城データ
城名:宇山城
別名:上宇山城、日登城
標高:213m
比高:70m
築城年:不明
城主:宇山氏
場所:島根県雲南市木次町字寺領
北緯:東経:35.290307/132.924421
攻城記
麓に看板がある。
道なりに進んでいく。
500m位進むと城域に到着。
この上り坂を登ると本丸に到達する。
手前に削平地があるが笹でよく分からない。
本丸。
整備されておらず分かりにくい。
このような立派なものがある、おそらく後世のものであるが、なぜここにあるのか興味をそそる。
宇山飛騨守古城。
ここで戦があったことに想いを馳せる。
石垣の跡か。
宇山城全景。
城主家系図
誠明に関しては久兼の兄弟かもしれないし、近しい親族かもしれない。
城主石高
尼子氏分限帳では筆頭家老でその禄高は十八万七千七百石あった。
宇山氏詳細
松江市講座(2014年7月19日)の講座にて原慶三氏の非常に詳しい宇山氏についての史料レジュメがあったので引用する。
宇山氏は尼子氏の家臣として大変な財力を有しており、毛利氏による富田城攻めの際にも食料調達に貢献したが、毛利氏への内通を疑われ、飛騨守久兼とその子が殺害されたこ とが軍記物に記されている。
久兼の父とされる人物が久秀である。
久秀は大永3年9月には「宇山飛騨守勝部朝臣久秀」として日御崎十羅利女に法華経を奉納している。
この経典は享徳2年に播磨国金剛城寺に施入されたもので、それを入手した宇山氏が奉納した。
これにより宇山氏が勝部(宿祢)姓の朝山氏の一族であることがわ かる。
宇山氏は「木次上村」の宇山を苗字の地とする一族で、鎌倉期以降は東国御家人のもとで生き延び、戦国期には大永3年の時点で「飛騨守」に任官しており、尼子氏直臣富田衆の中で有力な地位を占めていたと思われる。
享禄5年7月には尼子経久から「宇山殿」に対して美作国内で所領を与えられており、 以後尼子氏の美作国支配の中心となった。
同じ勝部姓である佐陀神主家の出身であった朝山日乗も出家前は美作国内へ尼子氏家臣として兄とともに派遣されていた。
天文5年の岩屋寺二王堂造営に際しては、宇山飛騨守が、池田和泉守と並んで富田衆としては最多の3貫文の勧進に応じている。
天文7年8月には富田庄内布部の二所大明神本殿造営の大檀那として「宇山飛騨守藤原朝臣久秀」とみえる。
勝部姓である朝山氏も室町幕府三代将軍義満の時代には奉公衆となって活動の拠点を京都周辺に移して後は「藤原姓」 を使用しており、宇山氏も二つを使い分けていたのであろう。
同7年11月段階で本願寺側は「宇山大蔵丞」へも連絡し、「備中事不可取次」との返事をもらっており、この段階 で宇山は美作国を管轄していた可能性が高い。
天文9年の竹生島奉加帳には富田衆として、「宇山大蔵丞」と「宇山弥次郎」がみえるが、この時点で子の大蔵丞久兼に当主の地位を譲っていたのであろう。
天文14年頃に比定される柳原資定書状では、周防に滞在中の資定が尼子氏の菩提寺である洞光寺に対して 尼子一大内間の和平について連絡しているが、その中で富田衆の湯原遠江守・宇山大蔵丞 ・立原次郎右衛門尉幸隆にも働きかけていることを述べており、宇山久兼が富田衆内で湯原・立原とともに有力な位置にあったことをうかがわせる。
ただし、尼子氏奉行人として 当主が袖判を加えた文書に連署することはなかった。
次いで、天文17年6月には富田庄内「宇波村之居住勝部氏之朝臣宇山飛騨守久秀等(マ マ)法名心海永忠居士」が独力で黄金製の三光国師像を造り、宇賀庄内雲樹寺に寄進しているのは、その経済力を示すものである。
布部については子の久兼に譲り、みずからは宇波に居住していたのだろう。
天文20年9月1日に大内義隆が陶暗賢により殺害されると、翌10月に尼子氏は美作国に出兵しているが、尼子方として美作国内に駐留していたのが「宇山弥次郎」であった。
このような体制は享禄5年以来のことであろう。
この後は、新宮党の尼子誠久と宇山弥次郎が美作国支配を担ったが、新宮党は天文23年11月に晴久により討滅されてしまう。
天文24年の伯耆国大山寺洞明院棟札には、神興極那として「宇山右京亮誠明」がみえるが、これが弥次郎が任官するとともに、「誠久」との関係で名乗ったものであろう。
永禄9年2月、宇山飛騨守父子は逆心の企てにより尼子氏家臣により討果たされるが、 その一族は富田城を逃れて毛利氏のもとへ落ちた。
実際に毛利氏は永禄8年12月には、 宇山父子が毛利方へ入魂することになり、その仲立ちをした足立氏に対して恩賞を与えることを約している。
後に尼子勝久の一行が出雲国に乱入した際に、馬木・河本・湯原の旧富田衆の一族から 尼子氏方に寝返るものが出たが、宇山氏は多賀氏や野村氏などとともに毛利氏方にとどまるとともに、尼子氏時代の旧領の回復を毛利氏に対して愁訴している。
多賀氏が島根郡東長田郷と西郷・坂本の長田(現在の川津)とともに同郡の半島部加賀・大蓋と南浦を愁訴 したのに対して、宇山氏も島根郡内の末長田と半島部の片口・七類、さらには秋鹿郡伊野 ・能義郡赤江領家分と伯者国会見郡赤井手を愁訴しており、ここにみえる所領が尼子氏ら富田衆に与えられていたことがわかる。
以上、宇山氏について、情報を整理したが、本来、富田衆内での有力者であったはずの宇山氏であったが、美作国に派遣されたことにより、晴久奉行人として発給文書に連署することはなく、ある意味では新宮党とともに政権中枢から外された存在になったと評価 できるのではないか。
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所感
●尼子筆頭家老にしては城域の規模も小さく本当にここが宇山氏の居城か?と思うくらい小規模な山城。
●山頂は数年間は整備していないのでは?と思う位ススキが生えていた。
●縄張図が無いため詳細なことが分からなかったが実は広いのかもしれない。
●宇山氏には尼子義久により誅殺された久兼親子のほかにも宇山誠明という人物がいる。
久兼との関係は不明ながら、兄弟の可能性もある。「誠」という通字から尼子誠久との関係が示唆される。
おそらく新宮党の粛清で大きく力がそがれ、毛利の月山富田城侵攻時には久兼とは相反して早々に毛利に寝返ったと思われる。
しかし、最終的には尼子義久の降伏時に安芸国に幽閉された時に追随した家臣の中に宇山右京亮がいるのでこの誠明だと思われる。
関連URL
同じ朝山一族だと思われる城。
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『日本城郭大系』14
『島根県の地名』
『島根県地名大辞典』
『出雲の山城』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『尼子一門のルーツ』
公開日2022/01/02