城データ
城名:富長城
別名:富長館跡
標高:22m
比高:20m
築城年:元弘年間(1331~34)
城主:荒松氏、福頼左右衛門尉
場所:鳥取県西伯郡大山町富長(富長神社)
北緯:東経:35.499837/133.475435
攻城記
現在は富長神社となっている。
堀の跡か。
おそらくここが本丸跡。
本殿。
城域は平たんで城というよりは館跡の雰囲気。
周辺部。。
この道は当時どのような感じであっただろうか。
最高所から日本海を臨む。
富長城の矢竹。
普通は神社だと思うが、この標識で城跡だと認識できる。
余湖図【富長城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
日本海に面した丘陵先端に位置する。
主郭は五角形を呈し帯郭が巡る。
東西両側に虎口状の部分が見られ、西側に二つの郭が見られる。
福賴左衛門慰が居城したとされ、大永4年(1524)に廃城したと推定される。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』より引用。
富長城
富長城は和町富長集落の西端、いま富長神社の境内になっている所にあった。
元弘の頃、名和氏に協力した荒松氏が築いてこの地の防備にあたったと伝えられており、また戦国時代には、西伯の土豪福頼左右衛門尉が在城したともい われている。
『伯耆・出雲郷土史跡めぐり』には、「鎌倉時代の土豪の館跡が現代まで残っ ていることは貴重な存在と思わねばならない」と記されている。
遺構は、北側に土手を築き上げ「長六十間(約一〇八m)、横五十間(約九〇 『)位」におよび、これを軸として三方を囲むように堀切がある。
その南側に は「長四十間(約七二m)、横三十間(約五四m)位」の土塁によって堅固に守ら れていた跡がはっきり残っている。
西北隅にはいまも物見台の跡という一段高い土塁が残っており、いま富長神 社の社殿のあるあたりにはもと陣屋があったといわれ、また東北隅には「駒ノ 馬屋」という所があるが、ここには駒井刑部という武士の馬屋があったといわれている。
『日本城郭大系』14より引用。
富長城跡
富長の西端、東上松の富永神社境内およびその付近に位置する。
富長館跡とも称される。
元弘三年(一三三三)名和長年が家臣の荒松兵庫に命じて、出雲と伯者を結ぶ街道上で海路からの上陸候補地の一つと目された当地に柵 を造らせ、隠岐守護佐々木清高軍を防いだのを創始とする説がある(千入史網)。
戦国時代は福頼氏の居城であったといわれ、延享三年(一七四六)の汗入郡御通筋村々厘付帳 (門脇家文書)の富長村の項に、古城として、城主福頼左衛門尉とある。
大永四年(一五二四)尼子氏によって落城したという。
遺構として日本海側に長さ六〇間、幅五〇間の 土塁が残存し、北西隅に残る一段高い土塁跡は、物見台跡といわれる。
富長神社の社殿辺りが陣屋で、北東隅が 駒井刑部という馬術に優れた人物の馬屋の跡(駒ノ馬屋)で あったという(千入史綱)。
当城は当初は砦、次いで平城となったとみられ、中世土豪の居館跡をよく残すものといわれる。
『鳥取県の地名』より引用。
城の歴史
元弘3年(1333):名和長年の命令で家臣の荒松兵庫が築城する。
この頃佐々木高清が攻めてくるが撃退する。
大永4年(1524):尼子が攻めてきて(大永の五月崩れ)落城する。
所感
●普通に行けば城跡だとは思わず、神社だと勘違いする。
●鎌倉時代末期から室町時代に砦から始まり、館化していったものだと思われる。
●当時周囲は堀で囲まれていたと思われ、案外防御力が高い館だったのかもしれない。
●城主福頼氏は淀江の方の地侍だと思われる。。
石高
吉川元春から東伯耆の中で1400石を賜ったとある。
関連URL
参考URL
富長城 -伯耆の城ー – 秋田の中世を歩く
参考文献
『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』
『日本城郭大系』14
『鳥取県の地名』
『鳥取県地名大辞典』
公開日2021/12/19