っていたのは、大永3年(1523)年以後にこの地を支配していた伊秩家であるが、初代伊秩家との関係は不明。

 

また、元久が尼子経久の息子となっているのが不思議。

 

所感

●城は公園となっており散策しやすい。

 

●曲輪跡も広く見ごたえがある、特に井戸跡は見もの。

 

●伊秩氏の事が不明であるが尼子経久の息子という伝承もあり興味をそそられる。

 

●熊谷信直が城主とあるが、信直の息子の広実が隣の高櫓城の城主であり、実は広実が城主だったのではないか。

 

関連URL

【島根県】高櫓城【出雲市佐田町反辺】

近隣の城。

 

参考URL

城郭放浪記(出雲伊秩城)

西国の山城(伊秩城1)

西国の山城(伊秩城2)

源行近のブログ(伊秩氏)

 

参考文献

『佐田町の遺跡 窪田地区』

『島根県中近世城館跡分布調査報告書』

『日本城郭大系』14

『島根県の地名』

『島根県地名大辞典』

『出雲の山城』

『萩藩諸家系譜』

『萩藩閥閲録』

『毛利八箇国御時代分限帳』

公開日2022/01/10

 

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