城データ
城名:私部城(きさいちじょう)
別名:私都城 市場城
標高:260m
比高:120m
築城年:室町時代前期か
城主:毛利氏、山名氏政
場所:鳥取県八頭郡八頭町市場
北緯東経:35.414466/134.315135
攻城記
市場とい地名から市場城ともいわれる。
地元の方が作成した詳細な看板。
入り口付近にある、詳細な縄張図。
曲輪の数が異常に多い、戦国時代に実際に戦った城という感じがありあり伝わる。
鎌倉時代に地頭として大江広元の子孫毛利としてこの地にきて、国衆化したものらしい。
陰徳太平記にも記載があるようだ。
看板があるので分かりやすい。
攻城スタート。
進んでいく。
市場方面の風景。
切岸と曲輪。
公園になっているが、荒れ放題。
地元の方に聞いたが、最近は年配の方で体力もなく整備できない状態。
この城の見どころであるかえる岩。
確かにカエルぽい。
どんどん登っていく。
削平地は沢山ある。
城域にある、河原石。
だんだん道も無くなってくる。
直登していくと、また、歩きやすい場所に到達。
本丸跡に到着。
本丸付近。
本丸天主台跡。
本丸付近から見た風景。
他の削平地。
とにかく曲輪が非常に多い城である。
市場の集落。
市場周辺にはこのような古墓があり、当時ここで大きな戦があったことが示唆される。
毛利豊元墓
近隣には毛利豊元の墓と伝わるものがある。
毛利豊元は但馬国に逃げたとあるので、この墓は他の毛利氏の墓ではないか?
位置関係
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
丘陵の頂部から放射状に伸びる尾根上に連続した郭が設けられる。
堀切、竪堀が随所に配されている。郭等の配置から北、東側に重きをおいて構築した城郭と考えられ、主郭の南側に伸びる尾根筋上は3つの堀切と、尾根の形状に沿った細長い郭が配されるに過ぎない。
私都周辺地域の城館跡の中でも秀逸のものである。毛利氏の居城と伝える。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』より引用。
市場城は、郡家町中私都地区市場の後ろの山にあった。
高き一二〇mの山頂 には「長三十間位(約五四m)、横十間位(約一八m)」の平地があり、続いて、 長さ約三六m×横一二・六と、長さ約二七m×横約一〇・八mの平地が稜線 に沿ってあり、そのほかにも、稜線に沿って二二の平地が設けられていた跡がある。
城は北に面して構え てある。元亀・天正(一五七〇― 九二)の頃、毛利氏数代の 居城といわれているが、詳 細は明らかではない。また、 当城は大江広元の子孫で山崎城(国府町)の毛利氏と同系統の毛利氏の創建ともい われている。
毛利氏は私都郷一円を領し、また法美郡 をも支配していたこともあり、落岩・白磯・津黒の諸 城を出城としていたといわれている。
天正の初期、当城には毛 利豊後守(周防守)豊元が居 城していたが、同九年、羽 柴(豊臣)秀吉のため落城し、豊元は剃髪して名を浄意と改めた。『関西陰徳太平記』によれば、安芸の毛利氏に味方して大いに戦い、秀吉の鳥取城攻めの時には、豊元は誠に引き籠って事の成否をうかがっていたが、秀吉の「渇殺」 によって鳥取城が落ちたので、豊元も市場城を落ちて但馬へ逃れたという。
『日本城郭大系14』より引用。
城の歴史
以下ウッキペディアより。
室町時代前期、因幡毛利氏によって築城、以後同氏の本拠地となる。
延徳元年:(1489)11月、第2次毛利次郎の乱を起こした城主・毛利貞元は山名豊時に攻められ城内にて自害。
永正~天正年間:(1504~92)には但馬山名氏に抗する毛利・矢部氏ら国人衆の拠点となり、相次いで合戦が引き起こされる。
永正元年:(1504年)3月の私部志谷口合戦では毛利方と思われる土師四郎左衛門尉が山名豊重方の武将・北川与三左衛門尉によって討捕らえられている。
永禄3年:(1560年)2月には山名宗詮方の武将・中村政重父子らと毛利氏との間で合戦が行われ(私部表合戦)、毛利左近丞らが戦死した。
永禄7年:(1564年)8月頃には経緯不明であるが、但馬山名側との関係改善がなされたようで、山名宗詮の私部入城が実現している。
その後も毛利氏・尼子氏・山名氏などが複雑に入り乱れる情勢が続き、尼子勝久・山中幸盛の挙兵以降、因幡毛利氏は尼子方に属した。
天正元年:1573年)幸盛の娘婿(養女)の亀井茲矩が城を任される。
天正2年:(1574年)春、山中幸盛が入城し、「安芸毛利氏と対抗するための拠点」として利用しているが、翌年9月には安芸毛利氏の猛攻によって二の丸・三の丸まで攻め込まれ、10月には落城した。
※因幡毛利氏は落城後、安芸毛利氏の下へ属す。
天正8年:(1580年)には羽柴秀吉によって落城させられ、城主・毛利豊元らは山名豊国の鳥取城へ逃れたという。
※(『吉川経家書状』によれば天正9年(1581年)5月頃の当城は安芸毛利方の包囲下に置かれ、秀吉方は長期の籠城を余儀なくされていた。
毛利豊元退城後、但馬有子山城から山名氏政が領地替えとなり入城する。
山名氏政は当城より軍勢を引き連れ、鳥取城攻めに加わった。
天正10年8月28日付けで山名氏政は播磨加古郡へ再び領地換えとなり、市場城は廃城となる。
城主家系図
所感
●城は何度かの攻撃を防ぐために、しっかりと作られており、堅牢な印象をうける。
●幕府奉公衆として守護である因幡山名氏の支配下に入ることを潔しとしない考えがあったのか、何度も反乱を起こしている。
●但馬山名氏からの干渉もあり、親密になっていた山崎毛利氏を排除。
関連URL
庶流である山崎毛利家
滅亡させる。
山崎毛利氏の支城。
参考URL
参考文献
『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』
『鳥取県の地名』
『日本城郭大系14』
『因伯の戦国城郭 通史編』 高橋正弘著
『鳥取県史 中世2』
公開日2021/04/04