城データ

城名:福岡城

別名:舞鶴城

標高:23m

比高:15m

築城年:慶長6年(1601)黒田長政により築城。

城主:黒田氏

場所:福岡県福岡市中央区城内

北緯:東経:33.584909/130.383125

福岡城はここ

 

 

攻城記

まずは外周から。

二の丸跡。

虎口を抜ける。

祈念櫓。

本丸の東北隅に鬼門封じの祈念をするために建立されたもので、棟札によると万延元年(1860)3月に起工し、同年10月に竣工したものとある。

大正7年(1918)市内にある黒田家の菩提寺の崇福寺が陸軍省から払下げをうけ、末寺である大正寺住職渡辺玄外老師によって、北九州市八幡東区東台良の同寺境内に移築され、観音堂として使用されていた。

 

昭和58年(1983)、同寺より福岡城の旧位置に移築され、翌年9月竣工した。

さらに進んでいく。

見事な石垣で周囲を囲んでいる。

井戸跡。

ここら辺を訪れるものは少ない。

別の櫓を発見。

直角に曲がっている。

 

多門櫓。

旧福岡城の47にもおよぶ櫓のうち、永年の風雪に耐え現在位置を保っているのは、この櫓のみである。構造は、南西角にある二重二階建切妻造の角櫓と桁行30間の西平櫓とからなっている。

 

余湖図【福岡城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

福岡城

福岡城は、玄界灘を一望に収める海岸線の低丘陵を利用し、唐津から糸島郡 を経由して博多に至る航路および港湾を押さえ、さらに糸島郡方面から海岸線 を通る道路および南山麓部から大宰府方面に通ずる古街道を制する位置にある。

 

すなわち、東の商人町博多を牽制し、あわせて糸島平野を掌中に収め、筑繁平 野を制圧する要衝の地ということができよう。

 

豊臣秀吉の九州征伐の間、中津から築上方面で活動してその勢力基盤を豊前 地方に置いていた黒田氏は、慶長五年の関ヶ原合戦に東軍に属した如水の子長 政が、論功行賞により筑前一国五十二万余石を与えられたが、黒田氏入封以前 の福岡は、現在の福岡市博多区の博多港による貿易を基幹とする商人町であっ て、その政治的中心も東部にあった。

 

したがって、九州征伐後、豊臣秀吉から 筑前その他を与えられた小早川隆景は立花鑑載が築城した名島城(旧粕屋郡、 現在の福岡市東区)を修築し居城としたし、それ以前の大友氏もまた立花山城 に拠って筑前を押さえていた。

 

小早川隆景の跡を継いだ秀秋が関ヶ原合戦の功 により備前岡山に移封されたあとに、豊前中津十六万石から筑前に入封した黒田長政も、父如水と共にまず名島城に入城した。

 

福岡城の築城は、入部の翌年慶長六年に始まり七か年を費やして同十二年に 完成した。

 

福岡城の地は当時市街地を離れた海岸沿いの丘陵地であり、かつて 古代大宰府の鴻臚館が置かれ、また、元寇や南北朝争乱期にその舞台となった とはいえ、ほとんど荒蕪地に近い寒村の福崎であった。

 

したがって、繩張りは 壮大なものとすることができた。総面積約二五万”、内堀の周囲約五〇〇〇m に及ぶ石の城であり、世に「石城」と称された。その外郭は東の博多との境の薬院新川の堀に石垣を築き、河口から海岸線沿いに城の北側には護岸石垣をめぐらしている。

 

また、城の西側には防備のために溜を利用した広大な沼池(大堀)を設けた。

 

これによって区画された台地には内堀が掘られ、石垣が組まれ、 さらに土塁が築かれている。

 

この城の普譜奉行は、黒田二四騎の一人野口佐助一成で、石垣工事の名人と称され、大坂城などの築城に関与した人物である。

 

城内は本丸・東二の丸・南 二の丸・三の丸などに区分され、大小四七の櫓が築かれた。天守台だけで天守閣は築かれなかった。

 

なお、櫓のうち本丸の南に接する南二の丸の一隅には、 一重櫓である南丸多聞櫓三十間が残っており、嘉永七年(一八五四)改造の建物で国の重要文化財に指定されている。

 

また、大手門(渦見門)および潮見櫓も城 内に現存し、本丸正門および月見櫓・花見櫓は黒田氏の菩提寺崇福寺(福岡市 博多区)に、祈念櫓は大正寺(北九州市八幡東区)に移建され、それぞれ山門・ 殿などに転用されて現存し、いずれも県指定有形文化財となっている。

 

長政は築城に際して、文禄・慶長の役に朝鮮で見聞した朝鮮の城郭(光州城)を 参考にしたという。

 

城名「福岡」は、長政の曾祖父に当たる黒田右近大夫重政が近江から備前色久郡福岡郷に移って本拠にしたという家伝により、故地の名 を付したものである。

 

以降、明治の廃藩置県に至るまで黒田氏は転封されることもなく十二代を重ねた。

 

『日本城郭大系』18より引用。

 

城の歴史

慶長6年(1601):黒田長政により築城開始する。

 

慶長12年(1607):城が完成する。

 

城主石高

石高:523,000石

 

所感

●大大名の城として広大な城郭及び石垣が往時はあった、これほどの城郭を築城するには膨大な労力と時間がかかった。

 

●ほとんどは消失しているが、一部多門櫓などが現存している。

 

●城域があまりにも広く、周辺は別の施設や公園になったが、中心部はよく残っている。

 

関連URL

 

参考URL

福岡城(ウッキペディア)

城郭放浪記(筑前福岡城)

黒田氏(ウッキペディア)

武家家伝(黒田氏)

 

参考文献

『福岡県の地名』

『日本城郭大系』18

公開日2021/10/11

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