城データ
城名:阿用城
別名:阿与城、磨石城(とぎしじょう)
標高:309m
比高:170m
築城年:室町時代末期
城主:桜井氏
場所:島根県雲南市大東町東阿用(磨石山)
北緯:東経:35.299833/132.978109
攻城記
阿用城全景。
地元ではとぎし城と言われている(磨石山=とぎしやま)
道も舗装されており登りやすい。
ため池を過ぎる。
看板もあり分かりやすい。
平坦な道を進んでいく。
このような削平地がいたるところにある。
本丸に到着、整備されており散策にはもってこいの城。
阿用城由来記
阿用城跡は、十四世紀から十六世紀、南北朝時代から室町時代にかけて阿用を支配した土豪桜井氏の居城跡である。
桜井氏は京極氏の家臣であったが、十五世紀の終わりに京極氏に代わって出雲の覇者になった尼子氏に従わなかったため攻め滅ぼされたと伝えられている。
城域は、標高309mの通称磨石山の頂部から延びる尾根上や支尾根上に延600mにわたり大小60余りの郭(平らに加工された区画、曲輪)が配置された大きな山城である。
しかし、郭面は自然地形のままのところも多く、土塁も明確なものは山頂の主郭の一部のみである。
また斜面に竪堀(敵の移動を防ぐための竪状の堀)は見当たらず、城の縄張り(構造)としてはややまとまりを欠く。
城主の居館については、平成元年多量の埋納銭貨が発見された南西側上集落の山麓区域が考えられる。
また下方の福富集落東側丘陵上には福富城跡があり、阿用城の支城跡の一つと考えられる。
阿用城の城攻めについては軍記物の『雲陽軍実記』及び『陰徳太平記』に独特の文学的表現で劇的に語られている。
即ち寄せ手の大将尼子政久(経久の嫡男)が夜、向城の櫓上で笛を吹いていたところ、阿用城主桜井宗的に向いの竹やぶから矢を射掛けられるという奇襲作戦を受けて殺された。
この事件の後阿用城は尼子軍の総攻撃を受け落城したと記されている。
また『佐々木系図』(佐々木寅介蔵原本・県立図書館写本蔵)には政久の死について次のように記している。
「政久 又四郎 民部少輔、永正十年(1513)癸酉九月六日於雲州阿用城流矢卒歳廿六 法名華屋常心」
落城の時期については雲陽軍実記は1508(永正5年)、陰徳太平記は1518年(永正15年)とする。
これらの三資料から阿用城落城1510年前後と考えられるが、あるいは佐々木系図の1513年が当たっているかもしれない。
平成二十二年十月 阿用地区復興協議会
眼下に田園風景が広がる。
周辺部。
連花寺
蓮花寺も当時城域だった可能性がある。
余湖図【阿用城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
尾根上に3群からなり、郭は60余を数える。
郭の削平は総じてあまいが主郭部は土塁で固め、虎口も充実している。
自然の岩石を堀切に見立て、隣接する連花寺も城域としている。
城将に桜井宗的が伝えられ、永正年中、尼子政久の大軍に攻められた。
なお、政久はこの陣中で死したと軍記は伝える。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
阿与城
阿与城は大東町東阿用地区の磨石山の山頂にあったが、頂上部には平坦地があり、焼米が出土するといわれている。
『雲陽軍実記』には、「桜井氏は尼子清 定以来引き続いて尼子氏に仕えていた。しかし、尼子経久の命令に従わず富田 城に参向しなかったため、永正十五年(一五一八)、経久に攻撃されて敗れ落城し た」という趣旨のことが記されている。
しかし、尼子晴久が石見大森銀山を守 る小笠原氏の援軍として出兵した時にはこれに従軍し、のち一時毛利氏に仕えたが、尼子倫久が松江白鹿城の応援に向かった時には再びこれに従軍している。
『日本城郭大系』14より引用
城の歴史
永正10年(1513):この頃尼子経久の嫡子である政久が阿用城攻め逆に桜井宗的に射掛けられ戦死する、怒り狂った尼子経久は総攻撃をかけて落城する。
永禄13年(1570):尼子勝久が再興軍として出雲に反旗を翻した頃毛利勢は尼子方に総攻撃をかけ、小早川隆景は出雲国中郡に出陣し、二月七日多久和大和守の守る城を切崩したため阿用にあった要害も落城した。
所感
●地元の方が精力的に整備しており非常に散策しやすい山城。
●この城は尼子経久の嫡男である尼子政久が戦死した場所であるがその相手方の桜井宗的に関する事がよく分からない。
●阿用の地は尼子氏の家臣森脇氏と湯原氏が知行することとなり、最後に毛利が支配することとなったらしい。
関連URL
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『日本城郭大系』14
『島根県の地名』
『島根県地名大辞典』
『出雲の山城』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2022/01/02