城データ

城名:船上山行宮跡

別名:船上山城

標高:675m

比高:420m

築城年:不明

城主:後醍醐天皇がこの場所で籠城している。

場所:鳥取県東伯郡琴浦町大字山川

北緯:東経:35.428335/133.591488

船上山行宮跡はここ

 

攻城記

絶壁の屏風岩が出迎える。

滝も流れる船上山。

幕府軍もこれは攻められない。

 

船上山行宮

船上山(標高615.6m)は、勝田ヶ山・甲ヶ山・矢筈ヶ山に連なり約100万年前の古期大山火山活動で形成された山である。
特に比高100m以上の屏風岩といわれる柱状節理による絶壁は四季を通して美しい。
古来より大山寺・三徳山とならび山岳仏教が栄えた地として知られ。
平安時代前期に金石寺が創建された。この寺の梵鐘が国宝として福岡県早良町の西光寺に現存する。
そして建武新政前夜の元弘3年(1333)閏2月28日に後醍醐天皇は名和長年に奉ぜられ、金石寺に入られ3日間の合戦で北条勢を破り、その後、奥の院北側に仮宮が造営されたと推定し、船上山に約80日間行在された。
その後の金石寺の変は不明である。
そして、室町時代後期の享禄3年(1530)に智積寺が創建された。
しかし中世の戦乱により安土桃山時代末期には船上山三所権現(現船上山神社)を残して凡ての寺坊は山下に離散した。
現在智積寺は以西の竹内にある。

琴浦町教育委員会。

 

 

登り始めて一番山頂に、船上山行宮之碑がある。

木戸として機能していた遺構。

この場所が城としての遺構が分かる場所。

 

墓石群

 

 

年代は不明ではあるが形態から古いものだと推測される。

 

寺坊跡

多くの寺坊が往時はあったと思われる。

 

古墓

 

文保2年(1318)の年号が彫ってある。

 

他にも墓石が積まれている。

 

智積寺跡と船上神社

 

 

今では笹が生い茂っている。

奥の院。

 

後醍醐天皇行宮跡

静謐さが漂ってくる。

 

推定金石寺本堂跡

 

瓦の残骸もあった。

 

 

麓を車で通るとこのような五輪塔の墓所があった。

 

余湖図【船上山行宮跡】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

 

城の概要

元弘3年(1333)関2月から5月に置かれたとされる後醍醐天皇の行宮所の特定はできていないが、船上山は平安時代以来の山岳仏教の聖地であり、現在見られる土塁と虎口は大山寺末寺の僧坊跡と推定される。

 

国指定史跡。

 

『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』より引用。

 

城の歴史

元弘3年(1333):名和長年がこの地で後醍醐天皇を迎い入れる、そして来攻してきた幕府軍を撃退する。

 

大永4年(1524):尼子経久が伯耆攻略(大永の五月崩れ)の際には一山焼失したと伝えられる。

 

天正8年(1580):羽衣石城攻略の為に、吉川元春が「船上」に陣を布く。

 

16世紀末:豊臣秀吉が寺領を没収するにあたり、僧侶は四散して没落していく。

 

所感

●城というよりは神社仏閣の雰囲気がある。

 

●古い苔むした五輪塔や宝篋印塔を見るとこの地にで戦があったと思われる(基本僧侶は卵塔墓なのでこれらは武士の墓になる)

 

●奥にいくと行宮や奥の院などもありが、静寂に包まれて、当時の雰囲気が感じられる。

 

関連URL

 

参考URL

船上山城(ウッキペディア)

城郭放浪記(伯耆船上山行宮跡)

古城盛衰記(船上山城)

山城攻城記(船上山城)

 

参考文献

『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』

『日本城郭大系』14

『鳥取県の地名』

『鳥取県地名大辞典』

公開日2021/12/18

 

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