城データ
城名:雁金城
標高:130m
比高:110m
築城年:戦国時代(天正9年頃か)
城主:吉川経家 城代:塩冶周防守(塩冶高清)
場所:鳥取県鳥取市湯所町
北緯:東経:35.513947/134.234698
攻城記
平和の塔が本丸になるのでそこを目指す。
道は狭いが山頂までの比高は高くないのですぐにつける。
途中の道すがら。
山頂に到着。
鳥取城が見える。
鳥取市の街並み。
当時は川と田園地帯。
さらに行けば丸山城の続く。
周辺の削平地。
城の遺構かどうかは不明。
麓まで降りてから鳥取城を望む。
位置関係
鳥取城へ兵糧を送るために作られた陣城
城の概要
雁金城は、湯所町の愛宕山の上にあった。天正九年、吉川経家が鳥取城籠城の時、この山に城を築き、鳥取城とその出城の丸山城との繋ぎの城とした
しかし、 羽柴(秀吉)麾下の勇将宮部善祥坊が天徳寺越えの「道祖神のたわ」より猛攻を加えたため支えきれず、城将塩冶周防守は丸山城に逃れた。
このため、鳥取落 城の時期が早められたという。現在、山頂に「平和祈念塔」が建てられている。
『日本城郭大系14』より引用
久松山の北西、愛宕山(一三六メートル)の山頂にある戦 国期の城跡。天正九年(一五八一)の羽柴秀吉の鳥取城攻めの時、久松山の本城と丸山の出城の中間の備えとして築かれた出城で、吉川方の塩冶(塩屋)周防守が守ったとい う。
山の尾根続きを雁金尾と称し、「因幡民談記」には雁金尾の城と記される。
県立図書館蔵の「旧塁盤覧」によれば、山下袋川の下流の御乗場の向いにある畑地を雁金と称することなどから。古くは愛宕社のある山の下辺りも「カリガネ」と称し、やがて同山の名も雁金となったともいう。
「陰徳太平記」には「鳥取、丸山の中間に在りける 雁金山」と記される。北西に丸山城、南東は天徳寺山の砦、さらに道祖神乢の砦と続き、久松山の本城とつなが っていた。
本城と出城を結ぶ重要地点として厳重に守備 されていたが、この砦を崩して本城と丸山の出城を分断 するのが肝心とする秀吉の下知で宮部善祥坊とその郎等らは道祖神軋に登って同所から攻撃をかけて当城を落し た。
塩冶周防守は丸山城に逃れたという(因幡民談記)。同 年一〇月吉川経家は鳥取城開城を決め、同月二五日塩治 らとともに切腹した。
城の歴史
天正9年(1581)の羽柴秀吉による、鳥取城攻城時に吉川経家が築いたという、城代は塩冶周防守で、塩冶氏は兵庫県美方郡新温泉町浜坂にある芦屋城の城主であったがこの雁金城にて丸山城からの兵糧を鳥取城に送っていた。
しかし、羽柴秀吉の将である、宮部善祥坊の攻撃に耐えられず落城し、丸山城に逃れる。
宮部善祥坊により雁金城ら奪取されたことが記載されている。
香川図
KAGAWA GALLERYより引用。
雁金城もしっかり描かれている。
所感
●丸山城から鳥取城へ行く間の山に築城し兵糧を運んでいたが、宮部氏の猛攻によりあえなく陥落。
●塩冶氏は兵庫県美方郡新温泉町浜坂一帯を治めていた国衆である。
●城の遺構は平和の塔建設で改変されている。
関連URL
雁金城の本城である鳥取城。
羽柴秀吉が陣取った太閤ヶ平陣
隣の山城で奈佐日本助とともに鳥取城に兵糧を送り込んだ。
参考URL
参考文献
『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』
『日本城郭大系14』
『新修鳥取市史 第一巻 古代・中世編』
『鳥取県の地名』
『因伯の戦国城郭 通史編』 高橋正弘著
公開日2021/04/11