戸坂入道道海の墓
城データ
城名:戸坂城
別名:茶臼山城
標高:262m
比高:232m
築城年:戦国時代か
城主:戸坂氏
場所:広島県広島市東区戸坂
北緯:東経:34.422751/132.485463
攻城記
ルートが複数ある、今回は戸坂方面から行く、牛田山の山頂が戸坂城になるので登山ルートもしっかりしている。
どんどん進んでいく。
主郭手前の小郭か
※削平地になっている。
山頂までは時間がかからない、また曲輪も多くない。
戸坂城の矢竹。
当主であった、戸坂入道道海の墓と呼ばれているもの。
昔、発掘されたがなにもなかったとのこと。
整備された墓
本丸(山頂)に到着。
対面には安芸国守護である武田氏居城の銀山城(金山城)がある。
太田川。
当時はこの川は無くもう少し西の方にあったらしい(現在の古川)
広島湾も一望できる、前方の島は宮島。
広島城も少し見える。
別の方向をみると己斐が見える、己斐にも己斐古城や己斐新城があった。
東を見れば、松笠山も見える。
ここにも城があったという。
主郭から北へのびる曲輪。
位置関係
open-hinataより【戸坂城】
余湖図【戸坂城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』戸坂城
茶臼城山が戸坂城になる。
城の概要
本城跡は、茶磨山山頂に位置し、眼下に太田川の可耕地を見下ろす事ができる眺望良好の地に立地している。
郭は、最高所と、その北東から東にかけて囲むものの二つからなる。立地から考えて連絡ないし詰城としての機能を考えたい。
城主は戸坂氏と伝えられている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
戸坂氏について
戸坂氏は広島市東区戸坂に在地した国衆である、伝承では武田一族となっているが詳細は不明。
戦国時代には己斐城で討死した戸坂播磨守信定や毛利弘元が内部庄の支配権を将軍に認めて貰うように武田氏にお願いする書状に戸坂三河守信定が連署しているので、武田家家臣を代表する家であったことは間違いない。
武田氏滅亡前後には戸坂入道道海という人物がおり、落城時に武田氏の遺児を逃して安国寺に入れさせたという話も伝わっている。
そして、この遺児がのちに関ケ原の戦いで西軍代表である毛利輝元の外交僧として活躍する安国寺恵瓊との伝承もある。
戸坂の地は最終的には毛利の所領になり、その家臣が拝領することで、戸坂氏はその傘下に加わり臣従したものと思われるが、歴史の中で埋もれてしまいその後は不明、広島市やその近郊に戸坂という苗字がおらず、山口県(宇部市)に多いため、一族は関ケ原前後には戸坂の地から宇部に一族で移り住んだのかもしれない。
城の歴史
1221年:武田信光が安芸国の守護を賜る。
1274年:武田信時が蒙古襲来に備えて安芸国へ下向する。
※このころ一族の武田某も一緒に下向して在地名と取り戸坂氏を名乗ったか。
1392年:三宅神社が勧請される戸坂氏が勧請した可能性もある。
1457年:戸坂播磨守信成が己斐城にて討死信成の遺児が家臣とともに宇部の岐波へ行くとの伝承がある。
1499年:戸坂三河守信定が毛利氏の所領安堵について武田氏以下重臣と連署する。
1517年:主君である武田元繁が有田の合戦にて討死。
※この戦いに戸坂入道道海や戸坂小次郎繁澄も参加している「陰徳太平記」
1527年5月13日:松笠山の戦いに於いて戸坂入道道海が活躍。
1530年代:この頃松笠山観音や菩提寺である無量寿寺を勧請する
この頃大内方の大須三郎、矢賀新開に於いて戸坂弾正に滅ぼされる「知新集」
1539年9月17日:戸坂に於いて合戦がある(武田と家臣戸坂氏+尼子VS毛利+大内)
温品のニヶ城山に行く途中に千人塚がある(この戦いの戦死者)
1540年4月9日:武田氏に攻められ戸坂要害落城 戸坂入道道海自刃との伝承がある。
1540年6月25日:武田、尼子方の某和重から戸坂氏の離反が無いように書状がくる。
1540年頃:一時期戸坂城を杉原播磨守盛重の弟盛村が、武田信重の麾下に属して戸坂を領しているとの伝承がある。
※このころ戸坂一族の一派が宇部の岐波に移動しているかもしれない
※1543年の事とリンクしている可能性がある。
1541年5月12日:銀山城落城、この時に戸坂氏は毛利氏の所領になるはずだった温品村の所領を賜る。
1543年:天正十一年(1583)芸州戸坂城主部坂左近道正、尼子の乱に際して落城して磯地に来り草庵を結びて住す。
※天文11年の誤りではないか。
1551年9月:陶晴賢が大内義隆を謀反で滅ぼし一族の大内義長を君主にする。
1552年9月:毛利元就が大内義長から所領を賜り、又戸坂、香川、三須、遠藤を支配下に置く(この時から戸坂氏が毛利氏に臣従する)
1553年5月:毛利氏が新たに得た戸坂の地から山県就相に「戸坂本地内田畠四十貫」を与えている「萩藩閥閲録巻133、山県四郎三郎」
1556年4月5日:福井元信にも戸坂の地が与えられている。
※田四町七段、米十四石三斗六升足之事 「萩藩閥閲録巻119、福井十郎兵衛」
1557年11月18日:毛利元就が防長攻略をして大内義長を滅ぼす。
※戸坂氏も出陣している
城主家系図
あくまでも年代を追った羅列したもので直系かどうかは全く不明。
戸坂播磨守信成
1547年に己斐古城において討死。
遺児は大内の所領の宇部岐波村に行く伝承がある。
戸坂三河守信定
1499年に毛利弘元が内部庄の支配権を将軍に認めて貰うように武田氏にお願いをする書状に武田氏の人間として連署している。
戸坂入道道海
安国寺恵瓊が小さい時に銀山城から逃れさせる。
後に1540年に武田に攻められ自刃。
※ともに伝承。
戸坂小次郎繁澄
武田元繁の有田合戦に戸坂入道道海と一緒に行く。
国衆として重要な地位に就いていた戸坂氏
明応八年(1499)の史料に戸坂三河守信定が出てくる。
この史料は、そのころ幕府権力とそれに結びつくことによって勢力を維持していた守護武田氏、その家臣であった熊谷氏、そして実力的にはともかく、なおも幕府の意向に左右されざるをえなかった国人領主毛利氏の関係をよく示す史料の一つである
「明応八年三月六日武田元繁外九名連署状、毛利家文書166」より
武田元繁外九名連書状
上位御窺之事、并内部庄伊豆守(武田元信)一行之儀、急度遂注進、可申達候、聊不可有無沙汰候間、以連署申入候、猶委細吉河(経基)殿へ申候
「明應八年」三月八日 (武田)元繁
品川左京亮膳員
香川美作守質景
今田土佐守國頼
壬生源蔵人太夫國泰
山中丹後守宗正
白井禅正太夫元胤
中村修理進質茂
熊谷民部丞膳直
戸坂三河守信定
毛利冶部少輔殿
この文章の大意は「上意御窺事」(毛利弘元の内部庄の支配権を将軍に認めてもらうこと)「内部荘伊豆守一行之儀」(それに武田元信が同意の文章を出すこと)の二点について武田元信に申し入れることを、武田元繁以下の諸将が毛利弘元に連署で約束するというものである。
この当時安芸国守護の武田は本家である若狭武田氏の指揮下のもと動いているにすぎなかった。
つまり各国人も本家である若狭武田家の武田元信については主として仰ぐが、安芸国の守護職にある武田元繁には大きな力が無くその為、連署によって毛利弘元に対する約束をするという事になる。
更に、安芸武田氏権力の特質は、なによりもこの史料に明らかなように、安芸在住の武田元繁が、惣領武田元信(若狭国守護で本家に当る)の規制にあって一個の領主として自立できていない点にある。
この毛利氏への約束が、武田元繁一人の署名では不十分で、品河氏以下戸坂氏までの諸将が連署しなければ安芸武田氏の全体意志が表現出来ないのである。
連署した人々は本家武田元信(若狭国守護)の家臣であっても、武田元繁(安芸国分国守護)の家臣では無かったということを如実に示す史料ではなかろうか?
つまりこの当時から安芸国守護の武田家に大きな権力も無くそれが国内の統一が出来なかった一因である。
そのような中で戸坂三河守信定は安芸国の諸将の中でも重要な地位にいた事はこの文章を見ても確実である。
所感
●城域も狭く郭のあまり加工していなかった。
●見晴らしはとてもよく瀬戸内海の動きも分かったと思われる。
●主君である武田氏銀山城の東に位置しており尚且つこの地域は江戸時代に広島城下を山陽道が通るまでは主道路であった。
●今は大分内陸部になっているが当時はこのあたりが海岸近くであった。
●戸坂氏は川ノ内衆(武田水軍)として活躍していたと思われる。
●1591年の毛利の分限帳に名前が出ていない事から一族はそれまでに戸坂の地を去っていたか陪臣、帰農していたと思われる。
関連URL
戸坂氏について詳細に記したもの。
戸坂支城。
参考URL
参考文献
『芸藩通志』
『広島県の地名』
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
公開日2021/05/01