城データ
城名:新山城(にいやまじょう)
標高:53m
比高:43m
築城年:戦国時代(天文年間か)
城主:中村伊豆守
場所:鳥取県鳥取市徳尾
北緯東経:35.497012/134.201061
攻城記
道なりに上がっていくと貯水タンクがありその付近に鉄塔がある。
この地域は大きく改変されており現状をとどめていない。
この付近から鳥取城を望む。
当時鳥取城には武田高信がおり、因幡山名氏から自立をしようとしていた。
これは後世の改変だと思われるが、遺構はなかなか見つからない。
本丸部分方向。
藪化がすごく移動できない状態。
途中で諦めて引き返す。
別の方向を確認。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
位置関係
城の概要
「因幡志」によると中村伊豆守が、天文年間に築城したとされているが、詳細は不明。
徳尾排水池により、損壊されているが、郭と堀が確認できる。
『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』より
新山城は、徳尾集落の川向こうの山上にあった。
天文十四年の頃、鳥取城と 時に築城された天神山城の出城であった。
当時、但馬の山名氏と因 情誠通とは不仲で、但馬勢の侵入に備えて築かれたもので、新山城は有富谷の入り口にある山の端にあって往還を直下にひかえ、敵方の動静を知る要衝として築かれ、家老中村伊豆守が城番として置かれた。
永禄六年(一五六三)頃、鳥取城定番武田高信が天神山城の山名氏に背いたので、山名豊数は中村伊豆守を将としてこれを攻撃させたが、湯所口の戦いで伊 豆守は討死した。
豊数の書状によれば伊豆守の父は新三郎と称し、その父と共に伊豆守と名のったとあり、三代とも討死したとあるから、中村氏は山名氏魔 下の剛勇の家として重きをなしたものと想像される。
鳥取城で天正九年(一五 八一)自対した中村大炊介もその子孫と思われる。
なお、城跡には山上に「城の平」を残しているだけである。
『日本城郭大系14』より
中村氏について
新山城の中村氏
新山城は「松上山ノ山鼻ニシテ、下ハ平地渺々タルニ、此ノ山ヨリ見渡シヌレバ、布施へノ往来明ラカニシテ⋯⋯布施ノ斥候第一ノ要害也」今「因幡民談記」とあるように、山名氏の本城たる布施の天神山城の防御線として重要な位置を占めていた。
この定番をまかされた中村氏は、守護家の重臣として信頼を一身にあつめていたものと思われる。
武田高信らの勢力が強大になったので、布施では重臣相談の上、高信の拠っている鳥取城を攻撃することになっ た。
この折、先鋒の中村伊豆守は、諸隊を率いて湯所口の攻撃を受け持っている。これを迎えた武田方は城外に出 でて応戦した。
永禄六年(一五六三)四月三日、湯所合戦に中村伊豆守が討死したので、布施屋形の山名豊数は、中村鍋法師丸に対して、自筆の感状を下してその忠節を褒賞した(「中村文書」)。
また、中村鍋法師丸に所領が宛行われて いるから、恐らく中村伊豆守の戦死に対する賞として、遺族に与えられたものであろう。 このような鳥取城攻撃の失敗などもあって、因幡山名家の権威は著しく失墜するところとなった。
『鳥取県史 第2巻 中世』より
城主家系図
所感
●城自体は大幅な改変で遺構はあまり残っていない。
●山頂からの見晴らしはよく、当時敵対していた鳥取城もまじかに見える。
●要衝であり山名家の重臣であった中村氏にその城番をさせたのも納得できる。
関連URL
国体道路をはさんだところにある城。
主君である因幡山名氏の居城。
南の防衛ラインである釣山城。
参考URL
参考文献
『鳥取県の地名』
『鳥取県史 第2巻 中世』
『日本城郭大系14』
『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』
『因伯の戦国城郭 通史編』高橋正弘著
公開日2021/03/21