城データ
城名:恵下山城(えげやまじょう)
別名:会下山城,恵下山ノ城
標高:69m
比高:65m
築城年:鎌倉時代末期から室町時代末期
城主:金子氏か
場所:広島県広島市安佐北区玖村
北緯:東経:34.481494/132.511142
攻城記
麓には円正寺があり、この場所が館跡とも言われている。
本丸南の曲輪。
本丸の東に降りたところの帯曲輪。
恵下山の矢竹。
本丸、前方には八木城がある。
本丸の北へ降りたところの堀切。
本丸から対面にある右の曲輪(出丸)
石垣跡。
当時のものかは不明。
曲輪は弥生時代には弥生人の生活の場であった。
北を望めば熊谷氏の居城である、高松山城がある。
その他曲輪跡。
位置関係
open-hinataより【恵下山城】
余湖図【恵下山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』恵下山城
城の概要
本城跡は、弥生~古墳時代の竪穴住居跡とともに県史跡に指定され、恵下山公園として公開されている。
太田川左岸の低丘陵上にあって、西の太田川、南の諸木川を天然の堀として利用し、南の地蔵堂山城域とともに太田側右岸の八木城跡と対峙している。
城の配置は、1郭から南西方向に三つの郭を階段状に並べ、1郭の東、西両斜面には帯郭を置いている。
また1郭東隣の小丘陵には出丸が設けられている。全体的な縄張りの形状は馬蹄形をしており、合計15の郭からなる。
高陽ニュータウン建設に伴い発掘調査が実施されており、その結果1郭から建物八棟分の柱穴郡、柵列、石垣などの遺構が確認され、1郭を中心に陶磁器、土師質土器、鉄製品、スラグ、坩堝などの多くの遺物が出土した。
本城跡はその地形的環境から水軍城としての機能も指摘されている。
城主は金子氏と伝えられるが、詳細は不明である。
城郭の使用された時期は出土遺物によれば鎌倉末~室町末期の頃と推定されている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
広島県史跡 恵下山・山手遺跡群
指定 昭和49年4月25日広島市安佐北区落合三丁目 真亀三丁目
この遺跡群は、弥生時代の住居跡群や6世紀後半の古墳、鎌倉~室町時代の恵下山城跡からなってます。
恵下山城跡は、尾根を利用して築かれ、頂上の郭(平らに削った場所)から対岸の八木城をはじめ、周囲の山城を望むことができます。
また、大田川・諸木川を天然の堀とし、頂上の郭を囲むように14の郭を配置して守りを固めています。背後(搦手)は、尾根を切った堀切で敵の侵入を防いでいます。
このように、この城は、自然の地形をうまく利用して防御の工夫を各所に凝らしており、小規模ながら、中世山城の特徴をよく残しています。
鎌倉時代以後の安芸国では、武田・熊谷・香川・金子氏などの東国武士が入国し、所領をめぐる争いがくり返されます。この山城からは、不安定な情勢にあって自分の所領を命をかけて守ろうとした姿(一生懸命)がうかがえます。
この城跡を含む遺跡群は、弥生の昔から人々の活動した様子を伝える貴重な財産なのです。
看板より
本城は、太田川が三篠川と合流する地点の東側の低丘陵群の一つに位置する。
このあたりは、出雲・石見両街道の分岐点にあたる可部町をすぐ北に控え、古 来、川船交通の要衝でもあり、城跡西下の小集落には、昭和の初めまで船着場 があったという。
香川氏の八木城とは太田川を挾んで相対峙し、地蔵堂山城は 同じ太田川の左岸ではあるが、小さな谷一つ隔てて約四〇〇m離れた南方にあ る。
また、頂上に立つと、北にははるか熊谷氏の高松山城、西南には香川氏の 中ノ城を遠望できる位置にあった。 城主は不明であるが、『田所文書』(安芸郡府中町中村、田所氏所蔵)には、 金子氏が会下山の城主ではなかろうかとある。
また、『芸藩通志』にも玖村の 内に金子三郎次郎入進願西という者の城跡があるという。金子氏は武蔵国村山 党の出身で、承久三年(一二二一)に温品村の地頭職を与えられているが、ほかに確実な文献がみあたらず、城主とは断定できない。
本城跡は地蔵堂山城と同じく、広島県教育委員会が「高陽ニュータウン計画」 伴い、遺跡の分布調査を行なった結果、確認されたものである。
昭和四十五 年の分布調査の際は、赤松など樹木の繁茂が著しく、また当時、山城跡への注 意があまり払われていなかったためもあって、確認できなかったが、その後、 『芸藩通志』に「恵下山ノ城」として記載されていることがわかり、樹木伐採 後、再度分布調査をして確認された。
発掘調査は、同四十八年七月より九月にかけて行なわれた。調査後、遺構の残存状態が良好であることなどから、周辺 の弥生住居跡群と共に翌四十九年に県史跡に指定され、現在は団地の一角に公 やよい 園として復元住居と共に市民に公開されている。
城は、南に延びる丘陵の先端部を切断して設けられており、馬蹄状を呈して いた。両側は急傾斜で、特に西側が著しかった。東側の丘陵に比べて西側の丘陵は加工痕が著しく、本丸からは多数の柱穴が検出された。
本丸は、さらに 四つの小さな段に分けられており、各段の周辺には多数の河原石がみられ、北 端と東端には長さ四―六m程度の簡単な石垣が認められた。
各段の周辺には柱 穴列が認められ、柵で囲まれていたものと思われる。掘立柱建物跡は一応、八 棟が推定されたが、さらに多数のものが幾度も建て替えられ、長期間存続した ものと思われる。
推定復元された建物跡の大きさは、一間x二間ないしは二間 ×二間といずれも小規模で、柱間もまちまちであり、等間隔でないものもかな つぽ りみられた。建物跡の周辺よりは焼土・木炭片と共に鉄滓数十点、坩場一点が 出土し、簡単な鍛冶も行なわれていたものと思われる。
本丸の後背部には比高差八mほど切り込んで、底幅一一mの大きな空堀を設けていた。
空堀より奥は自然丘陵となり、東下の谷頭には湧水地が確認された。
の前面は中央よりやや東寄りを蛸壺状に切り込んで通路としてお たこつぼ は馬蹄形を呈した。
その先は底幅一〇mの空堀になっていた。本丸を うに数か所に郭が設けてあったが、そのレベルはいずれも異なり、西側のもの は帯郭と推定された。
二の丸は幅一〇-三〇m×長さ四五mと本城跡の中では一番大きく、中央部 は底幅三・五mの浅い溝で区切られていた。
遺物はほとんど出土していない。 二の丸の東側には古墳(横穴式石室で、須恵器・馬具・鉄刀・刀子・鉄鏃など やじり が出土)を削平して小さな郭(十郭)が設けてあった。二の丸の南側には比高差 約二〇mで、幅四六mX長さ一六m、プランが三日月形を呈する郭(三郭)が設けてあった。
搦手は若干弱く感じられたが、各郭は巧妙に配置されていた。馬蹄形の先端 部は現在、寺院となっているが、東西八〇m×南北四〇-五〇mの微高地があ り、ここに居館があったのではないかと推定された。
なお、城の東方約一〇〇 やますぞ mの山裾部には五輪石を多数襲めた場所があり、地元の人の話によれば、寺が あったと伝えられており、『芸藩通志』の古地図に描かれている恵光寺跡の可 能性もある。
出土遺物には、土師質土器(皿が大半で糸切底である。そのほかに鍋)、備前 焼(・壺・擂)、常滑焼(甕・三耳壺)、瀬戸焼(碗·瓶)、龍泉窯系青磁(碗) 景徳鎮窯系白磁(皿)、中国製磁器類(瓶子・壺)、高麗青磁(碗)、硯、仕上用砥石。鉄釘、鉄鏃、鉄滓などがある。
そのほか、弥生式土器(甕・高坏)が若干み られた。
遺物の大半は本丸から出土しており、備前焼の甕の破片が多かった。国産の 陶磁器類は鎌倉時代から室町中期のものが主で、中国産のものは南宋から元、朝鮮産のものは高麗末と推定された。
数百m離れた所にある、ほぼ同規模の地蔵堂山城主の名が玖村玄蕃允繁安と明らかであるのに、当城主の名はすでに不明になっていること、また出土遺物 が地蔵堂山城跡のものに比べて古いことなどから、当城は鎌倉末期ないしは室 かから存続していたが、室町後期にはすでに廃城になっていたものと れる。
なお、立地および郭の繩張りの状況などの面では地蔵堂山城より優れて いる。
『日本城郭大系13』より引用。
所感
●現在公園になっており憩いの空間になっている。
●麓のお寺が昔の館だったらしい。
●出丸には石積の跡がある。
●太田川の対面には八木城もある。
●戦国時代は玖村氏がいたので(地蔵堂城が居城)この恵下山城もこの頃は玖村氏の支配下になっていた可能性もある。
●金子氏の子孫である温品氏は1499年に温品国親が武田から離反して滅亡しているのでこの前後に恵下山城の城主も金子氏(温品氏)から変わった可能性がある。
●安佐北区で水軍の城?と思われるかもしれないが当時はこの付近まで海岸線であり(祇園の地名に帆立という場所がある)少し上流に位置していた。
※八木城の香川氏も水軍の将として活躍しているので恵下山城もそのような性格をもっていたと考えられる。
関連URL
同族の金子氏が居城していた永町山城。
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『日本城郭大系13』
『広島県の地名』
公開日2021/05/01