城データ
城名:鹿野城
別名:王舎城、鹿奴城、志加奴城
標高:152m
比高:100m
築城年:不明
主な城主:志加奴氏、山名氏、亀井氏、池田氏
場所:鳥取県鳥取市鹿野町鹿野(鹿野城跡公園)
北緯:東経:35.457202/134.063795
攻城記
往時は立派な城と城下町があったと思われる。
登って行く。
本丸跡。
更に登って行く。
礎石。
石垣発見。
天守台跡からみた鹿野の街並み。
城山神社。
土塁か。
石垣が草で埋もれている。
鹿野ゆかりの場所
幸盛寺
山中鹿介の墓がある「幸盛」は鹿介の諱。
この墓が山中鹿介(幸盛)の墓とされているが、卵塔墓なので違う気がする。
卵塔墓は僧侶の墓。
山中鹿介は鹿野城主である亀井玆矩の義父にあたる。
亀井武蔵守玆矩の墓
矢穴のある石段。
余湖図【鹿野城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
鹿野城は鹿野町の南、妙見山にあり、王舎城とも号した。創建の年代については誰らかではないが、志加奴氏の代々の居城であったという。
志加奴氏の本姓については不明であるが、昔からの国侍で、山名氏の麾下の部将であったこ とは明らかである。
明徳二年(元中八、一三九一)、山名氏清・満幸が兵を率いて上洛し、足利氏と戦った時、討死した部将の中に「志加奴七郎」の名がみえる。
ついで、天文 十二年(一五四三)尼子晴久は因幡・伯耆二国を席捲しようとして大軍を率い 。伯者の諸城をまたたくうちに攻略して因伯国境に迫った。
天神山 の山名氏は、大崎城と志加奴城を前線拠点としてこれと対戦することにしたが、 大崎城は一戦も交えずに落城してしまった。
しかし、晴久は天神山城をただちには攻めず、馬首を南に転じ、全軍をもって志加奴城を攻撃した。
城将志加奴入道は意を決して手兵三百で晴久の軍にあたり、奮戦・激闘ののち自刃して果 てた。
永禄(一五五八~七〇)の頃となると、尼子氏に代わって毛利氏が東進し、その勢力はしだいに因幡に及んだ。
山名源七郎豊成は伯耆の毛利勢に対するため、 天神山城より鹿野城に移ってこの地方を固めた。
豊成が日々勢力を扶植するのをみた鳥取城の武田高信は、これを除こうとして美女を鹿野城に送り、巧みに 城中に入れて豊成の側近に待らせ、機をみて毒酒を盛って豊成を弑した。
天正(一五七三~九二)の初年になると、この地方における毛利氏の勢力はしだいに不動のものとなっていった。
毛利輝元は鳥取城主山名豊国の息女をはじ め、老臣森下・中村氏らにも人質二十余人を差し出させて鹿野城に入れ、部将三吉三郎左衛門・進藤豊後守を城番に命じ、兵一千をもって守らせた。
天正八年、羽柴(豊臣)秀吉は第一回の鳥取城攻めを行ない、鹿野城を攻略し て人質を手中に収め、亀井茲矩を城番に命じて、鳥取城主山名豊国に秀吉方に 与するよう勧めた。
豊国は抗しがたいことを知り、秀吉に属することを明らかにしたので、豊国を新たに鳥取城主に任じて軍を姫路に帰した。
しかし老臣森 下・中村氏らは豊国の態度を非とし、ついに豊国を追放して毛利氏の麾下に属し、秀吉との決戦の途を選んだ。 秀吉はすでにこのことを予見していたため、天正九年再び鳥取城を攻め、 「渴殺」によってこれを落城させた。
この戦功により、亀井兹矩は気多郡(気高郡)一万三千石を賜わり鹿野城主に封ぜられた。
その後、亀井茲矩は関ヶ原の合戦に東軍に属し、高草郡を加増されて三万八 千石となり、子息政矩の時、さらに五千石加増されて四万三千石となったが、元和三年(一六一七)石見津和野に転封された。
亀井茲矩・政矩父子の在城は三十七年に及んだ。
『日本城郭大系』14より引用。
概要
因幡の守護山名氏の勢力下にあった志加奴氏が、天文12年(1543)尼子晴久の因幡侵入のとき、鹿野城にたてこもり討ち死にした。
その後山名氏の対尼子の拠点となったが、中国の大勢が尼子から毛利氏に移ると、鹿野城は毛利氏に属した。
天正年間には、毛利氏の対秀吉の拠点となったが、秀吉側の亀井玆矩により落城、玆矩が鹿野を居城とし、二代政矩が津和野に移封されるまで在城し、池田氏の領地となった後、廃城された。
現在も城跡として郭が残り、石垣を持つ堀に水がたたえられている。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』より引用。
城の歴史
天文13年(1544):尼子晴久により攻められる、城主の志加奴入道は防戦するも討死する。
永禄6年(1563):武田高信が因幡守護である山名豊数の居城である布勢天神山城を攻撃し、豊数は鹿野城に逃げる、後に山名源七郎を派遣するが武田高信に毒殺される。
天正8年(1580):豊臣秀吉の鳥取城攻めにて織田方の城になり亀井玆矩が城主となる。
※これ以降は城郭の改修と城下町の形成を図る。
元和3年(1617):玆矩の嫡子である政玆が津和野藩に転封され、代わりに鳥取光政の鳥取入部により家老の日置氏が城主となる。
城主家系図
城主石高
亀井時代:3.8万石
所感
●亀井氏の統治期間は37年であったが、城郭城下町の整備を行い近世の町々を造った。
●本丸は麓にあるが敷地面積も広く、立派な屋敷があったと思われる。
●志加奴氏時代の城は天守台周辺に曲輪を配置したものだと思われるが、山頂部分には曲輪も多くそこそこの城だったのではないか。
関連URL
山名氏の居城である布勢天神山城。
亀井氏のその後の居城である津和野城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』14
『鳥取県の地名』
『鳥取県地名大辞典』
『鹿野町誌』
公開日2021/12/05