城データ

城名:鶏籠山城

別名:龍野城、台山城、朝霧城、霞城

標高:218m

比高:170m

築城年:明応8年(1499)頃赤松政秀により築城と伝わる。

城主:赤松氏

場所:兵庫県たつの市龍野町上霞城

北緯:東経:34.872709/134.544913

鶏籠山城はここ

 

 

攻城記

鶏籠山龍野古城

原生林に包まれた「鶏籠山(けいろうさん)」は、鶏の伏せ籠に似たような山だったので、その名がつけられたといわれ、山頂には、今もなお風説に耐えてきた城の石垣などが残っています。

 

山頂の城は、明応八年(一四九九)に赤松一族によって築かれ、赤松村秀が最初の城主となり、この地方を治めていました。

 

赤松氏は政秀、広貞、広英と城主になり、四代七十八年続きます。

 

天正五年(一五七七)、天下統一をめざしていた織田信長は、播磨、中国地方を平定するため、家臣の羽柴秀吉に播磨攻めを命じます。

 

秀吉軍は、二万の大軍で揖保川まで攻め寄り、この様子を眼下に見た赤松広英は、赤松の滅亡を憂い、城を明け渡し秀吉の軍門にくだります。(のちに、赤松広英は、但馬(たじま)の国和田山、竹田城主となる)

 

龍野城は、蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊、小出吉政など秀吉の最も信頼する重臣たちが代々城主となります。

 

その後、一五九八年頃に山頂の城を取り壊して、ふもとの現在の地に城が築かれたといわれています。

 

(徳川時代となり、ふもとの城は、元和(げんな)三年(一六一七)龍野藩主として本田政朝が入城し、藩主が入替わりながら、藩主脇坂安斐(やすあや)、明治四年(一八七一)廃藩置県まで続く)

 

龍野古城には本丸跡、二の丸跡、竪堀(たてぼ)り跡、八幡宮跡、土塁跡、削平地(さくへいち)跡などがあり、弓矢に利用されていた矢竹が群生しています。

 

霞城文化自然保護会
兵庫森林管理者

 

竪堀跡。

麓からどんどん上がっていく。

無数の石があるが何かの崩れ去ったあとか。

瓦跡。

削平地。

石垣ゾーンに突入。

これらの石垣は赤松時代のものだと思われる。

二の丸跡。

眼下を臨む。

二の丸付近の石垣。

石自体は小ぶりなものが多い。

削平地、二の丸に隣接した曲輪だと思われる。

瓦の破片もあり居住スペースがあった可能性がある。

ここまで河原石を持ってきている。

周囲には石垣を巡らされていたものと考えられる。

隅の石垣で当時は両方向に石垣がめぐらされていたと思われる。

僅かに残る痕跡。

赤松氏の居城としてふさわしい城だと思う。

本丸到着。

 

本丸はそこそこ広い。

本丸側面の石垣。

ここにも瓦がある。

ここには八幡宮があったようだ。

遺構がしっかり残っている。

鳥居の一部。

八幡宮石畳。

古城階段。

なかなか立派。

大分崩れている。

竪堀の跡、大分埋もれている。

反対方向に進むとこのような遺跡が目に留まった。

麓まで降りてきた。

往時はここに侍屋敷があったのであろうか?

屋敷にふさわしい石垣。

矢穴の空いた石垣。

 

 

位置関係

 

余湖図【鶏籠山城及び龍野城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【鶏籠山城及び龍野城】

 

『中世播磨250の山城』(中世城郭研究家 木内内則)

 

 

城の概要

鶏籠山城

鶏籠山に築かれた中世から近世にかけての城郭。山頂には室町時代から織豊期にかけての山城遺構が残る。

 

江戸時代は南麓に築かれた平山城が使われていた。鶏籠山は標高二一一メートル、山麓からの比高は約一七〇メートル。

 

東側は揖保川に接し、城跡からは流域一帯の平野部への眺望がきく。

 

(戦国期)

初代の城主は赤松下野守村秀。以後赤松下野守家の本城となる。

 

村秀は赤松下野守政秀の孫か曾孫と推定されるが、近世には播磨守護赤松政則の実子とする伝承があった(赤松盛衰記)。

 

「播磨鑑」にはこの伝承が反映され、延徳(一四八九-九二)頃に政則が築城したとするが、中世の史料からは確認できない。

 

永正三年(一五〇六)には下野守の本拠は塩屋(現御津町)にあった(「鶴庄引付」斑文書)。

 

村秀が龍野城を築くのはそれ以後と推定。

 

大永五年(一五二五)二月二日、村秀は祖父の命により 龍野城中で中務少輔を自害に追込んでいる(鶴庄引付)。

 

この中務少輔は村秀の弟で、那波城(現相生市)城主の赤松村景とみられる。

 

この当時村景は守護赤松義村と対立する 浦上村宗方に属していた。

 

義村方の村秀とは大永元年頃 に鵤庄付近で合戦に及んでいる(三月日「法隆寺年会五師頼 態書状案」法隆寺文書)。

 

下野守家が両派に分裂し、龍野城は西播磨における守護方の拠点となっていた。

 

天文七年 (一五三八)尼子晴久が播磨に侵攻すると、村秀は尼子氏に従っている(「天文日記」同八年一二月一一日条)。

 

同九年に村秀が没すると、その子下野守政秀が城主となった。

 

永禄 元年(一五五八)八月、政秀は混乱を逃れた守護赤松晴政を龍野城に迎えている(系図奥書」上月文書)。

 

政秀は元亀元 年(一五七〇)に毒殺され「書写山十地坊過去帳」円教寺旧以後城主は広貞・広秀(広英・広通)と続く。

 

弥三郎広貞は 天正三年(一五七五)一〇月と翌四年に上洛し、織田信長に従している「信長公記」同三年一〇月二〇日条、一一日 日「八木豊信書状」吉川家文書、一一月一〇日「織田信長黒所文書)。

 

天正六年三木城の別所長治が毛利氏に属して信長と対立すると、広秀の居城は織田方の拠点とな 同七年頃には毛利方の攻撃を受けている(正月二八日「 長印判状写」武家事紀所収文書)。

 

この広秀の居城が龍野城のこととみられている。

 

『兵庫県の地名』より一部引用。

 

龍野城

龍野市の市街地の背後の標高二一〇mの鶏籠山は、その名のとおりに鶏籠を伏せた形の美しい山で、その山頂に龍野城が築かれたのは明応八年頃、塩屋城主赤松下野守政秀(高枕軒性喜)が幼い村秀(のちに下野守村秀)のために築城したのに始まる。

 

通説としては村秀は赤松政則の実子で、政則は晩年に迎えた正室(細川勝元の女で、政則の死後は尼となり、洞松院)に遠慮して、側室に生ませた実子村秀を一族の老将赤松政秀に託し、赤松七条家の政資の子道祖松丸(または才松丸)を養子として女(松御料人とよばれたと伝えられる)を娶らせて後嗣としたという。

 

のちに元服して赤松次郎義村と名のった置塩城二代目の城主 である。

 

龍野の鶏籠山に最初に着目したのは赤松政則で、政則が文明年間の末年(文明十八年=一四八六頃)に山頂に築城して、これを村秀に譲ったという説も流布している。

 

しかし、確実な史料(『鶴荘引付』「海老名文書」『鏤氷集』)などだけから復元すると、赤松下野守政秀には中務少輔則貞という子があり、 相生・佐方・那波方面に進出して那波城に住んでいたこと、則貞と村秀とが対立して弘山・立岡山カワラ(河原)で合戦に及ぶほどその関係は悪化していたことが知られる。

 

下野守村秀は政秀の死後は塩屋城主を継いでおり、永正三年(一五〇六)の末までは、まだ塩屋城にいたらしい。

 

また、村秀には広岡殿とよばれる弟がおり、「兄弟の間では絶対に剣を交えないように 堅く約束していたので、同十八年(一五二一)二月に赤松義村が浦上村宗と対戦した時、義村方について大田城に出陣した村秀は、広岡殿が村宗に通じて義村方の敗北になった時も、じっと大田城で耐え忍んだと、『鶴荘引付』にみえる。

 

村秀には弟中務丞がいた。広岡殿と同一人物と思われる。

 

龍野城の村秀は大永五年(一五二五)二月二日に祖父中務少輔を龍野城で自害させた(『鵤荘引付』)。

 

この祖父中務少輔とは、さきの下野守政秀の子中務少輔則貞のことらしく、そ の家系は次のように整理される。

 

 

下野守村秀が龍野城を築き、永正四年以後に塩屋城から移り住んだと考えられるが、天文九年(一五四〇)九月二日に病死した。

 

法名は勝福寺股松厳性秀大洋定門という。

 

大永八年(一五二八)二月十六日に三十六歳で死んで、客号を常松寺院といい、その室が細川政元の刻であったという「赤松盛衰記」の説は、す べて事実に反する。

 

村秀のあと、熊野城主となったのは、村秀の子下野守政秀で、 その室は置塩屋形赤松晴政の女であった。

 

さきの塩屋城主赤松下野守政秀と、 二代目龍野誠主となった赤松下野守政秀はまったく同姓同名で、そのためにこの時期の播磨の歴史理解がすっかり混乱してしまった。

 

政秀は父材秀の跡を継いで西播磨八郡を押さえて赤松晴政を助けたが、赤松晴政は永禄元年(一五五八)八月八日に「騒劇に依って」龍野城に移り、政秀の庇護のもとにその晩年を送ることになる。

 

どのような「騒劇」があったのかは 伝えるところがないが、両細川家の対立で常に晴元党として行動してきた義材・ 時政に対して、当時、台頭してきた三好長後と結ぼうとした勢力が奉松家の中にあって、それが幼主義祐を補立して晴政を追放したのではないかと考えられ る。

 

政秀は晴政を守りながら室津城の浦上政宗を急襲してこれを殺し、西播磨の覇権を維持するのに腐心した。

 

熊野城の晴政は同八年(一五六五)正月十六日 に病死し、遺体は置塩に送られて宝原寺で部礼が営まれ、二月六日に京都の鹿苑院の仁加集尭が迎えられて導師を務めた(鏤氷集)。

 

政秀は元亀元年(一五七〇)十一月十二日に「毒に依って死去した」と『書写山十地坊過去帳』にみえる。

 

毒殺されたのである。当時の播磨の政治情勢の中では、毒殺や暗殺の危険性は常に存在していた。

 

政秀の死後、龍野城主となったのは弥三郎広貞らしいが、弥三郎広英とどういう関係にあるのか、よくわからない。

 

花押はまったく別で別人らしく、『新宮町史』の筆者高坂好は両者を兄弟と考えたが、弥三郎広英はある時期に孫二 郎広秀と名のっていたこともあり、またその後も斎村左兵衛・赤松広通と何度 その呼称を変えているので、同一人であった可能性も残る。

 

ともかく、初め御着城主・三木城主らと上洛して織田信長に従ったのは弥三郎広貞で、天正五年(一五七七)十二月に羽柴(豊臣)秀吉が播磨に入った時、戦わずして城を出て平位荘佐江村に退去、謹慎したのは弥三郎広英であった。

 

同九年に龍野城は蜂須賀正勝に与えられた。

 

天正五年に石川紀伊守光元が城主となったという説もあるが、確証に乏しく、 蜂須賀正勝の入城までは佐江に隠退している広英が名目的には城主で、多分、 老臣恵藤越中入道省吾あたりが留守を預かっていたのではないかと思われる。

 

広英は同十年の秀吉の中国攻めの先鋒蜂須賀軍の先導となって備中の高松城攻 めに加わり、秀吉の部将として同十三年に但馬の竹田城主になり、最後は関ケ 原合戦の時、西軍(石田三成方)に味方して田辺城を攻め、のちに東軍(徳川家康方)に属して因幅の鳥取城を攻めたが、その時、城下を焼いた責任を問われ て切腹している。

 

その夫人が西軍の宇喜多秀家の妹であったので憎まれたとも、 また亀井結矩に裏切られたためともいう。

 

蜂須賀正勝が天正十三年に阿波の徳島に移ったあとには木下勝俊(龍野侍従とよばれた。号は長嘯子)、次いで小出吉政が城主となったが、池田輝政が慶長五年(一六〇〇)十月、播磨で五十二万石を賜わって姫路に入部するにその所領となり、家老荒尾但馬守が城代となった。

 

 

鶏籠山頂の龍野古城は、本丸が東西約二〇m、南北一四mで、村秀がここに 天守閣を建てたというが、その痕跡は現状では認め難い。

 

本丸跡の石垣は戦国時代末期の天正年間頃の築造とみられ、近世には本丸北側の下に鎮守八幡宮が 祀られていた。

 

本丸は帯郭をめぐらしており、その南には二の丸がある。

 

二の丸は東西一四 m、南北二七mの削平地で、本丸と二の丸の通路(約七二m四方の削平地)には米倉と櫓があったという。

 

二の丸の下には一六m四方の削平地が三か所あり、 さらに南に下った山腹にも東西二七m、南北一四mの削平地(郭跡)がある、ここ には土塁がかなり顕著に残っており、そこから下へは数本の竪堀がある。

 

古城 の石垣は山麓の近世龍野城を築城する際に利用されたと推測されるが、なお、 山中にはかなりの石垣が残存しており、全盛時の瀧野古城の堅牢さがしのばれる。

 

『日本城郭大系』12より一部引用。

 

城の歴史(関ケ原まで)

文明年間の末年(文明18年=1486)に山頂に築城して、これを村秀に譲ったという伝承がある。

または延徳年間頃(1489~92)に赤松政則が築城したとの伝承もある。

 

大永5年(1525):赤松村秀は祖父である則貞を龍野城で自害させた。

 

天文9年(1540):赤松村秀が病死。

 

永禄元年(1558):主君である赤松晴政が騒劇により、龍野城に移り、政秀の庇護のもとにその晩年を送ることになる。

 

永禄8年(1565):主君である、赤松晴政が龍野城にて病死。

 

元亀元年(1570):赤松政秀が毒殺される。

 

天正5年(1577):秀吉が播磨侵攻した時に赤松広英は戦わず城を出て謹慎する。

 

天正9年(1581):龍野城は蜂須賀正勝に与えられる。

 

慶長5年(1600):池田輝政が播磨で五十二万石を賜わって姫路に入部するにその所領となり、家老荒尾但馬守が城代となる。

 

 

城主家系図

 

所感

●戦国乱世に築城されたこともあり、石垣を多用して堅牢な印象をうける。

 

●城域とはあんまり関係ないところに、かなり長い竪堀が1本ある。

 

●場内は瓦が多く散乱しており、ここに何かしらの建物があったと思われる。

 

関連URL

【兵庫県】龍野城【たつの市龍野町上霞城】

麓の城、赤松時代は居館があったか。

【兵庫県】竹田城【朝来市和田山町竹田】

最期の当主である赤松広英が城代をした城。

 

参考URL

龍野城(ウッキペディア)

城郭放浪記(播磨鶏籠山城)

鶏籠山城 -播磨の城ー – 秋田の中世を歩く

武家家伝(龍野赤松氏)

赤松村秀(ウッキペディア)

赤松政秀(ウッキペディア)

赤松広秀(ウッキペディア)

山崎正の西播磨歴史絵巻(新旧龍野城)

 

参考文献

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

公開日2021/09/26

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