城データ
城名:堀之城
別名:堀の城
標高:274m
比高:25m
築城年:戦国時代か
城主:菅田豊後守
場所:広島県安芸郡熊野町城之堀字城之堀
北緯:東経:34.348600/132.582906
攻城記
麓の看板、嵩山城と記載されているが間違い。
この上が本丸部分、農道が通っているが昔は無かった。
本丸部分は農道を通すために削られた。
農道から直登する。
本丸部分から下を見下ろす。
本丸部分(往時はこの倍あったが農道で削られている)
それにしても、二の丸はかなり下になる。
どのように削られたのか分からないが、削られたところに井戸があったらしい。
堀之城からは嵩山城が見える。
本丸以外も確認する。
本丸から覗き込んだ二の丸付近。
本丸との高低差は10m以上ある。
墓地になっている。
一番広い曲輪。
土塁跡。
土塁から麓を望む、下の部分も曲輪があったのかもしれない。
一番広い曲輪の先端から下を望む。
堀切っぽい。
やっぱり堀切であった。
堀切の先にある曲輪。
城の先端部分。
ここも曲輪か。
一番広い曲輪を見上げる。
土岐城も見える。
位置関係
open-hinataより【堀之城】
余湖図【堀之城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【堀之城】
城の概要
嵩山城跡から南東に延びる丘陵先端に位置する。1邦は北西部分が真道によって削り取られており,以前には石組井戸があったという。
切岸は急頼斜であり,独立性が強い。2郭は77m×20mの規模であり,約50mの二段からなる。
北〜東〜南と郭の約3分の2を土塁が巡っている。1郭と2郭に挟まれた谷部には浅く小さい凹みがあり,横堀の名残かもしれない。
2郭の南東下には堀切があり加工の不明瞭な段が続いている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
堀之城跡
北西から南東にのびる丘陵先端部に位置し、標高(二六〇〜二七〇メートル)低地からの高さ約四〇 メートルである。
西側背後の丘陵尾根は、人工のによって断ち切られている。
近年の道路工事のため一部は 削平されており、全体の構造や遺構などは明らかにできない。
西端部の最高所にある郭(本丸)を中心に四ない し五つの郭から構成されている。
本丸の東側下手には空堀があり、以前には本丸背後に積み井戸が残っていたといわれている。
城の両側には、 城を挟むように小さな谷が入りこんでおり、天然の堀としての役割を果たし ていたと推定される。
築城年代をしる手がかりは少ないが、『芸藩通志』 によれば、嵩山城の出丸かといわれ、菅田豊後守の居城と伝えられてる。
菅田氏は、安芸の東、西条(西条盆地一円)を支配した大内氏の家臣と みられ、大内氏の東、西条支配と関連して築城されたものであろぅ。
採集遺物には、中国産竜泉窯系青磁片、 土師質土鍋、小皿、備前焼甕片などがある。
文献、遺物からみて室町時代中ごろには築城されたものとおもわれる。
『熊野町史 通史編』より引用。
嵩山(城山)の南麓、集落を見下ろす位置にあり、芸藩通志に「嵩山城の出丸にてもあらんか」と紹介さオ†ています。
城郭は、本丸から南に向けて直線状に4~5の郭が並び、現在は堀切が2カ所残り、農道として利用されています。
しかし、昭和の初め本丸の井戸跡を開墾で埋めてしまったことや、昭和55年に北部農道工事のため本丸を2/3削り取ってしまったのは、残念なことです。
付近には堀之池、堀、上ノ土屈など、城に関係があると思われる地名や、落ち矢、ヤヤズ等の合戦の伝説に再来する地名が多く残っており、ありしの城の姿をしのぶことができます。
城の歴史
詳細は不明であるが、大内氏が大永七年(一五二七)二月九日に熊野要害を切落している。
この熊野要害が嵩山城と考えられると思われるので、堀之城も同様に落城したと思われる。
戦後すぐの航空写真
まだ本丸が削られていない時のもの。
現在の航空写真。
城主家系図
菅田豊後守が城主とあるが西条にある槌山城の城番が菅田越中守なのでその親族と思われる。
詳細は不明。
所感
●嵩山城が詰城だと考えると、この堀之城は平時の城だったと思われる。
●城の遺構は本丸部分が半分削られているが、それ以外の遺構はしっかり残っている。
●この部分からは嵩山城も土岐城も確認できる。
関連URL
堀之城の詰城である嵩山城。
近隣の城。
参考URL
参考文献
『広島県の地名』
『熊野町史 通史編』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『芸藩通志』
公開日2021/07/03