城データ
城名:大垣城
別名:巨鹿城、麋城
標高:7m
比高:7m
築城年:明応9年(1500)竹腰彦五郎尚綱によって築かれたとも、天文4年(1535)宮川安定によって築かれたとも。
主な城主:竹腰氏、氏家氏、伊藤氏、岡部氏、久松松平氏、戸田氏
場所:岐阜県大垣市郭町
北緯:東経:35.362152/136.616534
攻城記
大垣城城門。
凛々しい本丸が見える。
大垣市指定史跡
大垣城跡
大垣城は、牛屋川を天然の外にとりいれた要害堅固な平城で、天文4年(1535)営川安定によって創建されたと伝えられている。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦では、西軍の本拠となり壮絶な攻防戦が繰り広げられたが、戸田家が入城してからは、歴代藩主と共に天下泰平の世を謳歌した。
先の戦災で惜しくも天守閣を焼失したが、現在城跡一帯は市民の憩いの場として親しまれている。
大垣市教育委員会
江戸時代の城にしては石垣の積み方が雑。
本丸付近。
天守閣。
大垣城(巨鹿城·麋城)
大垣城のはじまり
大垣の中心地には奈良時代から東大寺領(大井荘)が広がり、室町時代になると 大垣氏や西尾氏が代官として支配を強めていました。
大垣城の創建は天文四年 (一五三五)二月、宮川安定によるもの(明応九年(一五〇〇)竹腰尚綱の創建とも伝えられる)当時は壕と土居を築いただけの城でした。
大垣城と関ヶ原合戦
大垣城は、豊臣秀吉が「かなめの所、大柿の城」と語り、織田信長や秀吉と関わりの深い一門が歴代城主となる等、関ヶ原合戦以前から重要視されていました。
石田三成は、慶長五年一六〇〇)八月十日大垣城に入り、西軍の本陣としました。
当初、東軍・西軍とも大垣城が天下分け目の戦場となると考え、家康は大垣城を 水攻めにすることも企てていたといわれています。
なお、関ヶ原の決戦後、大垣城では一週間の戦いを経て開城しています。
大垣城下の整備
永禄四年(一五六一)氏家道元(ト全)が城郭を整備し、慶長元年(一五九六)、伊藤祐盛が石垣の上に三階建ての天守を造営しました。
慶長十八年(一六三三)には、この 丸石垣等の整備が進むとともに、 西は水門川、東は牛屋川を利用し た外堀で城下町を包む近世的城郭 となったのです。
その後も戸田氏の時代に開櫓や 城門が配置され、研形虎口、馬出し、 横矢等、敵襲に備えるつくりが築か れていきました。
また、外堀周辺に は武家屋敷や町屋、美濃路が計画的 に配置されました。
往時の古写真が残っている。
天守閣から麓を臨む。
本丸部分。
戦国時代の石垣が残っている。
なんと石垣のところが滝になっていた。
周辺の石垣。
再度本丸部分の石垣を観察。
open-hinataより【大垣城】
余湖図【大垣城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
大垣城
畿内から東国へ、東国から畿内への道を扼するのが不破の関である。
大垣城のある西美濃は、この不破の関から広がる大平野!―濃尾平野の西北端に位置するがゆえに、畿内にとっては東国に対する防衛の第一線であった。
しかも大垣は、西美濃平野部のほぼ中央に位置し、東の木曾・長良・揖斐の三大川に守られて、北の東山道、南の東海道の押さえとなったばかりではなく、美濃路の要衝でもあった。
その点、大垣城はまさに西美濃の軍・政にわたる要的存在といってよいであろう。
大垣城の創建は、いつ誰によったのであるのか、古来諸説があるが は二つである。その一は、天文四年(一五三五)三月、美濃守護土岐氏の一族宮川吉左衛門尉安定の築城とするもので(『美濃明細記』『新撰美濃志』『宮川家覚書』 など)、安定は牛屋村大尻に城を築き、大垣の城と名づけたという。
また彼は、後代の本丸付近に居住していた舅の大垣彦五郎長家を討ち取って築城したともいう。
その二は、明応九年(一五〇〇)二月、土岐氏の被官で、佐々 木信綱の子孫竹腰彦五郎尚綱が、当時の安八郡牛屋郷に新城を築き、牛屋の城 と称し、これが今の大垣城であるとする説(竹腰系譜』『竹腰家旧記』など)である。
そのいずれにも若干の疑問点があって、にわかには断定しがたい が、『新修 大垣市史』では、天文十二年十月十日の『東南院文書』に「大カキノ城」とあ ることによって、大垣城の創築はおそらく天文年間(一五三二-五五)であろうとし、そして当時の大垣城は城郭といえるほどのものではなく、小規模な構えであった、としている。
おそらく本丸と二の丸だけの砦程度であったろう。
次に歴代城主の概略を述べよう。初代が竹腰尚綱であるのか、宮川安定であ るのか不明だが、もし宮川氏であれば一代で終わり、竹腰氏であれば三代で、尚綱の跡は重直が天文七年から七年間在城したという。
しかし、同十三年尾張の織田信秀に攻められて落城し、城主は織田播磨守信辰となるが、在城は五年間で、斎藤道三に攻められて大垣城は再び竹腰氏の回復するところとなり、 重直の子尚光が城主となる。
彼は九年間在城したが、道三とその子義竜との戦 いに討死し、代わって氏家直元が城主となった。
永禄二年(一五五九)のことである。
直元は入道してト全と号し、斎藤竜興に属するいわゆる西美濃 一人として著名である。
大垣城はこのト全の時に拡張され、松の丸が郭内に取 り入れられたばかりでなく、堀を深くし、塁も高くして、櫓および総囲いの築 造も行なわれた。
氏家氏の在城はト全の子直重までの二代で終わった。
その跡は羽柴秀吉に属した池田恒興(信輝)が城主となり、天正十二年(一五八四)、長久手の役で恒興・元助父子が討死すると子の輝政が入り、翌十三年、大 垣から岐阜に移った。
輝政は同十八年、三河吉田に転じ、関ヶ原の役では東軍として働き、慶長五年(一六〇〇)、播磨姫路に入封している。
池田氏の跡は、羽柴 (豊臣)秀次・羽柴(豊臣)秀長と豊臣一族が城主となったが、わずかの期間であった。
ついで加藤光泰・一柳直末・羽柴少将秀勝で、ともに秀吉の臣あるいは養子であった。
当時秀吉は大垣城を「大事のかなめの城」として重視していたとい 柳文書』)。一柳直末が城主であった同十三年十一月二十九日に あり、城下は莫大な損害を受けた(『一柳家記』が、あるいはこの時、大垣城も倒壊したのであろうか、天守閣の筒瓦に「天正十六年六月廿二日京の粟田口住人 いつみ(花押)かきおくも、後のをほゑとならさかや」とあったということから、 倒壊を機に天守閣を創建し、その完成が同十六年ではなかったか、ともいわれている(『新修大垣市史』)。
しかし、一般的には天守閣の創建は羽柴秀勝の跡に入った伊藤長門守祐盛 (盛正)の時で、文禄四年(一五九五)から翌慶長元年にかけてのことという。
この時、年老いた山伏が人柱になったと伝えられ、昭和二十年(一九四五)七月の 空襲によって焼けるまで、この山伏が持っていたという樫の六尺杖と蓑・笠が保存されていた。
いわゆる「山伏の人柱」伝説であるが、もちろ 以上のなにものでもないし、祐盛による天守閣創建も、おそらくは改築をいうのであろう。
だが、いずれにしても、造られた天守閣は当時の三層ないし五 層という常識を破る四層四階の珍しい構造であった。
ただし、古文書などには て四層とは書かず三層と記されている。四層が死相に通じるのを嫌い 一階の屋根を「つけびさし」とみなしたからだという。
祐盛の跡は子盛宗が継いだ。盛宗の時がちょうど関ヶ原の戦で、彼は西軍に属し石田三成を大垣城に迎え入れたが、笹尾山に陣して敗死してしまった。
徳川氏が天下を握り、寛永十二年(一六三五)七月、戸田氏銕が十万石の大名として入部するまでは、いずれも徳川譜代の大名が城主となった。
石川氏三代、 松平(久松)・岡部氏各二代、松平(久松)氏一代である。このうち、大垣城の増改築などに関係した大名は、まず石川氏三代目の忠総で、慶長十八年、八幡郭 の総堀(水門川)や高橋筋・竹島町南の総堀(外堀)を造り、次の松平忠良は、元 和六年(一六二〇)に天守閣の改造を行ない、寛永三年には、時の城主岡部長盛 が俵町南方の櫓を建造したという。
『日本城郭大系』9より一部引用。
城の歴史
明応9年(1500):竹腰尚綱によって築かれるとの伝承がある。
天文4年(1535):宮川安定によって築いたともいわれる。
天文13年(1544):織田信秀により落城する、城主は織田信辰となる(5年間)
天文18年(1549):齋藤道三に攻められて落城し斉藤氏の家臣である竹越尚光が城主となる。
永禄2年(1559):桑原元直が城主となる(このころ堀や土塁に手を加え、総囲いなどが整備される)
天正11年(1583):池田恒興が城主となる(所領15万石)
天正13年(1585):一柳直末が城主となる(所領3万石)
天正18年(1590):伊東盛景が城主となる。
慶長4年(1599):伊東盛宗が城主となる。
慶長5年(1600):関ケ原の戦いで西軍に属して落城する。
寛永12年(1635):戸田氏銕が十万石の大名として入部する。
城主石高
池田時代:15万石
一柳時代:3万石
戸田時代:10万石
所感
●現在は市街化されており天守閣まですぐにいけるが、当時は水堀に囲まれており攻めにくかったと思われる。
●古いタイプの石垣の積み方で算木積みは見られなかった。
●なぜか石垣から滝のように水が流れていたが、当時もそうだったのであろうか。
●城主があまりにもころころ変わりすぎている。
関連URL
斉藤氏の居城であった岐阜城(稲葉山城)
参考URL
参考文献
『岐阜県の地名』
『日本城郭大系』9
公開日2021/10/31