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城データ

城名:羽衣石城(うえしじょう)

別名:無し

標高:376m

比高:280m

築城年:不明(南北朝の頃か)

城主:南条氏

場所:鳥取県東伯郡湯梨浜町大字羽衣石

北緯:東経:35.437189/133.898537

羽衣石城はここ

 

攻城記

途中まで車で行けて楽なお城。

登城開始。

物は言いようだが、このような自然地形も巧みに利用していたことが分かる。

20分も歩くと山頂に到着する、目の前に立派な模擬天守が建っている。

子孫の方が建てたらしい。

整備されており遠く日本海も遠望できる。

曲輪も長大。

更に進む。

帯曲輪も立派。

本丸は広くて籠城に適している。

 

羽衣石城の歴史

 

羽衣石城は、東伯耆の国人・南条氏の居城として貞治5年(1366)から慶長5年(1600)まで約234年間使用された城であるが、城主の南条氏をはじめ、羽衣石に関する記録は「羽衣石南條記」「伯耆民談記」などの少数のものしか伝えられていない。

 

また、これらの諸本の成立年代は、南条氏が滅んだ後、百数十年たった江戸時代の中ごろのものであり、どこまで事実を伝えているかは疑問であるが、南条氏を知る一つの手がかりである。

 

さて、これらの諸本によると、南条氏の始祖は南条伯耆守貞宗とし、この貞宗は塩冶高貞の二男で高貞が滅亡したとき、越前国南条郡に逃れた。

 

 

この貞宗は成長後、将軍足利尊氏・義詮の父子に仕えて功績をあげ、義詮より伯耆守に任ぜられて、貞治5年(1366)に羽衣石城を築いたという。

 

この南条氏の活動が盛んになるのは、応仁の乱以後である。明徳の乱(1391)、応仁の乱(1467~77)のために、伯耆国守護山名氏の権力が衰退するに乗じて、南條氏は在地支配の拡大を目指して独立領主化をはかり、第8代南条宗勝の時には、守護山名澄之の権力を上回る武力を保持するにいたった。

 

大永4年(1524)、隣国出雲の尼子経久は、伯耆国へ本格的な侵攻を行い、西伯耆の尾高城、天満城、不動ヶ城、淀江城ならびに東伯耆の八橋城、堤城、岩倉城、河口城、打吹城の諸城を次々に攻略し、同年5月中ごろまでにはこれらの諸城は降伏してしまった。

 

南条氏の羽衣石城も落城し、城主の南条宗勝は因幡へ逃亡した。

 

これを「大永の5月崩れ」といい、この乱後、伯耆国は尼子氏の支配するところとなり、羽衣石城には尼子経久の子・国久が入城した。

しかし、尼子氏の伯耆支配も長く続かず、毛利氏の台頭とともに永禄年間(1558~1569)には、支配権を失った。南条宗勝は永禄5年(1562)に毛利氏の援助により、羽衣石城を回復している。

 

以後伯耆国は毛利氏の支配下に入り、南条氏はこのもとで東伯耆三郡を支配した。

 

天正7年(1579)、織田氏の山陰進出が本格的になると、南条元続は毛利氏を離反して織田氏についた。

 

毛利氏は羽衣石城を攻撃し、元続は因幡に進出していた羽柴秀吉の援助などによりこれに対処したが、天正10年(1582)羽柴秀吉の撤退とともに落城し、城主元続は京都へ逃走した。

天正13年(1585)秀吉と毛利氏との間で、領土の確定が行われ東伯耆八橋城を残して、秀吉が支配するところとなり、再び南条氏に与えられた。

 

しかし慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の役で、西軍に属した南条元忠は没後改易され、羽衣石城は廃城となった。

 

東郷町教育委員会

 

この城の特徴といえばやはり模擬天守。

日本海の白波も当時見えていたであろう。

東郷湖も見える。

本丸から帯曲輪を臨む。

 

余湖図【羽衣石城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

城の概要

東郷湖から南に約1.5kmに位置し、険峻な山頂部を中心に多数の郭が北西方向に向かい広がる。

 

山頂頂部に主郭があり、その規模は、東西方向に45m、南北方向に20m と大規模である。

 

主郭の周りには帯郭があり、その下方にも多数の腰郭が造られている。

 

この主郭部分については、1999年に東郷町教育委員会によって試掘調査がなされており、複数のピット・土坑等の遺構、そして埋納された備前焼壷等の出土品が確認されている。

 

帯郭から主郭へ通じる入口部分と思われる位置に見られるピットがあり、木戸跡遺構と考えられている。

 

木戸跡遺構の2個のピットは、それぞれ直径約40cm、深さ20cm、2個のピットの間は約5mあり、その中間位置に窪み跡があったとされている。

 

また、その他のピットは帯郭西側の試掘箇所に多く見られる。

 

出土遺物では、主郭・帯郭部分を合わせて土師質の皿、備前焼(壷擂鉢他)、瀬戸・美濃焼(天目茶碗.皿)、青磁、(碗・菊皿・香炉)、白磁皿、青花(碗・皿)等がある。

 

主郭部分、帯曲輪部分の両方ともほぼ同じ種類の土器が出土しているが、天目茶碗の出土は主郭となっている。

 

また、この他の出土遺物としては、帯郭部分に鉄砲弾が数点確認できる。

 

出土遺物から考えると主郭部分は居住空間として機能し、帯郭部分は防衛施設とていたことが推測される。

 

羽衣石城は、中世東伯耆の国人南条氏の居城として築城されたとされている。

 

築城時期は不明ながら、関ヶ原の役後、南条氏の改易により慶長5年(1600年)に廃城となったことは文書等により知られている。

 

南条氏は応仁の乱(1467〜1477年)後、守護山名氏の権力が衰退する中で支配力を高めた国人であり、羽衣石城もこの時期に中世城郭として整備されたと考えられる。

 

『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』より引用。

 

羽衣石城

山陰線倉吉駅と松崎駅のほぽ中間の長和田から渓流に沿って上ること約四㎞、 清らかな谷川の行き詰まる所に羽衣石の集落がある。

 

ここから草や木々を分けて急坂を上って行くと、やがて頂上に達する。

 

名だたる天険要害の地である。

 

『伯耆民談記』によれば、「山高くして削れるが如く、谷深くして彫るが如し、 頂上は常に白雲を戴き、 裾野は遠く引きて長和 田村に続き、前は東郷 の湖水漫々とし、麓に 羽衣石川の流れあり」 と記されている。

 

さら に、「境地広く、渓山 八葉に分れて、凡四十 八谷ありといへり、山 上を本城とし麓の周り に侍の小道を配置し、 大手は長和田表にて、 惣構に堀をほり、其内 に町屋を建並べ、神社 仏閣其の間に点綴し皆 華麗を極めた」と述べ ている。

 

山頂は広く平 らで、「清泉北の洞より湧き出」で大早魃で も乾いたことはないという。

 

山は初め崩岩山といったが、南条伯者守貞宗が貞治五年(正平二十一、一三 六六)この山に初めて城を築いた時、「崩岩」の名を忌んで、「君が代は元の羽 衣まれに着て、なつとも尽きぬ巌なるらん」の古歌より取って、羽衣石の山と 改めたという。

 

貞宗は塩冶高貞の次男で、越前国南条郡宅良の里で成長し、南条氏と称した。

 

貞宗は伯耆に所領を得て、守護職山名左京大輔の麾下に属した。

 

以来、南条氏 は二百五十年間、盛衰興亡の戦乱の期に連綿として十代続いたのである。

 

大永四年(一五二四)、八代豊後守宗勝(初め宗光と称した)の時、出雲の尼子経久の攻撃にあい、いわゆる「五月崩れ」によって、伯耆の諸城主と共に城を 奪われ流浪の身となった。

 

経久は伯耆を旬日の間に席捲し、羽衣石城に尼子紀 伊守国久(新宮党、経久の次男)、泊の川口城に尼子式部大輔誠久(国久の長男) を置き、東伯耆三郡を与えて因幡に対する押さえとした。

 

羽衣石城を退いた宗勝は因幡に走り、布施の屋形、但馬の屋形の食客となり 日を送った。

 

天文九年(一五四〇)秋、尼子誠久が毛利元就追討のため安芸国に討ち入ったので、「五月崩れ」で城を追われた南条宗勝以下の諸将は旧城奪回を策し、布施の屋形の援助を得て、兵六千をもって十月八日伯耆に乱入し、ま ず川口城を落とした。

 

尾高・八橋両城を守っていた尼子方の吉田兄弟は安芸に 注進し、尼子国久・誠久父子は急いで軍を返して羽衣石城に入り、吉田兄弟と 共に橋津川を挾んで南条宗勝らと対陣した。

 

両軍は早朝より激しく戦ったが、 南条勢はついに尼子勢に突き崩され、あまつさえ橋桁が折れたので南条宗勝をはじめ数百人の将兵が水に落ち、多くの者が溺死した。

 

しかし、宗勝は水練が巧みであったので海上に泳ぎ出て助けられた。

 

その後、尼子氏が毛利氏に滅ぼされたので、南条宗勝も旧城羽衣石城に帰ることができ、元亀元年(一五七〇)、宗勝は家督を嫡子勘兵衛元続に譲って、みずからは剃髪した。

 

そして天正三年(一五七五)春、宗勝は出雲の富田城に行っ て吉川元春に謁し、それより杵築大社へ参詣し、帰途大山に登るなど諸所を巡 礼して尾高城へも立ち寄った。

 

城主杉原播磨守盛重は盛んにもてなし、酒宴を 開いて宗勝を迎えたが、帰途宗勝は発病し、羽衣石城に帰ると看護のかいもなく病没した。

 

このことがあって以 来元続は杉原・吉川両 氏に恨みを抱き、元続 はついに羽柴(豊臣)秀 吉の誘いに応じて秀吉方に与し、「軍神の血祭に杉原が首を取り」 「孝道を立て」ること を決意し、家臣にもそ の旨を伝えた。

 

かくて南条元続は籠城の準備を始め、長和田表を塞ぎ、堀をめぐ らし、塀をかけ、岩尾 峠より五郎谷へかけて 砦を構え、羽衣石四十 八谷のロ々を固め、高野宮城に山田佐助、松崎城に小森和泉守、河口城に山名刑部久氏、田尻城に南条兵庫頭元周、堤城に山田出雲守重直、倉吉城に山名小三郎民豊、 岩倉城に小鴨左衛門尉元清をそれぞれ配して守らせた。

 

吉川元春は一万三千の兵を率いて天正七年七月伯耆国へ向かって発向し、元春は馬の山に本陣を構え、子息次郎少輔元長は国坂(北条町)の茶臼山に陣を取り、七月二十一日には田尻城を攻め落とし、他の城々へもそれぞれ押さえをし て兵を配したうえ、元春と毛利民部大輔元経を大手とし、搦手は杉原盛重を先 鋒として攻撃を開始した。

 

城中はかねてより覚悟していたところなので少しも驚かず、天険を巧みに利用して防戦した。

 

元春は場内の様子をよく知った者を尋ね出し、これに案内をさせて奇襲するにしかずとし、もと南条氏の家人で、いま吉川氏に仕えている山田世之助を案内人とした。

 

難波宋女頭に三百余人を差し添え、夜中に東郷谷へ忍び入り、払暁に大手より城攻めを行なうことにし、また、元長は五百余人を率いて より攻め入り、晩に大手と時を同じくして攻撃することにした。

 

二十九日の未明より先鋒の毛利元経が猛攻を加えて長和田表を突破し、本谷口に肉迫した。

 

この時、背後に回った一隊も羽衣石城に火をかけたので、南条方は腹背に敵を受け、ついに落城した。

 

南条元続は自害しようとしたが、家老広瀬出羽守に諫められ、片柴・三徳を越えて因幡に落ちた。

 

羽衣石城を攻略した元春は毛利元経を入れ、八百余の兵をもって守らせ、因幡の押さえとし、国内の仕置は元経と杉原盛重に任せることにした。

 

南条元続はいったん因幡智頭郡用瀬の城に落ち着き磯部兵部大輔の許に身を 寄せたが、秀吉の部将亀井矩・木下備中守・神明弥三郎らの加勢を得て、同 1八月十日夜には、山を越えて羽衣石城の背後の山に上り、兵三千を けて城を急襲した。城兵は支えることができず、討死する者その数を知らぬありさまであった。

 

元続は本城を取り返すことができたばかりでなく、 兵糧・弾薬・武具などをも押収することができた。

 

天正八年、吉川元春は再び大軍を率いて来攻し、尾高城主杉原盛重 、馬の山に本陣を構えた。

 

南条元続は先陣山名小三郎民豊の兵六百 条氏の兵一千、後陣小鴨左衛門尉元清の兵八百余人をもって日下の川を渡って馬の山を急襲した。

 

元春もこれに対して、嫡子元長を先陣として、一陣・二陣と備えて って山名勢を突き崩し、敗走する山名・南条勢の混乱に乗じ、元春みずから先 頭に立って突入したので、南条・小鴨勢も総崩れとなって羽衣石・岩倉両城へ 引き籠もった。

 

しかし、この戦いで元春の軍にも負傷する者が数多く、一時軍 を収めた。 翌九年六月になると、羽柴(豊臣)秀吉は兵三万余を率いて鳥取城を囲んだ。

 

元春は三度にわたって海陸より兵糧を鳥取城に送ろうとしたが失敗し、七月下 旬、鳥取城の後詰めとして元長を八橋城に派遣し、杉原盛重と共に伯耆国内で 軍勢を催すよう国侍たちに伝えたが、国侍たちは「両端を持ち身構のみ」で加勢をしなかった。

 

そこで、元長は羽衣石城を攻略して後顧の憂いを除こうとし、八月十一日午前十時頃五千余人を率い、盛重を先陣として攻撃した。南条方もここを先途と戦ったので、敵味方の死骸は花見の野に満ち、東郷湖の水も血に染まったという。

 

この戦いで討死する者、南条方百六十人、吉川方百八十人に上ったという。

 

元長は二十三日内田の陣を引き払い、馬の山に引き揚げた。十月二十日になると、元春も加わって再び八橋城に入ったが、二十五日にはついに鳥取城が落城した。

 

秀吉は鹿野城に一泊し、翌十月二十六日には青谷に押し出して鎧島に陣を布き、さらに羽衣石山に続く御冠山に陣して馬の山を眼下に見下ろすに至った。

 

元春は橋津川の橋を焼き、浜の船をも引き揚げて必死の覚悟を示した。そこで、 秀吉は対陣すること三日にして、羽衣石城に鉄炮三百梃と弾薬・兵糧を入れ、 二十八日には姫路に軍を返した。

 

その後、天正十年には豊臣・毛利両氏の和睦が成立し、伯耆(八橋を除く)は南条氏の領有するところとなった。

 

天正十九年七月十四日、南条元続は病没し、元忠が家督を継ぎ、叔父小鴨元清が後見役となった。

 

しかし、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦には西軍に味 方して敗れたので、羽衣石南条氏は城を追われ城もそのまま廃城となった。

 

元忠はその後大坂の陣に加わって大坂城に籠もっていたが、旧知の藤堂高虎 より「此度寄手に返り忠して手を取り城中に引き入れられ候はば、伯州一円宛 行ふべきやう執成」と誓紙をもって内通を勧められたため心を動かし、持口の 塀や柱の根を上下より五寸ほど切って攻め込む便をはかったが、薄田隼人・渡辺内蔵に見破られ、大坂千畳敷で切腹させられ、貞宗以来十代続いた南条氏もここに滅亡した。

 

現在残っている遺構は頂上部と中腹の尾根上にみることができる。頂上部の 西六六m×南北二〇mの東西に長いもので、その西端に昭和の初 。南条氏の後裔によって建てられた三戸の模擬天守(鉄筋トタン葺き)が 不丸の東端に幅一二mの郭があり、中央部南端には東西一〇m×南北 の郭がある。

 

この郭の下に虎口が設けられており、本丸の周囲にも二段の帯郭がある。

 

本丸北側の尾根にも郭が二段あり、このあたりを地元の人は二の丸と呼んでいる。

 

城の正面と思われる北西方向の中腹には、東西一〇m×南北七血 の郭とその西側に隣接する郭が設けられている。

 

この中腹の郭より東側を一〇〇mほどさかのぼった所に早魅でも絶対に涸れないという「茶の井戸」がある。

 

中腹から北西に延びる尾根にも九つの郭が階段状に配置されている。

 

また、この尾根の中ほどから西に延びる尾根にも大小五つの郭があり、北東を大手とし ている。

 

現在では、山頂に大坂の儒者藤沢南岳撰文の碑と、末松謙澄撰、小野鵝堂筆の碑がある。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

城の歴史

南北朝時代:南条氏が築城する。

 

大永4年(1524):尼子経久の侵攻により落城、南条宗勝は因幡山名氏の元に逃れる(大永の五月崩れ)ただし最近では五月崩れは否定されている。

 

永禄5年(1562):尼子氏の滅亡により、羽衣石城に復帰する。

 

天正3年(1575):南条宗勝が吉川元春に謁見するもその帰路に病没、家督を嫡子の元続が継ぐ。

 

天正7年(1579):元続は父の死を毛利方の謀略と思い毛利寝返り羽柴につく。

 

天正9年(1581):吉川元春、元長親子が羽衣石城を攻略するも落城せず。

 

天正10年(1582):元春配下の部将で元南条氏の家臣であった山田重直の手により落城する。

 

天正12年(1584):豊臣と毛利の和睦が結ばれ、伯耆国の一部分が南条氏の所領となる。

 

天正19年(1591):元続が病死し、嫡子の元忠が家督を継ぐ。

 

慶長5年(1600):関ケ原で西軍につき破れる、羽衣石も廃城となる。

 

城主家系図

 

 

定光寺(南条氏菩提寺)

立派な宝篋印塔がある。

 

所感

●城の規模も大きく、伯耆国の守護である山名氏おも上回る実力を持っていた南条氏の居城だけのことはある。

 

●城からは遠く日本海や東郷湖も確認できるので吉川軍が攻めてきた時もすぐさま察知したと思われる。

 

●当時この城に居住していたと思われるが、本丸に住んでいたのであろうか?

 

●模擬天守は南条の子孫が昭和の初めに建てたものを平成に再度立て直したらしい。

関連URL

【鳥取県】打吹城【倉吉市打吹山】

伯耆国守護である山名氏の居城。

 

参考URL

羽衣石城(ウッキペディア)

城郭放浪記(伯耆羽衣石城)

西国の山城(羽衣石城)

南条氏(ウッキペディア)

武家家伝(南条氏)

 

参考文献

『日本城郭大系』14

『鳥取県の地名』

『鳥取県地名大辞典』

公開日2021/12/12

 

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