城データ
城名:佐世城
別名:金剛山城
標高:80m
比高:30m
築城年:室町時代
城主:佐世氏
場所:島根県雲南市大東町下佐世
北緯:東経:35.314504/132.940263
攻城記
入口
案内図もあり分かりやすい。
侍屋敷跡。
石碑もある。
公園化されている。
井戸跡であるがよく分からない。
周辺部。
物見櫓跡らしいがこちらも良く分からない。
最上部あたり。
もう少し整備して欲しい。
最高所からの風景。
看板がある。
金剛山佐世城跡
佐世城は正中3年(1326)佐世七郎左衛門清信が築城して以来、9代佐世伊豆守正勝まで276年にわたる居城であった。
初代清信は、湯頼清の五男・清信で、東忌部地頭から佐世の庄を領し、佐世七郎左衛門清信と名を改め、佐世氏の祖となった。
以来8代佐世伊豆守清宗まで尼子氏の家老衆として、12万石を領していたが、永禄8年(1565)より毛利氏に属し、防州山口に移住。
その後数々の軍功により、文禄3年(1594)再び佐世城主に迎えられた。
佐世氏は、代々文武共に優れ、特に書画、詩歌の遺品が多い。また敬神崇仏の念も厚く、神社、仏閣を造営するなど、大きな業績を残した。
正勝公には嗣子がなく、慶長6年(1601)逝去と同時に、甥に当たる防州山口の佐世丹羽守元量が後職に任じられたため、佐世家は断絶した。
昭和49年4月7日 大東町教育委員会 佐世城址城山公園整備委員会
分かりやすい家系図。
この部分も曲輪だったのかもしれない。
周辺には川も流れており天然の堀の役割をしている。
佐世城全景。
余湖図【佐世城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
主郭は現在公園となっているとと考えられ普請は十分である。
2は佐世城の方向に普請がおこなわれているが、反対側は殆ど行われていない。
そのため佐世城を攻める陣城の可能性がある。尼子氏の重臣、佐世氏の居城と伝わる。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
佐世城
佐世城は大東町下佐世地区の城山と呼ばれている四周から独立した小丘陵にあったが、頂上部に九m×一二mの長方形の平坦地があり、その西側にも東西 三〇〇m×南北二〇〇mに及ぶ四段の平地が続いている。
また、付近には一直 線に造られたとみられる馬乗馬場と呼ばれている場所もある。
城山の麓の広い 畑のある場所は古市と呼ばれているが、佐世氏全盛期の市の跡といわれている。
佐々木頼清の子清信がこの地に来住し、地名をとって佐世氏と名のった。
佐 世氏は尼子晴久に仕え、『尼子分限帳』によれば「御家老衆」とあるが、尼子・ 毛利両氏の抗争後、尼子氏が没落してからは毛利家の家臣となったといわれる。
『日本城郭大系』14より引用。
城の歴史
正中3年(1326):佐世清信によって築城。
天文9年(1540):佐世清宗は尼子軍として吉田郡山城を攻める。
永禄3年(1560):尼子晴久が大森銀山山吹城を攻めるとき参陣する。
永禄6年(1563):毛利軍が尼子の拠点である白鹿城を攻撃した時には尼子倫久を総大将に救援に赴いたが敗れている。
永禄8年(1565):毛利軍が富田城を攻撃した時は尼子倫久の麾下に属して菅谷口をかため、小早川隆景の進撃を食い止めたばかりでなく、これを破って敵を後退させている(その後毛利方に降伏する)
天正20年(1592):朝鮮出兵時には佐世正勝も奮闘する。
文禄3年(1594):佐世の本貫地である佐世の地を加増される
慶長5年(1600):佐世元嘉は関ケ原の戦いの時には広島城を守る
慶長6年(1601):佐世正勝死去 ここに佐世の地における佐世氏は途絶える(家督は元嘉に継がれているので萩で存続することとになる)
城主家系図
城主石高
天正19年 1591年時点の知行 |
佐世石見守 | 2,474.051 | 総石高 |
与三左衛門 | 1,349.255 | 周防 玖珂 |
(佐世元嘉) | 42.534 | 周防 都濃 |
412.772 | 長門 厚東 | |
469.290 | 出雲 大原 | |
200.200 | 備後 恵蘇 | |
佐世勘兵衛 | 200.000 | 長門 豊西 |
(佐世元勝) |
所感
●家老12万石しては城の規模は小さい。
●城の大きさは広くはないが形はいい。
●近隣には鍛冶を行っていた場所や市場、侍屋敷などがある
●弟の元嘉が毛利輝元に重用されており、佐世家当主の元勝は200石あまりの所領であった。
関連URL
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『島根県の地名』
『萩藩諸家系譜』
『日本城郭大系』14
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
更新日2021/07/10