城データ
城名:黒井城
別名:保月城、保筑城
標高:356m
比高:220m
築城年:建武年間(1334~38)
城主:築城者:赤松貞範 他(赤松氏、荻野氏、斎藤利三、堀田吉晴)
場所:兵庫県丹波市春日町黒井
北緯:東経:35.179276/135.104057
攻城記
風雲急をつげる黒井城
赤井(荻野)直正VS明智光秀
黒井城は、豪勇をうたわれたが赤井(荻野)直正が城主で、戦国時代の丹波を代表する山城です。
赤井(鉄野)直正は、自らを悪右衛門と名乗り、 近隣の有力式将を従え、奥丹波三郎(氷上席、 天田席、何鹿席)を領し、また度々但馬へ侵攻を続けました。
天下布式をめざす織田信長が、明智光秀に丹波平定を命じると、この黒井城でも、明智の大軍と 黒井勢との間に、二度にわたる激しい攻防戦がくり広げられました。
荷烈な戦国時代の遺構を、 山中いたるところに残す黒井城跡は、貴重な 「戦国の城」として国の史跡に指定されています。
明智光秀もこの城では活躍した。
攻城開始。
ここで中腹。
山門が見える。
中腹でもなかなかの眺望。
誰の墓は詳細不明。
石踏の段。
やっとの思いで山頂付近まで到着。
ここの石垣は黒井城の石垣の写真でよく撮られている場所。
更に進む。
三の丸跡。
大分石垣も崩れて(崩されて)いる。
山頂からの眺望は素晴らしく籠城中も眼下の兵士がはっきり分かったと思われる。
側面。
二の丸跡。
小口から登ってきた。
二の丸と本丸の間。
本丸跡。
保月城ともいう。
反対側の曲輪。
本丸全体図。
往時は立派な石垣と門があったのだろう。
本丸側面石垣。
麓からみたら全面総石垣の堅牢な山城み見える。
城の北側へ進む。
東出丸跡。
北側を色々と散策する。
ぐるっと回り又戻ってくる。
ここに来る人間はそうそういないと思う。
余湖図【黒井城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
ひなたGIS【黒井城】
城の概要
黒井城
国鉄福知山線黒井駅前に立つと、東北方に城山と推定できる威客の山がある。
標高三五六mの猪ノ口由で、ここに荻野・赤井党の統帥者荻野悪石衛門直正の 居城であった黒井城がある。
現在の登山道は、往時の館跡といわれる興禅寺と小学校との間から通じ、谷間の道をおよそ三〇分たどると、頂上部から西南に 延びる尾根筋に達する。
そこから左に向かうと、尾根先端の紫跡に下るが、一方、 尾根を右に登ること三〇分ほどで「石踏ノ段」という郭跡に出る。
幅三五mに奥 行き一〇mほどの平坦地を背後に、その前にやや小さい郭を二つ配置している。
また興禅寺の裏尾根に、居住性の強い三つほどの郭跡が階段式に連なっているがそこからの道も「石踏ノ段」に通じている。
この道が大手道ではなかろうか。
さらに「石踏ノ段」から急坂を一〇分余り登ると、頂上部の中心郭群に至 る。東西およそ一五〇mを石垣・空場で三つの郭に区切り、西から「本丸」 「ニの丸」「三の丸」と案内板にあり、「三の丸」の東に「東郭」、「本丸」の西 に「西郭」がそれぞれある。
そして、この東西の郭は中心部の三つの郭の北と 南をめぐって帯郭となっており、石垣は本格的な石積みで、中心部の三つの郭の周囲ほぼ八割に築かれている。
特に「本丸」と「二の丸」西面(大手方面)の 石垣は長さ約三〇mで、高さは五mほどであり、隅角部の算木積みもはっきり 残っている。また付近に瓦の破片がみられ、瓦葺きの本格的な建造物と推定でき、ほとんど「近世式」の感じを受ける。
郷土史家たちは、この石垣を天正七 年(一五七九)の落城時の遺構と判定しているが、同時期に薬かれた金山域の石垣、さらに同時期に使用された丹波の中世城郭、たとえば守護代内藤氏の八木城、波多野氏の八上城などとの比較検討も必要であろう。
また「本丸」に「天守櫓」があったと推定している史家もいるが、初期天守台の遺構から考えて、 これにも疑義が残る。
頂上の中心郭から北西約六〇mの急坂を下ると、西方に延びる尾根がある。 そこに長さおよそ二〇〇m、最大幅およそ二五mの「西の丸」といわれる郭群があり、二条の堀切と高低差で四つの郭に区切られている。
そして小道が西方に延び、千丈寺砦に通じている。
西の丸郭群の東端の郭は東西およそ三〇m、 携北およそ三〇mで、北と南に高さ一ヵほどの土塁の遺構が残っているが、この郭 下から北方に延びる尾根筋の先端に龍ケ鼻砦がある。
また頂上の中 ら東方は、およそ四〇m低く、「出丸」といわれる郭があり、さらに尾根筋に 沿って「東二の郭」「東三の郭」と下がって、山麓の円光寺に至っている。
「出丸」は東西約四〇m、南北約二五mで、その東端の虎口部分に空堀と土塁 なる中世の古風な防禦遺構が、はっきりと残っている。
「東二の郭」 登る現在の登山道は、空堀を下りてそのままおよそ二m高い土塁上を越え、郭内に通じているが、往時は空掘にぶつかり、空堀と土塁に沿って右折し 士塁の北端から左折しなければならず、その間、二段の横矢に妨げられて郭内に入ったのであろう。
この「出丸」と「石踏 ノ段」とはほぼ同じ等 高線上にあり、中間に 「太鼓ノ段」といわれ る郭があり、また、す ぐ北側の谷側には三つ の井戸跡がある。
「東三の郭」下の円光寺と、北方の龍ヶ鼻砦 跡との間の山麓は猪ノ 口山麓ではもっとも大 きい内懐をなしている所で、前方に黒井川・ 竹田川が流れている。
この地には多田集落があって、麓一帯は水田化しているが、前荻野氏時代(直 正の入城以前の荻野氏)は、この東方が大手口だったのではなかろうか。
この 集落の西方山寄りに、付近から集められた五輪塔が十数基祀られている。
また “荻野荒神”といわれる、かつての守護神らしい祠もある。
黒井城は建武年間(一三三四~三八)に赤松貞範が築いたといわれる。
箱根竹ノ下の戦功によって春日部荘(春日町)が足利尊氏から貞範に与えられ あるから、これはある程度、事実であろう。
しかし、貞範の本貫地は播磨であり、 この城には代官を差し向けたのだろう。
そして城山の築城も南北朝時代に多い砦程度だったのではなかろうか。
また赤松氏のあとを荻野氏が収めたと想像できるが、その点の信頼できる資料が見当たらない。
しかし、信濃から丹波に移 住した芦田氏の支流荻野一族の動きは西丹波だけでなく、中丹波の福知山・綾部の記録には散見できるので、荻野氏は黒井付近の春日部荘にも土着し、土豪化したのであろう。
記録に出てくる黒井城主は中世末の荻野和泉守と、その子と思われる伊予守秋清である。
そして荻野庶流の朝日城主を継いだ赤井時家の 二男直正が、秋清を倒して黒井城に入ったのが天文二十三年(一五五四)一月といわれており、彼の死は黒井落城の前年の天正六年(一五七八)の三月といわれるから、活躍期間は二四年間にわたる。
さらに後屋城主の兄赤井家清が没して、 直正が荻野・赤井一族の事実上の統帥者となったのが弘治三年(一五五七)といわれ、永禄八年(一五六五)に内藤宗勝(松永久秀の弟長頼。口丹波の八木城に拠 った守護代の内藤家を継ぐ)を倒して、覇権を握った。
以後、八上城 た波多野秀治と共に西丹波を二分し、中丹波を侵略し、さらに遠阪峠を越えて 但馬を蚕食した。
直正死後の黒井落城の状況を『信長公記』は次のように記している。
八月九日(天正七年)赤井悪右衛門(直正の弟悪七郎直信か)楯籠り候黒井へ 取懸け、推し詰め候ところ、人数を出だし候。則ち、瞳と付け入るに、外 くるはまで込み入り、随分の者十余人討ち取るところ、種々降参候て、退出
丹波平定後、明智光秀は黒井城に斎藤内蔵介利三を配置した。余談になるが、 利三の娘が、のちに三代将軍徳川家光の乳母となった春日局で、彼女は当地で 生まれたと伝えられている。
山麓の興禅寺は、この斎藤氏時代の館跡といわれ る。明智氏滅亡後の黒井には堀尾茂助吉晴が入ったが、斎藤氏時代と同じ館を 利用したのであろう。
堀尾吉晴が近江佐和山城に移ったのが天正十三年(一五八五)で、以後、黒井周辺は細分化されて代官領となっており、堀尾氏時代を もって黒井城は廃城となったようである。
『日本城郭大系』12より引用。
城の歴史
建武年間(1334~38):赤松貞範により築城。
15世紀~16世紀初期:萩野氏が城主となる、荻野和泉守と、その子と思われる伊予守秋清などがいた。
天文23年(1554):赤井直正が萩野秋清を倒し黒井城に入城する。
天正6年(1578):赤井直正が亡くなる。
天正7年(1579):黒井城が明智光秀により落城する、その後齋藤利三が城主となる。
天正10年(1582):本能寺の変により明智家滅亡、齋藤利三も討死し、代わりに堀尾吉晴が入城する。
天正13年(1585):堀尾晴吉が近江佐和山城に移り以後、黒井周辺は細分化されて代官領となる。
このころ廃城か。
所感
●総石垣のような感じを受けるが、それは麓から見える部分で裏側に石垣は無い。
●赤井時代ではなくその後の明智時代の齋藤氏や豊臣時代に堀尾時代に大幅改修したのではないか?
●黒井城だけでなく周辺にも砦がありこれらと連結して守りを固めていたと思われる。
●井戸跡を探そうと北方面をウロウロしたが見つからず。
関連URL
城主脇坂安治が単身で赤井直正に降伏勧告を進めるが、その勇気に感じ入り降伏はしなかったものの、先祖伝来の貂の皮を贈ってその労に報いたという。
参考URL
参考文献
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
公開日2021/10/02