城データ
城名:木村城
別名:新庄城,篠原城,木村山城
標高:140m
比高:120m
築城年:正嘉2年(1258)
城主:竹原小早川氏
場所:広島県竹原市新庄町
北緯:東経:34.381671/132.892827
攻城記
登城口があり分かりやすい。
木村城跡(県史跡)
沼田小早川茂平の四男、政景が正嘉2年(1258)、都宇、竹原庄の地頭職を得て入部し、この城に拠った。天文10年(1541)、武田氏(尼子方)の佐東銀山城(広島市祇園町武田山)を元就と共に攻めていた竹原の興景が陣中で病没した。興景の夫人が元就のめい(元就の兄、興元の娘)であった縁で、毛利元就の三男隆景が天文13年(1544年-12歳)竹原小早川家を相続し木村城へ入った。さらに天文20年(1551)、沼田小早川家を相続して高山城(国史跡本郷町)に移った。
城跡は標高150mの丘陵上に、本丸、二の丸、三の丸に相当する曲輪のほか何段かの曲輪があり、見事な石組井戸が残る。北端に若宮社の跡が残っているが城の守護神であろう。室町時代の文章に「この居城は、だれがなんといってもけっして、はずされてはならない。月に5度ずつ大勢の人夫で築城させよ。塀や櫓も割りあてて修理させよ」と記されている。
竹原市観光協会
竹原小早川氏300年の城。
比高は120mほど。
攻城開始。
竹も生えている。
すぐに山頂付近に到着する。
まずは井戸跡に到着。
若干の石組井戸。
更に進んでいる。
先ほどの井戸跡がある曲輪を上からみた。
次の井戸跡。
石垣跡。
ここには昔若宮社があったようだ。
しっかり残っている石垣。
木村城からの風景。
瓦の残骸が多く散乱している。
曲輪は広い。
上を目指していく。
この石の感じがいい。
本丸までわずか。
素晴らしい石組井戸。
井戸のある曲輪。
本丸に到着。
本丸の状態。
当時はこの城からこのような風景を見ていた。
周辺部。
和賀神社
和賀神社(小早川神社)
昭和20年の豪雨による山津波で損壊。小早川隆景を記る神社。
慶長2年(1597)6月隆景が三原城で没したので新庄ほか数か村の人々が木村城跡の若宮社に隆景を祀り、陰暦9月13日を祭日として旧竹原8ヶ村の村役人等や毛利家からも度々参拝し、祭は300年間続いたが、明治維新後中止となり若宮社も衰退しようとしたので、城の本に明治22年に社殿を建立同23年に県社となる。
明治12年12月に毛利家の3子三郎をむかえて小早川家を再興した。大正12年献納の灯籠に小早川四郎の名が見える。
竹原市観光協会
雁木っぽい船着き場だったか。
小早川神社。
無残な神社になっている。
手島屋敷
手島屋敷
間口約50m、高さ3mの石垣、石垣の両隅は桝形が切られ、中世の武家屋敷の遺構である。
かつては「西殿屋敷」(西の殿屋敷)とよんでいた。小早川氏が竹原を去って以後、竹原小早川家の家臣であつた手島氏がその屋敷と居館をうけついだものと想像される。
中世城館調査では「居館候補地」としてあげられている。
竹原市観光協会
かなりしっかりとした石垣。
竹原小早川家墓地
竹原小早川家墓地(東野町)
宝篋印塔約10基、 五輪塔約20基ほどがある。城の西北の方角にあたることからみても竹原家の墓地にまちがいない。
殆んどが中世末期の様式で、この上の尾根に二基の宝篋印塔は隆景の養父の竹原小早川興景夫妻の墓と伝承されている。
竹原小早川家菩提寺の法常寺跡(現、三原市西町)にも宝篋印塔や五輪塔の残欠がある。
竹原市観光協会
中世の宝篋印塔や五輪塔が残っている。
木村城城遠景。
open-hinataより【木村城】
余湖図【木村城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』木村城
城の概要
城の遺構は、丘陵頂部の1郭を中心とする南郭群、5郭を中心とする北郭群、及び斜面にある畝状空堀群からなる。南郭群は、この城の中心に当ると思われる。
1郭は段差1mの二段からなり、東側に虎口があり、南下の2郭に通じている。
2郭は三段からなり、南端と北西端には土塁が見られる。
4郭の中央には径1.6mの石組井戸があり、西端には北郭群に向けての虎口が開かれている。
1・3郭の東西両側には、2・4郭を連結するように帯郭が設けられている。
東側の帯郭は1郭虎口下が自然地形に沿って突出しており、これはその東下斜面の畝状空堀群と合わせて防御を高めていると思われる。
また、2郭の西斜面にも4条の畝状空堀群があり、2郭の南下の尾根続きには浅い堀切が3条ある。
北郭群の5郭は、4郭より約10m低く、いくつかの段からなる。中央東側と南西端に登城路を迎える虎口があり。
中央東端の虎口を構成する石塁は中程で切れているが、本来はつながっており、東麓からの登城路は、この石塁にそって南北に延びる通路を通って5郭南東部または、6郭に入ると思われる。
5郭北端の高まりは若宮社の跡だが、櫓台を利用したものであろう。
5郭の東下には7・8郭があり、ともに径1,5mの石組井戸と思われる凹みがある。
8郭から南に延びる帯郭の先にも小郭があり、この東側斜面に畝状空堀群がある。
竹原小早川氏の本拠地で、毛利氏から入った隆景が沼田小早川家をも相続して、新高山城に移るまで機能したものと考える。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
木村城
本城は標高三五〇mの城山より北に延びる丘陵先端部に存在する、西下には賀茂川が流れ、竹原港からは約五細奥に入ってはいるが、北側前面を国道二 号線が通り、古来山陽道として交通の要衝であった。
西方には国道二号線沿い に藤ヶ平城・胡ヶ丸城・末徳師城・天下城・本城山城・茶日山城などが、東方 には日名内城が支城として存在する。
正嘉二年、沼田小早川茂平の四男政景が都宇竹原荘などを与えられて、この 城を拠点に分立し、竹原小早川家を開いた。竹原小早川氏は、その後、跡継ぎ 問題がこじれて竹原荘を没収されたこともあったが、元弘の乱では二代景守が 足利尊氏のもとで働いて軍功をあげるなどして所領を拡大していった。
延文年間(一三五六~六一)には、三津三浦(安芸津町三津・風早・木谷)を獲得し、九代陽満弘景の時には、安浦・音戸など内海航路の要衝を押さえ、大崎島大条浦(豊町大長)を拠点に大陸との交易にも参加している。
その所領は、安芸国の内海沿岸の東半に及び、嘉吉年(一四四一)には十代盛景に小早川家の惣領職が 与えられ、沼田本家と同格になっている。
安芸国に大内氏と細川氏の勢力が入 ってくるようになると、沼田本家が細川氏のもとに入ったのに対して、竹原小早川氏は大内氏につき、長禄元年(一四五七)、安芸国東西条の領有をめぐって 大内方の竹原小早川氏らが細川方の鏡山城を攻めると、沼田本家は木村城を攻 め、両家の戦いが始まった。
応仁の乱が始まると、西軍山名方に属した竹原小 早川家の十一代弘景は、応仁二年(一四六八)と文明五年(一四七三)の二度にわたって沼田本家の高山城を包囲攻撃し、同九年には、沼田本家の所領を割譲させている。
十三代興景が佐東町銀山城の戦いで病死すると、天文十三年(一五四四)には隆景が毛利家から迎えられた。
隆景は 同十九年、沼田本家繁平 の養子とより、同二十年、木村城を出て高山城に入 った。
城は、北に延びる丘陵 先端を掘り切って設けられており、東麓に末宗川、 西麓に賀茂川が流れてい て天然の濠となっている。
郭は尾根上に階段状に十 数か所設けられている。 頂部の郭(本丸)は幅一〇 ―一五m×長さ一八皿の 大きさで楕円形を呈し、 西側には石垣が若干みら れる。本丸の北側七皿下 には幅一四皿×長さ二〇 の郭があり、さらにその八皿下には石組の井戸を有する幅三三m×長さ一二mの郭が存在する。
井戸 は怪一・六m、現在の深さは六mを測る。井戸のある郭からは本丸を囲むよう に帯郭がめぐらされている。
先端部の郭には小早川隆景を祀ったと伝えられる 若宮社が存在する。また、城の東側面にも数か所の郭があり、井戸などもみら れ、城の後背部約一畑には詰城と思われる城山がある。
城下の東野町には、家臣団のほかに鍛冶などの職人集団を住まわせ、賀茂川 河口の思橋(竹原市下野町)には市を設けて代官を派遣したという。
城の西側の 山裾部には手島屋敷跡が存在し、巨大な石を用いた石垣が残っている。
手島氏は、家点の中でも指折りの重臣であったという。石垣の長さは五三m、高さは 三mを測り、敷地は二反一瞰(二〇七九が)ある。その北側には、十三代興景夫 妻の基など二十基あまりの五輪塔や製庭塔がみられ、墓地と推定されている。
竹原小早川氏は、楽音寺・東禅寺・弁海神社などを崇拝していたが、九代弘景は北にあたる新庄町の法净寺(元亀二年<一五七一(千五百七十一)隆景はこれを三原に 終し、現在は決常寺という)を氏寺としていた。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』13より引用。
木村城跡一竹原市新庄町西末宗
賀茂川の東岸、北方に突き出した半島状の標高一五〇 メートルほどの丘陵上に位置する。
小早川茂平の四男政景が、正嘉二年(一二五八)都字竹原庄の地頭職を得て築城、一四代隆景が沼田小早川家をも相続して天文二〇年 (一五五一)高山城(跡地は現豊田郡本郷町)に移るまで、竹原 小早川家の本拠であった。
別名を篠原城ともいう。 南方に続く尾根は堀切で断たれ、東の末宗川、西の賀 茂川を天然の堀とする。
本丸は東西一三メートル・南北 一八メートルの円形曲輪、八メートル下がって東西一五 メートル・南北約三〇メートルの二の丸曲輪、さらに七 メートル低く約四メートル幅の帯状腰曲輪が本丸・二の 丸を囲む。
この曲輪には径一・六メートル、深さ約六メー トルの見事な石組井戸が残る。
このほかに数段の腰曲輪 があり、城跡北端に若宮祠の跡がある。南方の尾根伝い 標高三五〇メートルに城山があり、木村城の詰の城と考 えられる。
木村城について嘉吉三年(四四三)八月一二日付の小早川陽満置文写(小早川家文書)に「これのようかい、たれ く申候共、はつされましく候、もし上意なとハせひな く候、月に五たひつつ大人夫にてとしらへさせ被申へく 候、へいやくらハあたり四候、又もかやうにしはい有へく候」とあり、城主の城に対する思いがうかがわれる。
城跡の北方約二〇〇メートルに標高八〇メートルの丘陵があり、この上に小早川家文書にみえる僧都八幡社(現総都八幡神社)、さらに北方に法常寺跡がある。城跡より賀茂川の下流約四キロの現下野町中通に馬橋古市の地名が残り、市が開かれていた地である。
城跡の西北、本城山麓には竹原小早川家墓地がある。
『広島県の地名』より引用。
竹原小早川氏歴史(ウッキペディア)より
正嘉2年(1258年)7月19日:政景は父・茂平より安芸国都宇竹原荘・梨子羽郷の一部などを分与され、 竹原荘に移り住み木村城を築城。
正応2年(1289年):父・政景より安芸国都宇竹原荘を譲り受ける、しかし、跡継ぎ問題がこじれ、異母姉・覚生尼に、景宗は政景の実子ではないと鎌倉幕府へ訴えられる。
元弘3年(1333年)4月、足利高氏(後の尊氏)が丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で鎌倉幕府へ反旗を翻し、諸国に軍勢催促状を発すると、祐景はこれにいち早く馳せ参じ、足利軍の一員として六波羅探題を攻め落とす。
建武2年・延元元年(1335年):足利尊氏が建武政権から離反し、翌年(1336年)1月、京都で新田義貞の軍に敗れ九州へ向かい敗走する途上の2月に兵庫で兵を募ると、祐景はこれも参陣。尊氏から安芸国都宇、竹原庄地頭職の安堵を得る。
この後は、足利氏に直属し南朝方と戦っていく。
建武5年・延元3年(1338年)2月1日:南朝方の軍勢と戦い、奈良で戦死
建武5年・延元3年(1338年)2月:父・祐景が奈良で討死したため、同月、祖父・景宗より安芸国都宇竹原荘(広島県竹原市)・阿波国板西下荘(徳島県板野郡板野町)の一部・備前国裳懸荘(岡山県瀬戸内市邑久町虫明)などの所領を譲り受け竹原小早川家の家督を相続した。
観応3年/正平7年(1352年):観応の擾乱に於いて足利尊氏・義詮方に属して山城国男山(京都府八幡市の石清水八幡宮)八幡合戦に参加。
文和2年/正平8年(1353年)12月、幕府の命令に応え、安芸国入野城(にゅうのじょう)合戦に参加し戦功をあげる。貞治3年/正平19年(1364年)、安芸国西条合戦に於いて討死。
応永5年(1398年)5月13日、父・仲義より安芸国都宇・竹原荘・梨子羽郷南方、備前国裳懸荘、美作国打穴荘など所領を譲り受け、竹原小早川氏の家督を相続した。
弘景の代から竹原小早川氏は大内氏との関係を強めることとなり、家督相続の頃に大内義弘から偏諱(「弘」の字)の授与も受けている。その結果、この弘景から三代の間に、その支配領域を安芸国瀬戸内海沿い東半分を占めるまでに拡張し、海の交通の要衝をおさえる国人領主として大きな勢力へと成長を遂げていくこととなる。
竹原小早川氏は、父・弘景の代から大内氏と関係を深めるようになり、その当主・大内盛見より偏諱を受けて盛景と名乗る。
応永34年 (1427年):弘景より安芸国都宇・竹原荘・梨子羽郷南方、備前国裳懸荘、美作国打穴荘などの所領を譲り受け、竹原小早川氏の家督を相続した。宝徳2年 (1450年)、室町幕府に命じられ、伊予国守護・河野教通の、河野通春討伐に加勢する。
この頃、本家・沼田小早川家では家督抗争が起こる。
室町幕府第6代将軍・足利義教は調停に乗り出し、嘉吉元年(1441年)、盛景が沼田小早川家の家督も相続するようにとの決定を下す。
しかし、この決定を沼田小早川家が承服するわけもなく、これが一因となり、両小早川氏は反目し合い、抗争を繰り返すようになり、応仁元年(1467年)の応仁の乱でも激しく敵対した。
両家の融和がはかられるのは盛景の孫・弘平の代になってからのことである。
竹原小早川氏は、祖父・弘景の代から大内氏と関係を深めており、その当主・大内教弘に臣従して偏諱を受け弘景と名乗る(「弘」の字は大内氏の通字であり、大内義弘よりこの字を受けていた祖父と同名を名乗ることとなった)。
寛政6年(1465年)6月:室町幕府は伊予守護河野通春へ討伐令を出した。
これに従い伊予に出陣した周防・長門守護の大内教弘は幕府に背いて河野氏支援に回った。そのため幕府方は同年8月に安芸国人であった武田氏、吉川氏を大内氏への抑えに当てるべく画策した。
ところが教弘は機先を制して重臣の陶弘正を安芸国に派遣。近隣で戦闘を繰り返した。この最中、陶弘正は討死を遂げるなど安芸国内は混乱を続けた。小早川弘景も大内方の一員として安芸船越に出陣し、安芸武田氏と戦った。
応仁元年(1467年)から始まる応仁の乱では沼田小早川氏と袂を分かち、西軍に味方する。
文明5年(1473年):沼田小早川氏当主の小早川煕平が死去すると、西軍の大将足利義視は、煕平の所領を弘景に与える御内書を発した。
これを口実に安芸・備後国境付近の西軍の主力として、沼田小早川氏の本拠である高山城を攻撃した。
また近隣の野間氏との関係も悪化しており、前年の文正元年(1466年)3月には、野間公光より譲られた波多見島(現倉橋島)に野間弘宣が侵入して占拠。大内政弘の仲介によって一度は野間氏と和解するも、上洛中の隙に野間氏の軍勢が再度波多見島を占領し、最終的に奪われる事件もあった。
文明9年(1477年)、弘景は沼田小早川氏当主で煕平の子の小早川敬平と交渉し、沼田領であった本郷、梨子羽郷の一部所領を竹原領として譲り受けることを条件に和睦した。
応仁元年(1467年)10月2日:父・弘景より家督を譲り受ける。
応仁の乱で西軍として戦った竹原小早川家は幕府と疎遠になっていたが文明17年(1486年)12月には赦免され、翌18年(1486年)、弘平は中務少輔に任じられ、その後、奉公衆にも復帰。
永正4年(1507年)、細川政元が家臣によって暗殺され、さらに政元によって追放されていた足利義尹が大内義興(政弘の子)によって奉じられて上洛を開始すると、弘平はこれに従い永正8年(1511年)、船岡山合戦に参陣。
一方、惣領・沼田小早川家の家督は小早川扶平の死によってわずか四歳の小早川興平が継いでいたものの、足利義尹(のち義稙に改名)が室町幕府将軍職に復帰すると大内義興らがこれを善しとせず、興平に所領の安堵を与えず大内氏と懇意にあった弘平に継がせようとした。
しかし、弘平は幼い興平の後見役をよく務め、所領も要求せず、応仁の乱以来険悪だった両小早川家の融和を図った。この一環として1513年、興平の弟・福鶴丸を養子に迎えている。1519年、実子・興景が生まれたが、この時生存していたとするならば既に50代であったと思われる(家督を継いだとされる1467年に0歳だったとしても、1519年時点で52歳)。
永正9年(1512年)、安芸国の近隣有力国人・天野興次・天野元貞・毛利興元・平賀弘保・阿曽沼弘定・阿曽沼弘秀・高橋元光・野間興勝・吉川元経らと互いの権益確保を図って一揆盟約を結んだ時も、沼田・竹原両小早川家を代表して弘平が署名している。
永正16年(1519年)、小早川弘平の子として生まれる。弘平没後、家督を相続して当主となる。
大内義興から一字を頂き「興景」と名乗る。
大内氏の有力な国人として尼子氏との戦いに従軍し、天文10年(1541年)に元就が尼子詮久の侵攻に対し吉田郡山城で籠城した際(吉田郡山城の戦い)には、援軍として毛利氏の救援に赴いた。
その年、大内氏の命令に従って元就らと共に安芸武田氏の居城である銀山城の攻略に向かったが、陣中において病を発し病死、享年23。
興景には男児がなく、元就の3男・徳寿丸(後の小早川隆景)が養子となり家督を相続。
城主家系図
所感
●竹原小早川家が300年間居城としただけのことはあり城の遺構もしっかりしている。
●石組の井戸が3つあるが1つが完全に残っているがあとの2つは埋もれている。
●本丸からみた時に木が邪魔をして見にくいがこの木が無ければ城下の田園風景もよくわかるのではと思う。
●近くには竹原小早川家歴代の墓があり見ごたえもある。
●比高も高く無く行きやすい山城。
関連URL
本家「沼田小早川家」の居城であった高山城。
竹原小早川家を継いだ隆景がその生涯を通じて居城とした新高山城。
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『日本城郭大系』13
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
公開日2021/05/22