城データ

城名:防己尾城(つづらおじょう)

別名:無し

標高:39m

比高:34m

築城年:不明だが天正年間(1573〜1592)のはじめの頃に吉岡将監定勝によって築城されたと伝わる。

城主:吉岡将監定勝

場所:鳥取県鳥取市福井

北緯:東経:35.505258/134.133140

防己尾城はここ

 

攻城記

ふるさと文化探訪

防已尾城跡

吉岡将監定勝が築城したといわれ城郭は本丸・二の丸・三の丸とそれに取り囲まれた町屋とから構成されており、北側には船着場が設けら れていた。

 

天正九年(一五八一)羽柴(豊臣)秀吉鳥取城攻略の時、将監は奇襲によ って、たびたび秀吉勢を悩ませた。

 

また、将監の弟右近は秀吉の千生願 筆の馬印を奪い取ったという。

 

しかし、この城はその後亀井茲矩により 落城した。 (日本城郭大系、新修鳥取市史第一巻より》

 

平成四年三月

鳥取市教育委員会

 

立派な石碑も建てられている。

防己尾城遠景。

 

防己尾城趾と吉岡将監

鳥取市の福井から金沢に至る間の湖山池に突出したこの山を防己尾という。

 

天正九年(一五八一年)鳥取城を完全包囲した羽柴秀吉が毛利氏との後方連絡を断つため、水軍に防己尾城攻略を命じこれを迎え打った吉岡将監は弟の右近 と共に逆襲し、秀吉近習の黄母衣武者を 討ち取り、秀吉が戦功を誇る千成瓢簞の 馬印を奪い取った所。

 

また、情け深い将監は黄母衣武者の死を悼み六地蔵を安置してねんごろに葬ったと伝えられる。

 

今なお古戦場の面影を残しており、頂上付近から湖山池を眼下に眺む風景は絶景である。

 

位置関係

 

余湖図【防己尾城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

防己尾城

防己尾城は湖山池のほとり、岩本集落と福井集落との中間の丘陵上にあった。

 

天正六年頃、吉岡将監定勝の築城といわれる。

 

天正九年、羽柴(豊臣)秀吉鳥取来攻の時、将監父子ならびに舎弟右近らは毛利氏の一翼として当城に籠城し、秀吉勢に対した。

 

智勇をもって知られる将監 は、敏速に兵を動かして鳥取城を包囲する秀吉勢の背後をしばしば急襲した。

 

一夜、多賀文蔵の陣を攻撃し、その旗指物を奪った。無念やるかたない文蔵は 防己尾城攻略を決意し、秀吉に願い出た。

 

秀吉は文蔵の願いを許し、その馬印を授けて先陣とし、みずからも三津ケ崎に陣を進めて督戦した。

 

天正九年七月、多賀文蔵は船手を指揮し、山本喜平次・吉川平助らと共に秀 吉の馬印を押し立てて城の塀下に漕ぎつけ、攻め上ろうとした時、沈黙を守り続けていた城内からいっせいに鉄砲が火を吹き、矢・大木・大石が降りそそぎ、 とき 関の声と共に城兵が一団となって槍衾をつくって打って出てきた。

 

寄せ手は水際でのこの奇襲に崩れて大混乱に陥り、文蔵は乱戦の中で討死した。

 

この時、将監の弟右近は秀吉の千生瓢簞の馬印を奪い取り、多くの首と共に 塀に懸け並べ、「天下無双の弓取り羽柴秀吉公を討ち取りたり。その証拠には この馬印を見よ」と大声で呼ばわったので、吉岡方の士気は大いに挙がった。

 

激怒した秀吉は陸上から亀井玆矩に攻撃させたが、いたずらに犠牲の数を増す がりであった。

 

そこで、秀吉は軍を引き、茲矩に命じて包囲させ、糧道を絶ったので、城中はまもなく兵糧が尽き、ついに城兵は四散した。

 

城は、それほど嶮岨な山ではないが、湖山池西岸の地形を巧みに取り入れており、城郭は、本丸・二の丸・三の丸と、それに取り囲まれた町屋によ って構成されていた。

 

本丸は城郭の北および北西を固める位置に築かれ、標高二〇m、湖山池の水 比高一五の山頂が利用されているが、北側は竹の茂った断崖して湖山池に面している。

 

南側は尾根伝いに三の丸に通じている。

 

現在、山頂には 防己尾城の記念碑が建てられている。

 

二の丸は本丸の南東約一〇〇m、三の 丸の北東約一三〇mほどのところの丘陵 の先端に築かれている。

 

北・東・南の三 方が断崖になって湖山池に面しており、 標高は約一五mである。

 

また、三の丸は 城郭中もっとも西側にあり、唯一の陸続 きとなっている箇所で、標高二〇m、水 面からの比高一五〇mで、本丸と三の丸 との間には掘割がいまも残っている。

 

町屋は本丸と二の丸との間、幅約四〇m、 長さ約一〇〇mほどの谷間につくられていた。

 

南方の大手付近には階段状の遺構 が残っており、町屋の北端の湖に面して 開けた谷の入口には船着場が設けられていた。

 

防己尾城への入口は、二の丸の西 開けた谷の入口には船着場が設けられて端と三の丸の間の小さな谷間で柵が築かれ、三の丸の南の湖に面した小道がそれぞれである。

 

三の丸方向の陸続きの箇所 は空堀が掘られていたから、当城を攻撃 するには、湖上からか、この空堀を越えるかのいずれかの方法しかなく、堅固な構えといえよう。

 

現在、城跡は城跡公園として整備されているが、本丸付近には矢竹が群生し、 米倉の跡からは焼米が掘り出されることがある。

 

『日本城郭大系』14より引用

 

概要

主郭と思われる郭が2箇所ある。その両方の郭を中心に東西南北それぞれに多くの郭、堀切等が存在する。

 

北側主郭の周りには帯郭が見られ、南側主郭から西南方向の中腹部には土塁がある。

 

また、その土塁南側には多くの竪堀が存在する。この防己尾城は、湖山池西岸に位置し、当時因幡国守護山名氏が居城とした天神山城のほぼ対岸にあたる。

 

城郭の規模、から当時重要な城跡の一つであったと考えられる。

 

『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』より引用。

 

城の歴史

天正6年(1578):吉岡将監定勝の築城といわれる。

 

天正9年(1581):豊臣秀吉の鳥取城攻略の際に吉岡氏が籠城して対抗する。しかし結局落城。

 

所感

●湖山池の西側に突き出した丘陵に築城されている。

 

●現地で確認すると広さもあり、籠城するにはもってこいの地形。

 

●ただし援軍が来れば長期籠城も可能であるが、兵糧攻めになれば対抗が難しいかもしれない。

 

●説明では町屋が形成されていたような感じであるが、この場所に町屋があるイメージが湧かない。

 

●目と鼻の先に秀吉の陣城である三津ヶ崎本陣山城がある。

関連URL

 

参考URL

防己尾城(ウッキペディア)

城郭放浪記(因幡防己尾城)

西国の山城(防己尾城)

防己尾城 -因幡の城ー – 秋田の中世を歩く

山城攻城日記(防己尾城)

吉岡定勝(ウッキペディア)

 

参考文献

『日本城郭大系』14

『鳥取県の地名』

『鳥取県地名大辞典』

 

公開日2021/12/05

 

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