城データ
城名:鏡山城
別名:黒坂城
標高:320m
比高:80m
築城年:慶長15年(1610)関一政によって築かれる。
城主:関一政
場所:鳥取県日野郡日野町黒坂
北緯:東経:35.206573/133.380952
攻城記
JR黒坂駅の正面に位置する、看板があるので分かりやすい。
この石垣が往時を物語る。
特上当時は立派な城だったと思われる。
中心部に入っていく。
この石段も藩主が登ったのかもしれない。
陣屋。
黒坂鏡山城
伊勢亀山の城主、関長門守一政(三万石)が、二万石 加増され、五万石で遠く黒坂の地に国替えになったのは、 今から約四百年前、慶長十五年(一六一〇)の事である。
関氏は平氏から続く伊勢の土豪で、一政は、織田信長、 豊臣秀吉、蒲生氏郷、徳川家康等の配下として戦った歴戦の武将で、黒坂に来るまでは奥州白河、信濃、美濃、 伊勢と次々国替えになっている。
また、和歌を詠んだり 当時の文化人との交流もあったようである。
当時の黒坂は竹木が生え茂り人住むところには見えな かったという。
四方を山に囲まれ日野川が周辺を巡り、 築城の条件にかなう適地として選ばれた。
城と同時に町 造りもされ、五万石に相応しく大規模な町並みが、現在 の町割りにほぼそのまま残っている。
この城下町全体は 「総構え」と云い、戦国期の城に見られる。現在天守等は確認されていないが、堀、石垣、表口の大手、裏口の 搦手(からめて)、枡形虎口(ますがたこぐち)等、近世の城郭の様式がある。
しかし関氏の居城は、わずか約八年にして「家中争論」を理由に領地を幕府に召し上げられた。
これは外様大名 の宿命であった。そして幕府の「一国一城令」により城は廃され、居館がその後陣屋として使われた。
大名でなくなった関家は、一政の養子「氏盛」が名跡存続を許され、旗本寄合として、近江蒲生に五千石を与え られ数々の活躍をしている。
一政は寛永二年(一六二五)十月二十日、六十一歳で 死去。
京都大徳寺正受院(しょうじゅいん)に妻や早世した二人の実子と並んで墓がある。
また、当時をしのばせる物語、文書が数点あるが、後世、 読み物として書かれたもので大変面白く、興味深いもの がある。
新たに鳥取藩主池田光政の重臣、池田下総守長政が一万四千五石で陣屋に入り、十五年間治めるが、この間の 記録は余り見られない。
次いで寛永元年(一六二四)より明治二年に至る二百 年余りは、鳥取藩主池田光仲の番頭(ばんがしら)筆頭の福田氏による治世が十一代続き、その間自分手政治(行政の一部を任されること)を行った。
福田氏は地頭様とよばれ、知行は三千五百石で黒坂を中心 に十八カ村を領し、平素は鳥取に居て黒坂にはほとんど 来ることなく、城奉行として山上半太夫(世襲)を常駐 させその任に当たらせていた。
奉行屋敷は現在の黒坂駅前に並んでいた武家屋敷の中にあった。
なお、福田氏四代、八代の墓地は「お墓さん」と言って福田家に相応しい大きな墓が城址の北方にある。
安政五年(一八五八)には日野郡を二分し、□日野、 奥日野にそれぞれ郡役所が設けられ、明治二年十一月、 幕府政治の終わりとともに、黒坂陣屋は旧藩主池田家へ引き揚げとなり、明治三年には黒坂陣屋は日野郡の郡役所として二年間使用される。
不明の個所も数多いが、これからの調査によって更に解明されることと思う。
近世城郭として整っていたと思われる。
本陣だけでもかなり広く、ここに藩主がいたと思うと感慨深い。
井戸跡。
本丸に進んでいく。
途中の石は石垣の残骸か。
削平地。
山頂本丸付近。
城下町を臨む。
いい街並み。
陣屋まで降りてくる。
聖神社
歴代の統治者に崇拝されたいた神社。
余湖図【鏡山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
大きく頂上部の主郭周辺の群、北側の尾根部分に位置する郭群、東側山麓部の郭群に分けられる。
丘陵の北側には二本、南側には三本の竪掘が見られる。
主郭は丘陵頂部にあり、東西辺に低い土塁が配される。
主郭の西側には狭長な腰郭が取り付き、部分的に土塁状の高まりがある。
主郭の北に位置する郭には南辺に沿って土塁が築かれ、虎口が認められる。
また郭は尾根筋だけでなく、南西斜面部にも一部段状に削平された郭状の平坦地が認められるが後世の削平の可能性もあり郭かどうかは不明。
北側の郭群は中央に小高い段を設け、西側の土塁状の高まりとあわせて狭隘な通路状の形態をなす。
また、山麓部は近世初頭、関氏の手による部分で北側には枡形虎口がみられる。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』より引用。
鏡山城
鏡山城は国鉄伯備線黒坂駅のすぐ西側の高見山にあった。
山頂の本丸は「南 北十五間(約二七m)、東西八間(約一四四m)」の平地で、また麓には「南北三十 三間(約六〇m)、東西二十二間(約四〇m)」の居館跡もある。
このほか堀や土塁・石垣なども残っており、東を大手としている。
慶長十五年、関一政が黒坂 五万石の城主となり、この地に築城したものである。
関氏は伊勢国鈴鹿郡関の出で、一政の父盛信の時は伊勢亀山城主であったが、 一政は慶長三年、信濃飯山三万石の城主となり、同五年、美濃多羅城三万石の 城主に転封された。
関ヶ原の戦ののち一時、伊勢亀山城主となったが、同十五年七月、伯耆黒坂へ移封となり二万石加増されて五万石の城主となった。
関氏が鏡山城を築城するまでの黒坂には日野川沿いに古市・榎・高里の三集落が点在しているだけで、「薄霧立ちのぼり茫々たる沢野にて人住里とは見え」 (『黒坂開元記抄』なかったという。
しかし、地形的には「東南の方大河を抱き 北は谷の流れを請て大沢あれば、三方共に備へよく四方山に包むといへ共、当 山へは間を隔、矢石の届く所もなく分内としても狭からす山中に於ては当所ほ どの処も」『伯州黒坂城物語』)なく、関氏の居城地として適切な要害の地であ った。
しかし、地形的には「東南の方大河を抱き 北は谷の流れを請て大沢あれば、三方共に備へよく四方山に包むといへ共、当山へは間を隔、矢石の届く所もなく分内としても狭からす山中に於ては当所ほどの処も」今伯州黒坂城物語』なく、関氏の居城地として適切な要害の地であ った。
しかし、関氏は鏡山在城十年足らずで、嗣子がなく元和三年(一六一七)に断絶した。
そして、同年、池田光政が因幡・伯耆二国の領主となると、その老臣池田下総を当城に配した。
その後、寛永九年(一六三二)、池田光仲が鳥取藩主となると、黒坂には番頭筆頭福田氏を配し「自分手政治」を行なわせた。
福田氏は平素は鳥取にいて黒坂には城奉行を駐在させており、これを黒坂陣屋と称した。
『日本城郭大系』14より引用。
城の歴史
慶長15年(1610):関一政が入部する。
慶長17年(1612):築城開始。
慶長19年(1614):完成。
元和3年(1617):関一政が家中不統一で改易。
元和4年(1618:廃城して黒坂陣屋へ縮小する。
城主石高
関一政時代:5万石
所感
●遺構がしっかり残っており、築城当時が立派な城だったと思われる。
●山頂部に詰城もあり、こちらも整備して欲しい。
●改易された理由が家中不統一だが、どんなことがあったのであろうか。
関連URL
鏡山城が完成するまで居城していた城。
参考URL
参考文献
『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』
『日本城郭大系』14
『鳥取県の地名』
『鳥取県地名大辞典』
公開日2021/12/19