城データ
城名:三木城
別名:釜山城、別所城
標高:58m
比高:20m
築城年:戦国時代か
城主:三木氏、中川秀政、中川秀成、伊木忠次
場所:兵庫県三木市上の丸町
北緯:東経:34.799728/134.987756
攻城記
三木城跡
(平成25年3月指起)
所在地:兵庫県三木市上の丸町・福井
三木城は上の丸台地上に築かれた丘城です。15世紀後半に別所則治によって築かれたと考えられます。
天正6年(1578)から同8年、東播嘉最大の勢力を誇る三木城主別所長治と織田信長の部将羽紫(後の豊臣)秀吉の間で起こった三木合戦では、「三木の手し殺し」と呼ばれる兵種攻めが行われました。
落城後も三木が措磨における京都や大坂からの入口として重要な場所であったため、主に豊臣家の直輔地として城代、城番が置かれました。
慶長5年(1600)池田輝政の姫路入封に伴い、姫路城の支城となった三木城には、家老の伊木忠次が入城しましたが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となりました。
構造は、本丸・二の丸を中心部とし、新城・鷹尾山城・営ノ上要害で構成され、南側は山と谷、他三方を崖に囲まれています。
土造りの城としては、撮磨の中でも最大級の規模を誇っています。
平成25年3月、領主の居城と攻城側の付城が一体的に残る費重な事例として、三木城の本丸・この丸・鷹尾山城が、平井山/上付城跡(秀吉本陣跡)などの付城跡とともに国の史跡に指定されました。
城内から河川を臨む。
井戸跡。
周辺部。
完全に包囲されているのが分かる。
登っていく。
更に削平地あり。
別所長治の石像ある。
長治、辞世の句。
この部分が天守台となる。
天守台からの眺望。
周辺部。
雲龍寺
長治公と雲龍寺
〇雲龍寺(曹洞宗)
天徳2年(958)に慈恵僧正の創建と伝えられているが、羽柴秀吉との三木合戦時には、三木城内にあったため、殿堂及び伽藍は焼失しました。
天正8年(1580)1月17日、一族の最後を弔うために、雲龍寺7世の住職春泰禅師が、当時の三木城主別所長治公の自害の席に招かれたときに、長治公は後事を禅師に託し、日頃から愛用していた「天目茶碗」と「唐子遊びの軸」を形見として贈りました。
三木城開城後、領主杉原伯耆守は秀吉に上訴して寺院を再建しました。
天正13年(1585)秀吉から境内山林竹木並びに30石の寄進状及び制札を賜り、以後代々の徳川将軍家より御朱印状を承りました。
秀吉の兵糧攻めにあい、城内の藁まで食べたとの言い伝えにより、当寺では毎年1月17日に藁に見立てた〝うどん″を食べて当時を偲ぶ会が催されています。
この寺は古い歴史のある寺院で、明治維新までは公寺に属しており、特別な上位の寺でありました。
その創建は村上天皇の勅命によるもので、天皇の勅願所でありましたが、廃絶すること久しく、その後、播磨、備前、美作の守護職であった時の豪族赤松円心入道則将が、古い寺伝を知り、深くこれを惜しんで朝廷に再建を奏請して、そのご聖慮に沿い、天皇より高源山の山号を賜りました。
時は後醍醐天皇の元亨2年’(1322)で、天皇の祈願所となりました。のち、文明年間になって、時の城主別所加賀守就治が異忠禅師を招いて再建し、そのとき規模を一新して禅寺として開山した寺院であると伝えています。
長治夫婦首塚。
位置関係
余湖図【三木城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
ひなたGIS【三木城】
城の概要
三木城
三木城は東播磨の雄、別所氏歴代の居城である。
羽柴(豊臣)秀吉との二〇か月にわたる戦いは三木合戦として名高い。
城跡は美囊川南岸の市街地裏の台地 にある。
三木は明石の北一九、姫路の東三一畑の地にあり、市域は美嚢川と その支流の両岸に広がっている。
それほど肥沃の地とはいえないが、東播磨守 護代別所氏の本拠地であった。
京都―有馬間の道路は古くから整備されていて、 西国から上京するには有馬へ出るのが便利であった。
そのため、播磨には数本湯山(有馬)街道がある。
特に、この三木越えの道は有馬と姫路をほぼ 結んでおり、中世末期にはひんぱんに利用された。
三木は街道の要所となっていたのである。
この三木城を多いたのは別所則治である。
則治は史上に突然、登場する。文 明十五年(一四八三)冬、守護赤松政則が山名氏に大敗し、国人層の信望を失い、 堺へ逃亡した。
そして翌年二月には、浦上則宗らに家督を廃された。
この時、 別所期治は失意の政則を擁して入京し、前将軍足利義政にとりなして家督を安堵させたという。
同十七年春の政則の播磨入りには則治も従軍し、光明寺(加東郡俺野町)に陣している。
これ以後の山名氏との戦闘の過程では守護代的な行動をとっており、赤松家臣団中で浦上則宗に次ぐ実力者となった。
長享二年(一四八八)九月、赤松政則は大略の兵を具して美作へ湯治に出たが、播磨の留守居として小寺祐職・別所則治を置いている。
これは軍政から平時へ移った 時点のそれぞれ西播磨・東播磨の守護代の職とみてよいだろう。
三木に居館を 設けたのは、この前後の時期ではないだろうか。
これ以前の別所則治のことはまったく不明である。
応仁の乱に軍勢を催した 様子もなく、この時期の播磨の戦闘に加わっていたかどうかもわからない。
ただ前将軍に政則をとりなしたことからみても、相当な政治力を持っていたはずである。
則治の名は赤松政則の拝領名だと思われるか、もしそうてないとすれ は、寛正六年(一四六五)当時、義政の帯刀衆であった赤松則治との同一性が問題となる。
いずれにしても赤松政則は、別所則治を浦上則宗と並立させ ることによって赤松再興功労家臣団を牽制したのであろう。
則治は永正十年(一五一三)頃に卒去し、二代目は則定とも村盛とも伝 えられるが、判物は残っていない。
同十二年に死んでおり、在位期間が 短いためであろう。明応元年(一四九二)に則治の子息小三郎が在京して おり、これは次の村治ではありえないので、この別所小三郎が二代目と思われる。
ただ村治の父は長子ではないので、疑問の残るところである。
三代村治は父死亡の時、十四歳である。十九歳の永正十七年には 赤松義村と浦上村宗との確執によって内紛が起こり、別所氏もこれに巻 き込まれた。
村治はその伯父と互いに敵対するようになった。結果は義村に荷担した伯父が没落したようである。
村治は家督を守り、やがて東通磨の覇権を求めるようになる。
享禄三年(一五三〇)夏、村治は柳本賢治を頼み、東条谷(小野市・加東郡東条町)の依藤氏を攻撃するが、浦上村宗の後援を受けた依藤氏に大敗し、三木城に逃げ帰った。
西播磨を発した浦上村宗は細川高国を擁して進軍し、小寺城・在田城、別所氏の三木城などを攻め落とした。
村治は国外に脱出したようである。
翌年、浦上村宗が赤松政村の 細川晴元への内通によって戦死する。
村治はこれ以後に三木に戻ったものと思 われる。政村の離叛も村治の調略によるものかもしれない。
こののち、村治は 東播磨に大きく勢力を伸長する。
天文七年(一五三八)同八年の二度にわたって三木城は尼子詮久(晴久)の攻撃を受けている。
国人の多くが尼子氏に帰順し、東播磨では三木城の方の拠点となりえた。赤松氏の被官たちもこの城に籠もり、尼子氏と戦ってい る。
同八年閏六月には盛厳寺某が村治出陣中の三木城を攻撃し、留守衆が南構 でこれを防いだ。
盛厳寺某は別所氏の一族と想像できる。
尼子氏との戦闘で赤松晴政(政村)は二回も国外に脱出して難を逃れている。
以後、守護の威令は地に落ちた。別所氏はしだいに自立し、細川晴元の与党として東播磨を押さえていた。
晴元と対立していた三好長慶は同二十三年(一五五四)十月、有馬重則を 助けて三好長逸を送り、別所氏の属城七つを落とした。
そして十一月には三好義賢の兵が枝吉城を包囲し、翌年初め、明石氏は恐れをなして和議を結び別所氏も支えきれず、和睦した。
以後、別所氏は三好氏の麾下に編入され、のちに遠く奈良にまで出陣している。
この間、永禄二年(一五五九)には宿敵依藤氏を滅ぼした。
永禄六年、村治が死に、安治が四代目を継いだ。安治の時代にはすでに多可郡部にまで勢力が浸透していた。
同十一年頃には三好三人衆をみかぎり、織田信長と結んでいる。
信長方として安治の弟重棟が出陣している。
同十二年、別所氏は織田方として西播磨を攻めた。
元亀元年(一五七〇)に三好三人衆方の浦上宗景が三木城に来襲し、翌二年には別所氏が播磨の国徳表にまで押し寄せた。
この間、安治から五代目長治に当主は移った。
天正年間(一五七三ー九二)の初め、重棟をして北播磨の雄、在田氏を野間谷(多可郡八千代町)に滅ぼし、別所氏は戦国大名化していった。
天正六年(一五七八)三月、毛利氏攻めの先導を務めると約した長治は三木城に籠もり、小寺氏ら諸豪族と連携して、信長の部将羽柴(豊臣)秀吉に叛旗を翻した。
加古川での秀吉との会談で、意見が対立したためだというが、これは口実である。
事実は西国の戦国大名毛利氏の外交戦略の成功であり、加古川会談前に筋書はできていた。
織田軍は最初、戸惑ったが、三木については城下を焼 いたのち、監視する番城を置き、別所氏に同調する各地の豪族の城を一つ一つ 攻め落としていった。
秀吉は翌七年五月末に山田(神戸市北区)の海蔵寺(丹生 おうご 山)・淡河城をも陥れ、三木城の包囲を完了して兵糧を断っている。
別所氏は、 この年の二月の平井山、九月の大村など、数度の合戦に打ち負け、状況は悪化 する一方であった。
この時期の秀吉は自分からは攻めず、出て来る兵をたたくのみであった。
同八年になると、一挙に攻勢に出た。正月六日に宮の上の要害を 乗っ取り、十一日には鷹尾山城を攻略し、新城をも押さえたうえで、十五日に開城を勧告した。
十七日、別所氏側はこれに応じ、長治以下一族が自害した。
これは城主の自殺によって城兵が助命されるという秀吉一流の大芝居で 事実は三木城そのものの攻防戦は半月たらずで決着がついており 長治の意思に関係なく、自殺を強要したものである。
こうして秀吉に従った重棟 を残すほか、別所氏は滅亡した。
『日本城郭大系』12より一部引用。
城の歴史
15世紀末:このころ三木城辺りを居館としたか。
永正10年(1513):この頃、別所則治が亡くなり、二代目の則定(村盛)が家督相続する。
享禄3年(1530):別所村治が近隣の依藤氏を攻撃するが、浦上村宗の後援を受けた依藤氏に大敗し、三木城に逃げ帰る。
同時に浦上村宗が三木城を攻め落として、村治は国外逃亡する。
享禄4年(1531):浦上村宗が戦死して、村治が三木城に戻る。
天文7年(1538):尼子晴久により三木城が攻撃される。
天文23年(1554):三好氏に攻められて和睦し別所氏は三好氏の麾下に入る
永禄2年(1559):宿敵依藤氏を滅ぼす。
永禄6年(1563):村治が死に、安治が四代目を継ぐ。
永禄11年(1568):三好三人衆をみかぎり、織田信長と結ぶ。
元亀元年(1570):三好三人衆方の浦上宗景が三木城に来襲する、このころ長治が当主となる。
天正年間(1573~92)初め:このころ別所氏は周辺豪族を支配下に置き戦国大名化する。
天正6年(1578):このころ長治は三木城に籠もり、織田氏に叛旗を翻す。
天正8年(1580):三木城を開城して降伏、別所長治は自刃。
城主家系図
石高
三木氏の時は不明、池田輝政の時代に宿老の伊木忠次が三木城主となり3万石を知行している。
所感
●小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。
●かなりの回数三木城は攻撃にさらされており、この地が争乱の場であったことが分かる。
●城域は大きく改変されており現状をとどめていないが、天守台や井戸跡などが若干残っている。
●別所氏は赤松氏の被官から徐々に力をつけて最後は戦国大名化するまで至ったが、最期の判断で生き残れなかった。
関連URL
播磨三大城の1つで城主は小寺氏。
播磨三大城の1つで城主は三木氏。
長治弟ので友之が守っていた城。
参考URL
参考文献
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
公開日2021/09/18