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城データ

城名:出石城

標高:56m

比高:40m

築城年:慶長9年(1604)

城主:小出吉英により築城、小出氏、松平氏、仙石氏らが歴代城主。

場所:兵庫県豊岡市出石町内町

北緯:東経:35.459952/134.874494

Google マップ (Google Maps) で緯度経度を指定して場所を見つける方法

※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。

 

攻城記

天守閣は無いが櫓が建っている城。

進んでいく。

進んでいく。

西の郭跡。

周辺部。

立派な石垣であるが、積み方が古い気がする。

石垣を青空が似合う。

本丸東隅櫓。

昭和43年(1966年)復興。

二の丸跡。

かなり広い。

二の丸跡からの城下町風景。

石垣の大きさが小さい気がする。

神社。

出石そば発祥の由来。

出石城。

更に進む。

最高部の石垣。

この苔むしてる感じがいい!

更に登って行くと有子山城に行く。

稲荷曲輪。

近隣の石垣。

 

出石城跡

出石城は慶長9年(1604)に小出吉英によって山頂の城を廃して築かれたもので、一国一城制による但馬唯一の城です。
平山城に分類され、梯郭式といわれるように有子山の麓に、上から稲荷郭、本丸、二の丸、二の丸下の郭三の丸と梯子を立て掛けたように城を築いています。
また東には、山里郭を設けて有事に備え、三の丸の周囲には山から堀切で水を引き、内堀をめぐらせ、北に大手門、東西にもそれぞれ東門、西門を設け、天守閣は築きませんでしたが、隅やぐらや多門を設けて要害としました。

城主は小出氏が9代(100年)、松平氏1代(10年)、仙石氏7代(160年)と続き、明治の版籍奉還まで270年間58,000石の本城として、また但馬第一の雄藩として威容を誇りました。
 
最上段の稲荷郭には城の鎮守稲荷神社を祀り、本丸・二の丸には広壮な御殿を建て、渡り廊下で連結させていました。
また本丸には仙石公の藩祖・仙石権兵衛秀久を祀る感応殿や、昭和43年に復元した東西隅やぐらがあり、往時の面影を偲ばせてくれます。
出石町観光協会

 

出石城全景。

後ろの山は有子山。

 

辰鼓楼

明治4年に建てられたので江戸時代のものではない。

城下町からは有子山城も見える。

宗鏡寺【沢庵寺】

沢庵和尚縁のお寺。

小出英安の碑。

 

余湖図【出石城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

ひなたGIS【出石城】

 

 

城の概要

出石城跡 現出石町内町

出石城下の南東、城山(有子山)の北西山裾谷部にある。

 

城域は東西約四〇〇メートル・南北約三五〇メートルで、 出石城下との比高約三六メートル。

 

標高四六・一メートの最高所に稲荷曲輪を置き、その下に本丸・二の丸・下の曲輪を連郭式に配置し、二の丸の東に山里曲輪、西に西の曲輪を置き、天守はない。

 

この山裾谷部の五郭を取囲むように城の東西の斜面に巨大な二本の竪堀(幅一〇メ ートル)を落し、さらに二本の大堅堀と内堀(水堀)をつない で五郭を囲繞するように広大な三の丸(上級家臣の屋敷が並 び、内町ともよばれた)を構築している。

 

慶長九年(一六〇四)出石藩主(有子山城主)小出吉政は父秀 政の跡を継いで和泉国岸和田藩主となり、吉政の嫡子吉 英が出石藩・有子山城を継承。

 

この頃に有子山城の居館部を改修して稲荷曲輪から下の曲輪までの出石城(大竪堀 を含む)が築城されたものと考えられる。

 

ただし有子山城は当城築城後も詰の城としての役割を果し、元和元年( 六一五)の一国一城令の頃に廃城となったと思われる。

 

ま た三の丸は有子山廃城後に構築されたと考えられる。

 

以後歴代出石藩主(小出氏のあと松平氏・仙石氏と交替)の居城として幕末に至った。

 

『兵庫県の地名』より引用。

 

 

出石城

出石城は有子山頂にあった山名氏の城が天正八年(一五八〇)の羽柴(豊臣)秀 吉による第二次但馬征伐の時に落城し、それから約二五年後に山頂の城を現在 の山麓に移して壮大な近世的平山城に築城したものである。

 

つまり、小出吉英が慶長九年に築城して、五万石を領有する但馬唯一の城持ち大名となったので ある。

 

城郭の最上位である稲荷郭から眼下に城下町を見おろし、また真正面に出石 盆地の穀倉地帯のほか一〇数細先の豊岡方面までも見通すことができ、城下を 経て東へは丹波・丹後に通じる京街道、西に向かっては浅間坂を経て因幡方面 へ、さらに奥山から朝日・糸井谷を経て播磨へ通じる街道があり、約四〇mの 高台からは出石川を上り下りする高瀬舟を眺めることができた。

 

ところで秀吉の第二回但馬征伐で落とされた有子城主山名氏政のあと、城主 として在城したのは木下昌利・青木勘兵衛・羽柴秀長・前野長康であり、次い で文禄四年(一五九五)に播磨の龍野城主小出吉政が着任した。

 

吉政の父秀政は 豊臣秀吉と同郷で、秀吉の母の妹を妻としていた関係もあって、大名に取り立てられた人であった。

 

慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦が起こり、吉政は西軍に、 父秀政と吉政の弟秀家は東軍に参加して戦った。

 

東軍での秀家の活躍に免じ吉 政は江戸幕府から引き続き出石城主として認められたが、同九年、和泉の岸和 田城主であった吉政の父小出秀政が亡くなると、幕府は吉政を岸和田に移し、 吉政の子吉英が出石城を継いだ。

 

有子山頂の城を山麓の出石城に移したのは、この吉英の時のことである。

 

吉英が岸和田城を継ぐと、その弟吉親が出石城を 継ぎ、吉親が園部に移されると、再び吉英が出石藩主となって、以後、吉重・ 英安・吉益・英長・英及と九代約一〇〇年間、小出氏が出石城を受け継いだ。

 

また小出氏ののち、武蔵の岩槻から松平忠徳が移封されてきた。忠徳は元禄十年(一六九七)から宝永三年(一七〇六)までの約一〇年間在城したが、慣れない但 気似に苦しんだとみえて、本来ならば本丸の大名の居間で生活するものを理由によって元禄十五年(一七〇二)に平地の三の郭に対面所 てここに移り、以後、各城主もこの対面所を居住の中心とした。

 

松平忠徳が信濃上田の城に移ったあと、入れ替わって上田から仙石政明が出石に移って五万 八千石を領有した。

 

そして仙石政明・政房・政辰・久行・久道·改夷·久利· 政固と八代約一六〇年続いて明治維新となり、明治元年(一八六八)に出石城は 撤去され、同二年に版籍を奉還し、同四年に廃藩置県となり、出石県知事など 新時代を迎えるまで仙石家が城主を継いだ。

 

その間、七代久利の時に有名な仙 石騒動(天保年間=一八三〇-四四頃に起きた仙石家の御家騒動。藩主仙石政 美の死後、主家の支流家老仙石左京が主家横領を計画した事件)が起こって二 万八千石を失い、以後、三万石となり、幕末という事情も加わって藩財政は苦境に立った。

 

『日本城郭大系』12より引用。

 

城の歴史

慶長9年(1604):小出吉政の息子の吉英が5万石大名として築城する。

 

慶長18年(1613):吉政が没し吉英が岸和田藩主となる為、吉政の吉親が藩主となる。

 

元和5年(1619):吉親が没し、再度吉英が藩主となる。

 

寛文6年(1666):吉英の遺領を吉重が引き継ぐ。

 

元禄9年(1696):英及が没し、小出家は無嗣絶家となる。

 

元禄10年(1697):松平忠周(忠徳)が入部。

 

宝永3年(1706):松平忠周が信濃上田に転封となり、上田から仙石政明が入部する。

 

以後明治維新まで続く。

 

城主家系図

初代小出吉政は豊臣秀吉の従兄弟にあたる。

 

所感

●近世城郭としての出石城であるが、築城当時は山頂部の有子山城が詰城となりセットで運用されていた。

 

●大きな石垣はなく小ぶりなものが多い、また算木積みでもなく初期に築城されたものか。

 

●天守閣は無いが、大きな櫓が建っており、城下から見えると立派な城であったと思われる。

 

関連URL

【兵庫県】有子山城【豊岡市出石町内町】

詰城である有子山城。

 

参考URL

出石城(ウッキペディア)

城郭放浪記(但馬出石城)

西国の山城(出石城)

出石藩(ウッキペディア)

 

参考文献
『豊岡市の城郭集成Ⅱ』

『兵庫県の地名』

『日本城郭大系』12

 

公開日2021/09/04

 

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