城データ
城名:松江城
別名:千鳥城
標高:25m
比高:20m
築城年:慶長12年(1607)堀尾吉晴と孫の忠晴によって築かれる。
城主:堀尾氏、京極氏、松平氏
場所:島根県松江市殿町
北緯:東経:35.475635/133.050290
攻城記
堀尾吉晴公がお出迎え。
最初の高石垣。
最初で勘当するレベル。
二の丸跡。
二の丸も結構広い。
登っていく。
このアングルが隠れスポット。
絵になるアングル。
石垣との相性も良い。
形のいい石垣。
そのまま本丸ではなく、進んでいく。
苔むした石垣が良い。
馬洗池、本当に馬を洗っていたのか。
進んでいく。
護国神社。
搦手から本丸に進んいく。
実は松江城もこのような部分がある。
井戸跡。
瓦の残骸もある。
観光客は訪れない場所。
ここが松江城の魅力でもある。
一周して本丸に向かう。
西ノ門。
本丸天守閣に到着。
史跡松江城
昭和九年五月一日国指定 堀尾氏は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦で武功をた てた堀尾忠氏(堀尾吉晴とする説もある)は慶長五年(一六〇〇) 出雲・隠岐両国二十四万石(二十三万五千石とする説もある)を、 与えられ、広瀬の富田城に入城した。
しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ大砲などを使 う近代戦に不利であったことと、待を住まわせるに広大な城下街 を形成しなければならなかったことなどの理由からこの極楽寺山 (亀田山とも言う)に城地を移した。
築城工事は、慶長十二年(一六〇七)から足かけ五年を費やし 慶長十六年(一六一一)に一応の完成をみた。
城地の広さは東西 三百六十米、南北五百六十米あり、周囲に幅二十と三十米の内藻 をめぐらす。 標高二十八、一米の頂上部に本丸を置き、荒神橋をはじめ六か 所の櫓とそれをつなぐ細長い多門がめぐっている。
天守は本丸の 東北隅に築かれている。
二之丸は本丸の南側に一段低く隣接し御 書院や御広間などがあった。
本丸の東側の平地は二之丸下の段と 呼ばれ薄士の扶持米などの米蔵が立ち並んでいた。
その外、本丸の周辺には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪があ った。
城山の南には三之丸(今の県庁附近)があり藩主の御験が あった。
石垣用の石材は、松江市の東部、大海崎、福富地区の山勝から 産出する安山岩(いわゆる大海崎石)が大屋に使用され堀尾氏 の家紋である分銅型などの刻印 が認められる。
城主は堀尾氏、京極氏と続くが、いずれも嗣子なく断絶した 後、松平氏が十代続き一度の戦子 新を迎えた。
戦乱にまき込まれることなく 明治八年(一八七五)無用の長物と化した想や多門など多く の建物はことごとく壊されたが 天守だけは旧薄士や豪農の懇講 により保存されることになり山陰地方唯一の現存天守として の威風堂々たる偉容を今も宍道 湖群に映し出している。
昭和五十五年三月
松江市教育委員会
側面の松江城。
搦手の方向。
中櫓。
堀。
外側からみた松江城。
松江城ベストアングル
宍道湖
位置関係
余湖図【松江城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
この城は、湿地帯に突出した丘陵に築かれた近世城郭である。堀尾吉晴が出雲・隠岐二十四万石の大守に封 じられて広瀬町の富田城に入ったのち、この地に移 り城を築いた。五層六階の天守閣がほぼ創建当時の状態で残る。
個々の銃眼の向きが固定されている等、実戦的な構えである。
縄張りは、南から東にかけて高石垣がめぐり、鉄砲隊を幾重にも配置できる構造となっている。
一方、北から西にかけては石垣がほとんど築かれていない。
通説ではこのことから未完成とされるが、詳細にみると通称「本九部」の北側に、二つの防御拠点が認められる。一つは、城の北端に位置する現城山稲荷神社付近である。
もう一つは、現護国神社のある地点である。この地は、通称「本丸部」 と大堀切を隔てて立地 し、通称「本丸部」の西側を側面から射撃する拠点として評価できるのである。
全体の縄張りに関してさらにいえば、西側は東側から南側のように高石垣を巡らすなど、派手さはないが、きわめて実戦的な縄張りといえる。
また、近世に築かれた浜田城、米子城と同様に、城の中核部に船が着くことから、水運を強 く意識 した縄張りとも考えられる。
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用。
松江城
松江城は松江市の市街地を南北に分断する大橋川の北側、末次に所在し、島根半島の山脈から派生する標高二八・四mの亀田山(現在の城山)と呼ばれる小 高い丘陵に構築された平山城である。
松江城を築いたのは堀尾吉晴である。
堀尾氏は尾張国丹羽郡の豪族であったが、吉晴は若くして豊臣秀吉に仕え、備中高松城水攻め、明智光秀の追代、賤 ケ嶽の戦、越前北ノ庄攻城、小牧長久手の戦、九州征伐、小田原征伐などに武功を立てた。
秀吉の没後、三中老の一人として、五大老と五奉行の間の調停役を勤め、徳川家康の信頼を得るところとなった。
関ヶ原の合戦には次男忠氏が東軍として参戦し、大垣城を守った。
これら一連の戦功の行賞として、関ヶ原 の戦後吉晴は遠江浜松から出雲・隠岐二十四万石の大守に封じられた。
慶長五年十一月、吉晴・忠氏父子は広瀬富田城に入城した。
しかし、富田城は①向かいに京羅木山という高い山があって、鉄砲による合戦には不利である こと、②交通が不便であること、③城下町を経営するのに狭いことなど、近世大 名の城郭としての諸条件にかなっていなかったので、吉晴らは移城を決意した。
城地の選定にあたって、吉晴の胸中にあったのは、尼子討滅戦の時、毛利元就が主要な基地としておおいに活用した島根郡の宍道湖岸の諸城のことであった。
吉晴父子は松江市の橋南地区(白潟郷)にある元山(のちの床几山)から北方末次郷の山々を視察し、候補地を洗合山と極楽寺山(亀田山)の二つにしぼった。
洗合山は宍道湖に突き出た洗合崎にあり、永禄五年(一五六二)、毛利元就が出雲 に攻め入ったとき、この山上に荒隈城を構築して富田城攻略の前線本部とした所である。
同九年、富田落城後は廃城同然になっていたようである。
吉晴はこの洗合山が最適と考えたが、忠氏は城地としてはあまりにも広すぎ、五十万石 以上の大名でなければ維持困難であるとし、極楽寺山が適地であると主張した。
極楽寺山にはもと末次城が築かれていたといわれるが、南に大橋川と宍道湖が あって天然の外堀をなし、東西は沼地で敵に向城を築かせる余地がなく、北は山続きで、白鹿の古城に遠見を置けば堅固な守りとなるというものであった。
結局、容易に結論をみなかったが、忠氏が二十七歳で急死し、嫡孫三之介(忠晴) もわずか六歳であったので、吉晴が再び国政をみることとなり、忠氏の遺志を尊重して、極楽寺山に築城を急ぐこととなった。
忠氏の忌明けをまって工事が 開始された。
築城の期間については異説もあるが、『堀尾古記』や『雲陽大数録』などの文献によって、慶長十二年に着工、同十六年に完成したとみるのが妥当とされている。
吉晴は加藤清正と並んで「普請上手」と称されたが、さらに繩張りは当代一 流の小瀬甫庵が担当した。
丘陵中央の最高所に本丸を置き、その東側に中郭 (二の丸下の段)と外郭、西に後郭と外郭、北に腰郭、南に二の丸を配し、これ らの郭の外周には内堀をめぐらす、というものであった。
第一年次(慶長十二年)は資材運搬用の道路、橋梁を建設し、殿町・母衣町・ 中原町の造成と本丸・二の丸の地ならしが完成した。
第二年次は本丸の石垣、 天守閣の土台石垣、内堀などの工事に着手し、天守台は同年完成した。
内堀工事の中でも、極楽寺山から北方へ続く宇賀山という丘陵を切り崩し、塩見畷の 備をつくるのはもっとも人力を要した。
堀の幅六四m、道路や武家を入れると全幅は九〇mにおよび、長さは二四〇m、掘下げは最深部で一〇m、廃棄土砂は実に五万九五〇〇mにも達し、この土砂で田町や内中原の沼沢地を埋め立てしたといわれる。
近代的建設機械の存在しない当時、すべてを人力にたよる苦労ははかり知れないものがあった。
第三年次は天守閣の建造、二の丸坂口、大手口桝形、大手の堀の石場 建築に着手し、翌四年次には天守および二の丸御殿が竣工、塁堀も した。
第五年次は総仕上げの年であり、初年次より進めていた待屋敷が完成し、家臣団は富田城下より移住した。
吉晴は城郭完成の直前、慶長十六年六月 十七日、六十九歳で松江城内に没した。
跡は嫡孫忠晴が継いだが、二の丸の南方山麓にある三の丸は、忠晴の代に築造され、その後、京極忠高により修築さ れて完成した。
本丸には東北寄りに五層六重、本瓦葺、望楼式の独立天守を現存し、 は六か所の櫓(祈藤櫓、武具櫓、弓櫓、坤櫻、鉄砲櫓、乾/角箭倉)が築かれ、 多門がこれらの櫓を連結していた。
昭和五十三年度と五十四年にかかる発掘調査では、十七世紀末に製作されたと考えられる「松江城縄張図」の記載ど おり礎石群が検出された。
天守閣の遺構は山陰地方唯一であるばかりか、桃山期の特徴をよく残し、姫路城のごと き華麗さよりも、むしろ軍事的な用途を考慮 しており、城郭建築史上きわめて貴重である。
土台の石垣をあわせて高さ約三〇m、第二層までは黒の下見板張りで外見は簡素である。
各所に袋狭間(銃眼)が装備され、最上の第五 層は四方を展望できる望楼となっている。
内部の階段には桐材を使用し、柱の多くは寄木 柱とし、鉄輪でしめたものである。
全体として経費節減のために、古い形式の採用となっ たが、それがかえって一つの特徴を残す結果 になっている。
二の丸は、本丸の南に隣接して一段低い所 にある。
初期の頃は櫓が四か所(東の櫓、太 鼓櫓、中櫓、南櫓)と三か所の門および塀が あるだけであったが、松平氏の代以後、北側 局長屋、東側局長屋、番所、御広間、御式台、 御作事小屋、御書院、御広式、上御台所など がところ狭しと建てられていた。
二の丸下の段は本丸の東に位置し、本丸の七倍の広さを有する。
初期の頃は二棟の米倉 と塀以外には建物はなかったが、十七世紀末までには御小人長屋、源蔵居所、荻田表長屋 などが建てられている。
米倉は天保年間(一八三〇~四四)に追加され、計七棟がところ 狭しと並んでいた。
これら米倉については、昭和四十七年度から四十九年度まで三次にわたり、公園整備にかかる発掘調査 がなされ、「松江城縄張図」どおり米倉の石積基壇が検出された。
三の丸は城の南側平地に所在する。
東西一二八m×南北一一一mのほぼ正方形なし、四周を堀で囲み、瓦塀の内側に藩主の居館が複雑に建ち並 三の丸表門、北・西・南には廊下橋があって、二の丸・お花畑・御鷹部屋へ通じていた。
石垣に使用した大量の石材のほとんどは、市街地から東へ約四畑のところにある嵩山の山裾から切り出される「犬海崎石」と呼ばれる灰色もしくは暗桃色の角閃石粗面安山岩および矢田地区(松江市)で産出する黒色の角閃石粗面玄武岩である。
石工は、穴生衆や大坂方面から動員したらしい。
石垣はごぼう積みあるいは 野面積みで、石垣の所々に堀尾家の家紋である分銅印など種々の刻印が認めら れる。
内堀に面した北側と西側は石垣が築かれず、切岸になっている。
堀尾氏は三代忠晴に嗣子がなく、京極忠高がこれに代わったが、これまた一 代で断絶した。
この後寛永十五年(一六三八)、松平直政が信濃松本城から移封 されて城主となった。
以来、一度も戦乱に巻き込まれることなく十代定安まで 続き、明治維新を迎えた。
直政が出雲に入国した時、随従してきた御大工頭竹内右兵衛は、ただちに天守を検分したところ、荒廃がひどく全体が傾斜してい たので修理したといわれるが、完成から三十年たらずで果たして傾くほど痛ん でいたのか疑問である。
廃落置県にあたり、知藩事だった松平定安は城地をあげて島根県庁に譲渡した。
松江城と三の丸御殿は陸軍省の所管となったが、修繕費の出所がなく、荒 れるにまかせる状態であった。
明治八年、広島鎮台は松江城の諸建造物並びに 三の丸の御殿等を民間に払い下げることにし、五月十九日より順次入札したが、 いずれも二足三文の安値で落札した。
櫓は四十五円、天守閣のごときも一八〇 円で落札された。
このとき、出雲郡坂田村の豪農勝部本右衛門は、伝統ある松江城の消滅することを惜しみ、旧藩士高城権八等と八方奔走し、ついに落札停 止の処置を得た。
その他の建物はことごとく取り払われたから、松江城は廃墟 のごとき荒涼たるありさまであった。
明治十八年、松江城山一帯は再び松平氏に払い下げられ、当時の県知事籠手安定は、松江城旧観維持会を設立し、広く有志から資金をつのったが、明治 二十七年、解体修理が行なわれた。
昭和二年、松平家は天守閣と城山一帯を松 市に寄付し、現在にいたっている。
なお、三の丸跡には明治以来島根県庁が所在している。
『日本城郭大系』14より引用。
城の歴史
第一次
慶長12年(1607):資材運搬道路、橋梁の建設。城下町の造成と、本丸、二之丸の地ならしが行われる。
第二次
慶長13年(1608):本丸の石垣、天守台、内堀が造られる。北側の尾根続きの部分は、山そのものを削って平坦にするという大工事であったという。
第三次
慶長14年(1609):天守の建造、二之丸坂口、大手口枡形、大手堀の石垣、二之丸御殿の建造に着手。
第四次
慶長15年(1610):天守、二之丸御殿が竣工、堀も完成した。
第五次
慶長16年(1611):この年が総仕上げの年であり、侍屋敷が完成して家臣団が富田城下から移住してきた。
城主家系図
松江藩初代堀尾氏、忠晴の正室は徳川家康の曽孫にあたる。
ただし、男子おらずに亡くなった為断絶。
京極氏も正妻が徳川家康の孫にあたる。
こちらも子どもがおらず亡くなったため断絶。
最終的に松平氏が松江藩に入部して明治維新まで続く。
直政は徳川家康の孫にあたる。
全ての家で徳川家康との関係がある。
城主石高
堀尾時代:24万石。
京極時代:24万石+4万石。
松平時代:18.6万石+1.4万石。
所感
●国宝として誰もが認める近世城郭。
●天守閣も素晴らしいが、様々な角度から確認すれば魅力も分かる。
●写真映えするところも多く、是非とも自分の目で確認すべき城。
関連URL
堀尾親子が決めかねていたもう一つの選定地。
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『日本城郭大系』14
『島根県の地名』
『島根県地名大辞典』
『出雲の山城』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2021/12/25