城データ
城名:高櫓城
別名:高矢倉城、須佐城
標高:307m
比高:157m
築城年:戦国時代か
城主:亀井永綱,本城常光,熊谷広実,熊谷元実
場所:島根県出雲市佐陀町反辺
北緯:東経:35.246047/132.714865
攻城記
高櫓城跡
この山城の始まりは、 文明十八年(一四八六 年)頃に尼子氏の家臣、亀井永綱が守りにあた った頃からです。
以後、永禄五年(一五六二年)本庄常光が毛利氏によって亡ぼされるまで城督となり、尼子氏滅亡後は熊谷広実、続いて広実の長男元実が城督になりますが、慶長五年(一六〇〇年)関 ヶ原の合戦の後、西軍に属した毛利氏は 萩に移封され、熊谷元実をはじめ重臣た ちは主家と共に萩や岩国へ移ると同時にこの城も廃城になりました。
攻城開始。
石段を進んでいく。
途中の合間からみた風景。
最初の曲輪。
笹で行きにくい。
比高が高いので眺望も良い。
石垣は熊谷時代に積まれたか。
本丸部分到着したが、藪化で進めず。
宇佐八幡が祀ってある。
周辺部。
櫓台跡。
秋葉大権現。
高櫓城全景
余湖図【高櫓城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
出雲と石見、山陰と山陽をつなぐ街道の要衝に位置する。その縄張りは広く、集団城郭形式をもつ城で、主郭を囲む周囲の丘陵にも後詰めに備えた陣形を配置する。
永禄年間初期までは尼子の城として本庄常光が城督であったが、永禄五年(1562)に常光が元就によって粛清された後、毛利方の城として関ケ原の戦いまで続く。
主郭部の北側を削り落とした壁にし、堀切と郭群を連続させ、南西側の緩斜面には郭群、腰郭の下方に連続竪堀、蛇行する通路には横矢構えなどを備えている。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
高櫓城
高櫓城は村中央部の標高三〇七メートルの高櫓山頂を主郭として、ほぼ全村を縄張りにした戦国時代の山城である。
「雲陽誌」は「高矢倉山といふ、尼子晴久の幕 下本庄越中守居城なり、尼子敗軍の後此山落城す、毛利輝元の旗下熊谷与右衛門を籠をかる」と伝える。
本庄(本城)越中守常光は天文二三年(一五五四)の須佐神社の造営に関与した人物で、永禄五年秋に毛利元就の謀略によって 一族ことごとく誅殺されたという。
現在も山頂には宇佐 八幡を祀る郭のほか、堀切、畝状の竪堀群や帯郭なども残り、周りの丘陵にも郭群を配置するなど、堅固な城郭 の形態を残す。
注目されるのは山腹の郭群の中に製鉄遺構がみられ、武器の自給体制を備えたものといわれる。
『島根県の地名』より引用。
城の歴史
文明18年(1486):この頃亀井永綱が入城したと伝わる。
大永3年(1523);この頃本城常光が入城する
※本家の高橋氏は1530年頃に毛利によって滅ぼされる。
永楽3年(1560):本城常光が山吹城の城主も兼務する。
永禄4年(1561):本城常光が須佐神社の宝物を奪い、また神社領を押領したなどの罪で毛利元就に誅殺される。
※ただしこのような横領という事実が本当にあったかどうかは不明。
永禄5年(1562):熊谷信直の三男である熊谷広実が城主となる。
永禄12年(1569):尼子再興軍の山中幸盛に開城を迫られるが使者を切り捨て徹底抗戦する。
『萩藩閥閲録』巻42 熊谷与右衛門
元亀元年(1570):熊谷広実が没する 子供の熊谷元実が跡を継ぐ。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いにて萩に移動する、城も廃城となる。
城主家系図
城主石高
永禄5年(1562)に熊谷広実が高櫓城の城主となった時は
須佐五百貫
乙立三十九貫
古志内百貫
合計639貫を賜っていた。
『萩藩閥閲録』巻42-4 熊谷与右衛門
天正19年(1591)頃の所領
熊谷与右衛門(元実)
総石高 758.294石
内訳 446.876石 出雲 神門
110.591石 周防 玖珂
200.827石 安芸 佐西
所感
●城自体は以前は公園のようであったが、管理も不十分で荒れている。
●熊谷広実は若く亡くなり、萩に行くことが無かった、長生きしていれば出雲熊谷氏もあったかもしれない。
●亀井永綱が城主であったとあるが資料からは確認できない。
関連URL
熊谷広実の実家である高松山城。
本城常光の本貫地である本城。
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『日本城郭大系』14
『島根県の地名』
『島根県地名大辞典』
『出雲の山城』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2021/12/25