城データ
城名:村岡陣屋
標高:235m
比高:20m
築城年:寛永19年(1642)山名矩豊により築城。
城主:山名氏
場所:兵庫県美方郡香美町村岡
北緯:東経:35.472615/134.597052
攻城記
桜山御廟(山名氏の御廟)
資料館あたりでこの辺に陣屋があったものと思われる。
現在は公園になっている。
御殿山公園由来書
因幡国守護であった山名豊国が慶長六年(一六〇一)に七美五郷六千七百石を徳川家康から拝領して、村岡山名の 初代となりましたが、初代と二代は国入りせず、陣屋を福 岡に置いて、家徒三上、執事田結庄等に治めさせました。
三代矩豊は陣屋を黒野村(現まほるば)に移して、村岡と改めて、寛京十九年(一六四こ)に初めて国入りを行ないました。
八代義方が文化三年(一八〇六)に陣屋を尾白山(現御殿山公園)に集いて代々この場所を本拠として七美五郷を治めていました。
十一代義済は明治元年(一八六八)に一万一千石と認め られて大名に刻しましたが、すぐ版籍奉還して藩知事になりました。
十二代義路の明治四年(一八七一)十一月村岡落は豊岡県と合併して、明治七年(一八七四)には障屋は取壊されて跡地の一部は御殿山公園または桜山と呼ばれて、町民憩の場所となっておりました。
昭和三三年に県立村岡高等学校(当時は八鹿高校村岡分校)が公園内に建築されましたが、昭和五七年に新枝舎が 東上に建築されて終ったため、村岡町が陣屋や高校跡地を 御取山公園として登備したものです。
香美町
遺構は残っていない。
城下町の風景。
奥方部屋
この建物は大久三年(一八大三)の武康諸法度 「妻子の帰国は勝手とする」のお触れにより、 江戸住まいの十一代義済会の奥方が帰国する ため、陣屋に増築されたものです。
明治七年(一八七四)に陣屋が取壊される際、 蚕糸問屋の池尾家が奥方部屋を買取り、 移築して離れ部屋として使用していたものを、 平成二年(一九九〇)に池尾利治氏より寄館を受けて、村岡町が陣屋跡に復元したものです。
建物は当時のまゝ復元してありますが、元々 陣屋の一部として建てられていたため独立した 玄関が無く、復元にあたり玄関部分は 新しく造りました。
奥方部屋の内部を見学されたい方は、 村岡藩資料館事務蔓查村岡町章工 観光課にお申し出ください。
村岡町
村岡山名陣屋
村岡山名陣屋
この地は住古、七美へ(志都美) と言い、また一二分庄とも黒野 とも称していた。
宽永十九年(一六四二)村岡山名氏第三代伊豆守矩豊公が初入部 された時、福岡にあった陣屋をここに移し、町割を定めて城下町経営に力を尽された。
公はまた、黒野村の名を村岡町 に改め、空山を藤武岳、中小屋川 を島陽川にと、中国の故事に習って改称するなど、名実ともに七美五郷の首邑としての充実をはかられている。
以降山名氏十二代義路公に至るまでの二百三十年間政治経済の 中心地として繁栄したが、明治廃藩後、各種の官公署も次第に他町 へ移転するなどで昔日の面影が薄 れてきた。
平成二年春、地域の振興を願う有志が力を合わせて、村岡商店街 の入口三か所に、山名氏の定枚「 糸輪二引両」を打った門を設置した。
因みに、古図によ れば郭門の構造は次 図のごとくである。
当時の雰囲気っぽい。
法雲寺
法雲寺
竞水十九年(一六四二)に 村岡藩三山名矩豊公(第三代)が村岡町福岡からこの地に城下町を制定したとき、山名民歴代の菩提等として開かれた。
山名蔵には、山名公が第二代将軍徳川秀忠公から拝領した、勝具一式をはじめとし村岡藩主-山名短豊公(第三代)の写経、村村岡藩陣屋図など、山名公ゆかりの資料が、多数収蔵されている。
また山名氏始祖義範以来歴代の位牌もまつられ、各藩主遺愛の武具、什器、古文書等も収蔵されている。
境内の墓地には、幕末に幕府から村岡線 に流罪となった長崎の通訳、西村俊三郎元義( 陳雪橋)の墓がある
昭和四十二年一月 高松宮松宣仁親王が御宿泊された。
全国山名氏一族会の総事務局がある(天台宗)
香美町
黒野神社
余湖図【村岡藩陣屋】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
ひなたGIS【村岡陣屋】
城の概要
1.位置と城史
村岡陣屋は、江戸時代に七美郡(小代区・村岡区・旧熊次村)を領した山名氏が拠点とした陣屋である。
山名豊国は慶長 6 年(1601)将軍の御伽衆として七美郡一円 6,700 石を拝領した(山名豊国知行目録『池田家文書』)。
山名氏の陣屋は当初菟束村(のち福岡村と改称)に置かれたが、豊国・豊政の二代はともに領地へは赴任せず、福岡陣屋に三上豊信以下数名の家臣を常駐させて領国の経営にあたらせた。
寛永 5 年(1628)家督を継いだ三代矩豊は交代寄合衆に列せられ、同19 年(1642)所領の中央部にあたる黒野村(のち村岡町と改称)に陣屋を移した。矩豊は尾白山山裾の平地に陣屋を置き、陣屋町を整備した。その後、陣屋は文化三年(1806)尾白山(旧村岡高校体育館跡地)に移された。
矩豊の後、山名家は隆豊・豊就・豊暄・義徳・義方・義蕃・義問・義済と続き明治維新を迎えている。
義済の代の慶応 4 年(1868)太政官から新田 4,300 石の加増を認められ、合わせて 11,000 石の大名となり村岡藩となった。
しかし、義済を継いだ義路の代の明治 4 年(1871)廃藩置県となった。
陣屋は湯舟川右岸、村岡市街の北東に位置する尾白山の中腹、標高約 250 mの舌状台地に所在する。市街との比高は約 35 mを測る。
2 城の構造
村岡陣屋は東西約 50 m・南北約 70 mのほぼ長方形を呈しており、南東隅に大手虎口、北西隅に搦手虎口がある。城下町に面した西側と南側には、高さ約 1.5 mの石垣と帯曲輪(幅 3 ~ 8 m)を構築している。
また陣屋の東上の斜面には、東西約 20 m・南北約 117 mの馬場を設けている。
昭和 43 年(1968)に県立村岡高等学校の体育館が建設されたため、礎石などの遺構は失われた。
現在跡地は御殿山公園として整備されている
『香美町の城郭集成』より引用。
村岡陣屋
村岡陣屋は尾白山の山腹と山麓を利用した城郭造りの陣 屋である。
天正年間の羽柴(豊臣)秀吉勢の因幡進攻によって鳥取城 を追われた山名豊国は、徳川家康から慶長六年(一六〇一) 正月に七美郡を与えられた。
豊国は七美の陣屋を寛永三年 の春、福岡に創建したが、自らは赴任せず、代官に仕切らせた。
このあと、山名三代矩豊は寛永十九年三月に陣屋を黒野 村に移し、四月末、領主として初めて入国した。
そして矩豊は六月、黒野村を村岡と改め、武家町・在郷町の町割りをし、八月に尾白山の陣屋に移った。
以後、明治四年(一八七一)の廃藩に至るまで二三〇年にわたって山名氏が居住したが、知行は六千七百石で寄合衆であった。
明治元年に十一代義済が加増されて一万一千石となり、諸侯に列し、村 岡落となったが、明治維新となり、廃藩に際して義済は新政府に恭順の意を表 わし、陣屋を打ち壊したといわれ、遺構にみるべきものはなく、現在、多くは 棚畑と化している。
村岡陣屋の山裾を、現在、国道九号線が東西に走っているが、およそ五〇― 六〇mの比高の山腹に居館があった。この陣屋から三〇〇mたらずの前面(西側)、さらに上手(南側)を湯舟川が蛇行し、下手(北側)は昆陽川が取り巻き、 後背に峻険な尾白山が控え、その位置はまさに要害の地といえよう。
武家町は現在の殿町筋一〇〇mにその面影を残しており、上級武家屋敷の遺構がみられる。
しかし、長屋屋敷などはその地名だけ残り、最近の道路整備・ 栄屋改造は、住時の町割りのほとんどを消し去った。街角の分厚い壁造りの土蔵・土塀・出入口を固める寺院などによってわずかに昔日の面影を知るのみである。
『日本城郭大系』12より引用。
城の歴史
慶長 6 年(1601):山名豊国が将軍の御伽衆として七美郡一円 6,700 石を拝領。
寛永 5 年(1628):家督を継いだ三代矩豊が交代寄合衆に列せられる。
寛永19 年(1642):矩豊が所領の中央部にあたる黒野村(のち村岡町と改称)に陣屋を移す。
文化3年(1806):尾白山(旧村岡高校体育館跡地)に移される。
慶応 4 年(1868)新田 4,300 石の加増を認められ、合わせて 11,000 石の大名となり村岡藩となる。
明治 4 年(1871)廃藩置県となる。
城主家系図
ウッキペディアから作成。
城主石高
慶長6年の入部当時は6700石、慶應4年に加増されて11000石となる。
所感
●鳥取城を追放された山名豊国もしぶとく戦国時代の乱世を生き延びて、6700石ではあるが山名家ゆかりの但馬国に所領を得る。
●幕末には加増されて大名になり明治維新を迎える。
●執事に田結庄(但馬山名氏四天王)がいたり、因幡山名時代の家老であった武田高信の三男である助信が藩士として仕官しており、興味深い。
関連URL
山名豊国が追放された鳥取城。
因幡山名氏居城。
但馬山名氏居城。
但馬山名氏最後の城。
参考URL
村岡陣屋 -但馬の城ー – 秋田の中世を歩く
参考文献
『香美町の城郭集成』
『兵庫県の地名』
『日本城郭大系』12
公開日2021/09/04