城データ【伴東城】
城名:伴東城
標高:95m
比高:30m
築城年:13~14世紀か
城主:伴氏
場所:広島県広島市安佐南区伴町
北緯:東経:34.459573/132.408849
攻城記
本丸の先の曲輪に該当する部分には神社が建っている。
神社裏辺りを少し確認。
石積みされた様なものも一部発見、ただし、それが石積みかは不明。
子供の遊具の残骸がある。
削平地の為曲輪だった可能性も否定できない。
本来であればこの左半分もあったと思われるが今は柵より左は根こそぎ破壊されている。
削平地(本丸から一段下りた帯曲輪)
帯曲輪から本丸を望む。
見上げる。
城の概要
本城跡は都市計画道路建設に伴い一部が発掘調査された、最高所の三つの段からなる1郭とその北下の2郭、これと通路でつながる3郭の三つの郭が確認されている。
現在、神社境内となっている部分も郭であった可能性がある。
1郭背部は堀切で尾根を絶ち切り、比較的傾斜のゆるい、東側傾斜には竪堀群を設けている。
各郭には、防御用、土留め用と考えられる石列が計六ヶ所検出されている。
本城郭は1郭を除いて全体的に地形的制約から、郭は等高線に沿って細長く、これに柱穴等を掘って柵、板塀、土留杭を設けまた石積みによって防御制を高めるなど、築城に工夫が施されている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
所感
●伴城と同じ山の中にあり敵が攻めて来た時に両方の城から挟み撃ちに出来るように築いたのかもしれない
●神社の部分も平削しており郭だったと思われる(石積もあり)
●ストラムラインの建設工事において城域の半分は崩される
●主郭も半分無くなっているが残り半分は残っている(地元の子供の遊戯的なものがあった)
●伴にはもう一つ城があった(伴小学校が出来た為消滅した)
※3つの城があったので「三城田」という地名がある
参考URL
城データ【伴城】
城名:伴城
標高:70m(ただし団地造成で本丸部分は改変されている)
比高:5m
築城年:不明
城主:伴氏
場所:広島県広島市安佐南区伴町
北緯:東経:34.458617,132.407875
※C. フォーマット「度(DD)」の場合を参照。
攻城記
現在は本丸部分は大きく改変されており現状をとどめていなし。
ただし、周辺を確認すると、改変されていない部分もあり。
※城域かは不明。
位置関係
伴城と伴東城は隣接している。
伴北城は現在小学校になり消滅。
open-hinataより【伴東城】
余湖図【伴東城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
宅地造成に伴って1989年に広島市教育委員会によって発掘調査が実施されている最高所に2段からなる1郭があり、その西下に三角形の2郭、北下に長方形の3郭を配す、2郭には小さな段が数段みられるが、これは拡張の際にできたもので、最終的には最上段の高さで一つの郭となっていたらしい。
四周の斜面は切り立っており、8基の竪堀も設けられている。
礎石建物1棟以上、柵列、多数のピットが検出されており、大量の陶磁器、土師質土器の破片やかぶと二つが出土している。
遺物や文献資料から、15~16世紀初め頃機能していたと考えられる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
『芸藩通志』伴城関係
所感
●縄張図からみて中世山城の典型。
●残念ながら現在は郭は全て宅地化されて面影は全くない
●麓に平坦な場所があり、居住空間があったかもしれない。
●伴氏は昔から武田の庶流として重要な位置を占め、沼田から北にかけての広大な厳島神領を徐々に浸食していき勢力を拡大していった。
参考URL
伴氏について
家系
伴氏は南北朝・室町初期にはまだ武田、あるいは複姓の「武田伴」を名乗っていて、武田一族が南北朝期頃分家したものと考えられる。
厳島神主領を押領
国衙領押領の資料に武田遠江守として出てくるのがその初見だと考えられる。
※年代的には武田遠江守が出てくる。
厳島神領地であった、仙村(広島市安佐南区沼田町一帯の大塚、久地あたりか)を1387年~1389年頃に「武田伴遠江五郎」 が押妨しており、この時、幕府が押妨を止めるよう命じている資料が存在する。
その後、貞治年間(1362~1368) には仙村の内の7ケ村を拝領し、同地の”安堵状”もあるなどから、古来よりこの地を拠点としたことが伺い知られる。
さらに、所領の範囲は拡大して山県郡安芸太田町の「穴」 のあたりまでを所領したようである。
応永の安芸国人一揆に参加
安芸国には、古くは鎌倉時代より武田氏が守護として任じられて守護代を派遣していたが、南北朝時代に武田信武の次男である武田氏信が分家して安芸武田氏となった。
しかし、室町幕府は応安元年(1368年)に氏信を守護職から解任。代わって、今川貞世・細川頼元・渋川満頼が次々に任じられた。
その後は山名氏が守護を引き継ぐも十分な支配を敷くことができないまま応仁の乱により勢力は減衰。一方で、安芸武田氏も勢力を回復させるには至らなかったことから、安芸には有力な支配者がおらず、長年に渡り幕府や近隣の大勢力に振り回されることになる。
そのため、安芸の国人領主たちは、相互扶助を目的として団結することで対処しようとしていた。
伴氏は安芸国国人一揆に多くの国衆として参加している。
陰徳太平記における伴氏
『陰徳太平記』には伴氏の活躍が語られており、親類筋の重臣として重きをなしていたと考えられる。
たとえば、武田元繁と毛利元就が激突した 「有田合戦」 では伴民部少輔好清入道西阿 や嫡男である、伴五郎繁清 が参陣し活躍した。
有田合戦で戦死した 武田元繁 の後継である武田光和の代になって、熊谷氏が武田を離れ毛利氏に服属したことに立腹し、高松山城下(広島市安佐北区可部)で熊谷氏を攻撃した 横川の合戦では、光和が搦手を攻め、繁清は大手攻めの大将として参陣している。
また、伴五郎繁清 は武田光和の妹婿とも言われ、嫡子のいない光和は生前、繁清の子刑部少輔(信重)を後継者として決めていたようであるが、香川氏や己斐氏の反対で実現せず、若狭の武田信実が養子に迎えられている
※陰徳太平記では繁信の子供を武田信実としているが間違いである。
しかし、武田光和の後嗣を伴氏から迎えたとするのも、武田一族という血縁関係だけでなく、家中における実力の大きさを前提とするものではないか。
伴氏謎の最後
このように大きな力を持った伴氏であったが、武田氏滅亡時には大内方に味方するもの、味方したが再度謀反するものと混乱が発生し最終的には滅亡する。
厳島神主家の滅亡と伴氏の寝返り
尼子軍潰走の前日にあたる天文十年正月十二日、佐西郡の 友田興藤が再び大内氏に背いて兵を挙げ、伊予村上水軍の支 援で厳島を占拠した。
大内義隆はただちに厳島に水軍を送ってこれを奪還すると、三月十八日、岩国から門山城(廿日市市城山)、ついで藤掛(同市宮内・下平良)に進 み桜尾城を囲んだ。
一年半にわたって抵抗を続けられた大永 四〜五年(一五二四〜五)のときと違い、今度は武田氏がのちにみるように金山城を包囲されて身動きがとれない上、頼みの神領衆も次々と大内方に投降した。
このため桜尾城に一人残った興藤は、四月五日、城に火を放って切腹し、ここに 厳島神主家は滅亡した。
「棚守房顕日々記」によると、天文九年九月 一日、陶隆房ら大内氏部将は厳島に宿をとって、「佐東伴方計略」を廻らしていたという。
つまり、武田一族の伴氏に対 する寝返り工作の作戦を立てていたのである。
同十三日、こ れが功を奏し、伴氏(「陰徳太平記』のいう繁清のことカ)が 大内方となり、一族の平城・前原両氏(広島市安佐南区沼田 町伴に小字「平木」「前原」がある)を殺し、吉山氏(同町吉山 の領主であろう)らを石道新城(同市佐伯区五日市町石内)に 追放した。
このまま、大内氏に寝返れば伴氏も家名存続できたが、最終的には滅亡する。
金山城落城
「陰徳太平記」によると、天文十年正月十三日の尼子軍の敗走を聞いた武田信実は、その日の 夜、大雪に紛れて、尼子氏から派遣されていた牛尾幸清と共に金山城を忍び出て出雲に逃れたと いう。
「房顕覚書」によれば、主のいなくなった金山城では、伴・香川・品川・無藤・内藤・逸見らが籠城して大内軍と 戦う構えであったという。
もしこの記事が正しいと すれば、伴氏が前年寝返っ たとする「棚守房顕日々 記」と矛盾するが、両書 の伴氏が別人なのか、寝返ったあと再び復帰した のか、「房顕覚書」の誤 りなのかいずれとも判じ難い。
『陰徳太平記』は次のように伝える。 先に大内方に転じた香川光景・己斐豊後守が仲介に立って和談を勧めたところ、城兵のほとん どが同意したが、内藤弥四郎繁勝だけが城を枕に討死すべしと強硬に反対したため、一同もしば らくは和談に応じなかった。
しかし、五月七日になってついに降伏することになったので、内藤 は城の客殿に武田元繁・同光和の画像を掛け、その前で切腹して果てた。他の者は西麓の伴城に 集められたが、このとき井尻与三なる者が、 「我々の命を助ける敵ではない。幸い伴城は四周に堀もあって要害の地であるから、最後の一 戦をして華々しく散ろう」と提案した。
他の者もこれに同意して伴城に籠もったため、翌八日毛利元就が押し寄せ、 とく討ち果たしたという。
これに対して「房顕覚書」は、きわめて簡潔に、 佐東金山和談ナサレ、内藤・斉藤 (武力)ノ者共、士ヤクラマテ追下シ、五月十二日討果ス とだけ記す。
これらは軍記物だったり、人からの伝えられた覚書であるのでどこまで正しいかは不明。
しかし、当時の感状が残っており、この中で「金山伴城」「金山伴陣」というのがあるため、実際に伴城で戦があったことはうかがい知れる。
これらの感状から以下のことが分かる。
天文10年(1541)5月12日夜かた13日にかけて大内方が伴城を攻めて、武田家人が討たれた。
ただし、討ち取られたものは①南部左京亮 ②内藤小三郎 ③内藤右衛門太夫 ④内藤弥四郎 などで、伴氏の名前は見当たらない。
伴一族も伴城で討ち取られたのか、当時すでに大内方に寝返っていたので、武田家中のものがすでに伴氏のいない伴城に立てこもったのか、謎である。
伴一族滅亡
金山城落城した後、大内義隆は山口に帰らないまま、翌年一気に尼子氏を打倒すべく、出雲に遠征した。
その留守中に 武田一族の伴氏が謀叛を企てた。しかし、武田家再興をねらったこの計画も義隆の知るところと なり、義隆は伴氏討伐を毛利元就に懇請した。
※「毛利家文書252」
元就はこれを受けて、天文十一年十 一月十四日、伴氏を攻め滅した。
※「閥閲録100-18」児玉惣兵衛
ここに、伴氏は滅亡した。
伴氏一族
武田伴遠江守
14世紀後半に、厳島神主領を押領した人物としてその名前が出てくる。
伴地域を所領としており、武田遠江守→武田伴遠江守へ変化し結果的に伴氏を名乗るようになる。
伴兵部大夫経房
応永11年(1404)の安芸国国人一揆に参加、参加者名簿にが武田家臣が多く記載されており、その中の1人として国人衆の1人に数えられる。
伴入道西阿
伴五郎繁清
「陰徳太平記」に記載されている人物。
永正14年(1517)に武田元繁が吉川氏の有田城を攻めた時に従軍、
伴入道西阿の息子が五郎繁清か
伴五郎
天文13年(1544)に宍戸隆家が大内義隆から芸州佐東郡阿那村274貫文を所領として受ける。
※「萩藩閥閲録一巻-6」宍戸美濃
この土地が伴五郎の土地であった。「陰徳太平記」に伴五郎繁清とあるのでこの人物の所領であったか。
家系図
武田伴遠江守と伴民部太夫経房は親子関係の可能性があるが、詳細は不明。
初期の伴氏家系図
伴繁清は武田光和の妹婿だったため、その子供(信重)を養子にしようした経緯がある。
結果的には若狭武田家から信実がきて家督を継ぐが、大内氏に銀山城が包囲されると、出雲に逃亡。
結果的に武田家最後の当主として信重が城にて防戦するも落城。
伴としては断絶したが、繁清の娘が香川家に嫁ぎ血脈をつなげている。
伴氏の古墓
①長福寺跡
伴繁清の墓とされる宝篋印塔。
ただし寄せ集めの石材になっており正規の形ではない。
多くの墓がある。
②中山神社麓古墓
長福寺跡に隣接している場所にも五輪塔や宝篋印塔がある。
③長福寺跡から北へ数百メートルの場所
墓の形態から戦国時代と思われる。
④雲岸寺の古墓
近隣の墓を1つにまとめている。
⑤武田一族終焉地の地にある古墓
立派な石碑や看板あり。
伴付近でもこれだけの小墓があることから、伴氏がいかに大きな勢力であったかが分かる。
伴氏参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『安芸武田氏』河村昭一著
『萩藩閥閲録』
『大日本古文書 家わけ第八の一』
『新裁軍記』
『萩藩諸家系譜』
『陰徳太平記』
公開日2021/05/02