城データ
城名:真山城
別名:新山城
標高:256m
比高:245m
築城年:戦国時代か
城主:尼子氏、多賀元信、山中鹿介(幸盛)
場所:島根県松江市法吉町
北緯:東経:35.508640/133.054788
攻城記
看板。
真山城址
真山は新山とも書かれ、標高二五六メートルで、頂上から一の床、二の床、三の床と階段上に区画され、野面積みの石垣が残っている。
永禄六年(1563)毛利軍の将、吉川元春が真山に陣を布き、尼子軍が拠る白鹿城を攻めた。この戦に尼子軍は敗れ、白鹿城は落城する。
以後毛利氏は真山城を拠点として、多賀左京亮元信を入城させた。
永禄十二年(1569)尼子勝久、山中鹿介幸盛らは京都で挙兵し隠岐に渡り、ついで島根半島に上陸して真山城を本拠として広瀬の富田城に
迫ったが、尼子軍に敗れ、尼子勝久は元亀二年(1571)真山城を去った。
勝久退去まで二年余の歳月であった。
以後毛利氏が城を修理し家臣を置いた。真山城の廃止時期は明らかでない。
しっかりとした土橋のような登山道がある。
途中の眺望。
最初の曲輪に向けて進んでいく。
三の床跡に到着。
周辺部。
石垣跡か。
二の床跡。
削平地があるのみ。
木々があるのでよく分からない。
一の床跡。
こちらも削平地のみ。
人工的なものか不明であるが石垣っぽいものがある。
本丸跡。
尼子勝久公之碑。
大正十二年とある。
本丸からの眺望。
下山途中に見えた、白鹿城。
相木盛之助、更科姫の墓があった。
山中鹿介の両親という講談話。
この石碑は大正年代に市内の老人が夢ざとしによって建立したもので、真山落城の哀史とは関係なく、講談では鹿之助の父が相木盛之助・母が更科姫となっているので作った、とある。
島根大学法文学部、人文社会科学研究科 学部長便り2019年5月号 松江・真山の謎?(その1)
島根大学法文学部、人文社会科学研究科 学部長便り2019年6月号 松江・真山の謎?(その2)
一部抜粋。
江戸時代の終わり頃に出た小説『絵本更科草紙』(えほんさらしなぞうし)では、信州の村上家の家臣に相木森之助という大変すぐれた人物がいて、彼が更科姫と結婚し、鹿之助が生まれたとしています。
さて鹿之助は健やかに成長し、やがて、「自分の目標は、戦乱を終わらせて世に安穏をもたらし人民を救うことです」と両親に向かって宣言し、一人武芸鍛錬の旅に出て行きます。
ところがこのあと、京都の地主神社で、ある公家の美しき姫の姿を見るや呆然となってしまい、何も手に着かず武芸鍛錬どころではなくなってしまいます。自分を立て直そうと懸命にもがくものの、どうにもなりません。
結局その後彼は、めでたくこの姫と結ばれます。そして姫の姉が、出雲の尼子義久の奥方となっていた縁で、尼子家に仕官することになります。作者は、鹿之助は自分の抱いてきた「安穏の世」の実現という目標を実現する場(自分の活躍の舞台)として尼子家を選んだのである、と説明しています。
『絵本更科草紙』に登場するこのような鹿之助は、読者に大いに支持されたと見られ、明治以降も、これのアレンジ版が続々刊行され、また講談にも取り入れられています。
あの、忠義一徹の士という人物像は、戦中の学校教育との関係の中で濃厚になっていったものであったと思われます。
先月ご紹介したように、真山の中腹に、相木森之助と更科姫の墓があります。建てられたのは、昭和2年(1927)11月とあり、4名の有志の人々の名が刻まれています。
『絵本更科草紙』かそのアレンジ版を読んで魅了された人々なのでしょう。それにしても、そこから登場人物の墓まで建ててしまうとは……
昭和2年に山腹にこのような架空の人物のお墓を建てる有志って相当尖がっている。
位置関係
余湖図【真山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
真山城は白鹿城の北隣に位置し、白鹿城とは尾根伝いに連絡ができる。また白鹿城を見下ろす位置にあたるため、白鹿城を守る勢力にとって押さえておかなければならない場所である。
したがって尼子氏によって城郭が構えられていたものと考えられる。
永禄六年(1563)に毛利氏が白鹿城を攻めたとき吉川元春はこの地を占拠し、向城として改修したとされている。
尼子氏が降伏した後は真山城が重視され、多賀元信を入れ、白鹿城は廃された。
ところが島根半島の忠山城に入城した尼子勝久、山中鹿介等の尼子再興軍に占領され、元亀二年(1571)に勝久が出雲撤去するまで尼子軍の本拠となった。縄張りは地形に応じて築かれており、堀切は確認できない。
土塁は3郭に確認できる。石積みもわずかに確認できる。主郭は最高所の1郭と考えられるが、2郭の可能性もある。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
新山城跡 現松江市法吉町・西持田町
真山(新山、二五六・一メートル)の峻険な頂に構築された戦国期の山城。南方に白鹿城がある。
築城時期は不明だが、歴史上重要な意味をもって登場するのは戦国期後半 毛利氏が尼子氏討滅のため出雲に進出して以後である。
「雲陽誌」に真山城跡とみえ、永禄六年(一五六三毛利元 就による白鹿城攻めのとき吉川元春が真山を向城として 陣を布いたという。
白鹿城の落城後、毛利氏は白鹿城を 破却し、代わって新山城を整備して多賀元信を入城させ たといわれる。
同一二年六月出雲を奪還しようと島根半島に上陸した尼子勝久は直ちに多賀氏を追放して新山城 を占拠し(「吉田物語」など)、元亀二年(一五七一八月に勝久 が出雲を退去するまで新山城は尼子軍の本拠として重要 な役割を果した。
新山が明確な史料に登場するのは永禄 一二年と推定される七月二〇日の小早川隆景書状で、「末次土居新山衆執誘相抱趣候」とみえ、これ以前に新山城を占拠した尼子軍(新山衆)がさらて進んで未欠成を攻め落している。
新山城に拠る新山衆の戦法は神出鬼没のゲリラ戦によ って毛利軍を攪乱するというもので、末次城をはじめ、多賀氏の居城で野村士悦が守備する羽倉山城、湯原氏の居城満願寺城が攻撃を受け、堀立氏が在番する勝間田城(現鹿島町)は同元年と推定される六月八日の吉川元春書状(堀立家証文)、富田城(現広瀬町)は同元年と推守 される五月二八日の毛利輝元書状などに攻撃の様子が記される。
また元亀元年と推定される五月二九日の小早川 隆景書状や同一一月二日の毛利元就・輝元書状などからは、水軍を利用した新山周辺の森山(現美保関町)・本庄地 域への攻撃も知られる。
これに対し毛利方では向城である羽倉山城など諸城の防備を固める一方、元亀元年頃に 稲薙(苅田狼藉)や(九月五日毛利輝元・小早川隆景連署書状)、新 山の焼打ち(一月一二日元秋書状)を行うなどしてこれに対抗した。
同元年と推定される六月五日の富田元秋書状に 湯原氏の所領は「依新山程近、数年不作仕之由候」とあ るのはこうした戦乱によるものであった。
毛利軍の包囲網のなかで頑強な抵抗を続けた新山衆も、 元亀二年四月初めに高瀬城(現斐川町)が落ちたことにより 急速に弱まり(四月四日毛利輝元書状、四月二七日毛利元就書 状)、同年と推定される九月一一日の吉川元春書状に「今 度新山一着」とあるように新山城は毛利氏の手に落ちた。
尼子軍退去後、毛利氏は新山は「大事之御山」だとして (推定元亀三年四月六日天野隆重書状)、同二年一〇月井上就正・野村士悦・新藤就勝の三名を普請奉行に命じて新山 城の改修を行わせ(同月一三日毛利輝元書状)、多賀元竜・井上就正など複数の城督を置いている(推定元亀三年二月二六 日毛利輝元書状、同元亀三年四月六日天野隆重書状)。
しかし毛 利氏による出雲平定が進むなかで新山城も廃棄されたら しく、天正一一年(一五八三)七月八日の毛利元康書状(成相寺文書)を最後に史料から姿を消す。
遺構としては頂上部から一の床・二の床・三の床と階 段状に区画された削平地が南北に連なり、野面積みの石 垣も残る。
『島根県の地名』より一部抜粋。
新山城
新山城は松江市の中心から北方へ約四畑、北山山脈の中腹に所在する新山に 構築された山城で、南隣には白鹿城のあった白鹿山がある。
『雲陽軍実記』によると、平薩摩守忠度が隠岐渡海のみぎり、島根半島の本庄・森山あたりを添え て清盛より魁律なわれたので、新山に城を築いて政務をみたと記されている。
もちろん伝承ではあるが、中世のかなり古い時代に築かれていたのではないかとの見方もある。
『雲陽誌』によると、永禄六年(一五六三)毛利元就の白鹿城攻めの時、新山を 向城として吉川元春が陣を布いたという。
尼子氏時代には白鹿城がこの方面の 拠点とされていたから、おそらく新山の城郭は一時廃されていたものと思われ るが、白鹿城が落城すると、やがて毛利氏はこれを破却し、代わって新山城を毛利氏の拠点として多賀元信を入城させている。
同十二年六月、出雲を奪還しよ うと島根半島に上陸した尼子勝久・山中鹿介(幸盛)らは、ただちに元信を追放 して新山城を占拠し、それより元亀二年(一五七一)八月勝久の出雲退去までの 二年余、新山城は尼子軍の本拠となった。
勝久の没落後、毛利氏は城を修理し て家臣を交替で在番させた。新山城が廃止された時期は明らかではないが、関 ケ原の戦ののち、毛利氏が防・長二国に削封された頃ではなかろうか。
遺構は頂上部より一の床・二の床・三の床と、順次、南北に階段状に区画さ れ、野面積みの石垣が残っている。
『日本城郭大系』14より引用。
城の歴史
永禄6年(1563):吉川元春が白鹿城攻めの陣を布き、同城落城後には多賀元信が入城。
永禄12年(1569):尼子勝久を戴いた尼子残党が入城。
元亀2年(1571):尼子勝久、毛利氏との戦いに敗れ没落。
慶長5年(1600):関ヶ原の戦い後、毛利氏が周防・長門二国に減封され、廃城。
所感
●曲輪の加工度は低い尾根上に曲輪を作成している、ただしそのところどころに小さな曲輪が点在している。
●尼子再興軍の尼子勝久が拠った城であるが、この城で二年守ったことはすごい。
●遠くは宍道湖まで見える
関連URL
尼子十旗の一つである白鹿城。
参考URL
参考文献
『島根県の地名』
『日本城郭大系』14
公開日2021/06/20