城データ




城名:鳥籠山城(とこのやまじょう)

別名:鳥籠城、鳥篭山城、鳥篭城

標高:102m

比高:60m

築城年:承久年間(1219~22)

城主:阿曽沼氏

場所:広島県広島市安芸区中野町

北緯東経:34.390984/132.556380

鳥籠山城はここ

 

 

攻城記

直登して平削地に到着。

鳥籠山城の矢竹

本丸へ続く曲輪。

鉄塔が立ってる。

本丸目指すも、藪化が酷くて諦める。

反対側の曲輪を下っていく。

しっかりした曲輪が多く点在している。

木が邪魔をしているが、無ければ眺望がよく敵の来襲も分かるだろう。

実際に大内氏が攻めて来た時にはどのような気持ちであっただろうか。

これだけの山城が市内近郊で残っているのは貴重。

さっき降りた曲輪を望む。

更に下って行く。

 

曲輪の先端部分に到着。

切岸の様な感じがする。

この場所からでも遠景がわかる。

先ほどの竹林の部分を降りたところで一番下った場所。

鳥籠山城遠景。

 

広島城二の丸内にある鳥籠山城のジオラマ。

国衆としてこの地に数百年勢力を張っただけあって、城域も広大で巧緻。

 

open-hinataより【鳥籠山城】

 

 

余湖図【鳥籠山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

本城跡は,瀬野川西岸,蓮華寺山山系から南西に派生した丘陵先端部に位置している。

 

最高所に1郭を置き,尾根上をほぼ南東方向に大小13の郭を階段式に配置しており,後背部は蓮華寺山から下ってくる尾根を堀切1条を設けて分断している。

 

なお,最先端部は住宅団地が造成されているが,この部分にも郭が存在した可能性がある。

 

阿曽沼氏の居城と伝えられる。

 

広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用

 

城は、標高三七四mの蓮華寺山から南へ派生する一支丘陵端部に設けられ、 南を瀬野川、西を畑賀川が流れ、四囲は急峻である。

 

郭は本丸に相当する最高 所を中心に、東西に階段状に二十余り設けられている。

 

本丸は幅一四m、長さ二〇mの大きさで、その東下に幅二六m、長さ四〇mの大きな郭が続く。

 

さらに幅一〇m、長さ二五mの郭と下り、その下には帯郭が設けられている。

 

本丸 後背部には大きな空堀が設けられ、さらに郭が数か所に配されている。

 

 

阿曽沼氏について

阿曽沼氏は、藤原鎌足を始祖とする藤原北家の流れ藤原秀郷の裔、足利有綱の四男広綱が、下野国安蘇郡阿曽沼を譲得し、その在名をもって阿曽沼を称したのに始まる。

 

広綱の子である親網が、承久の乱(一二二一)において尾張国から美濃国に入る摩免戸の渡しで先陣し、宇治川合 戦で負傷した戦功によって安芸国世能荒山荘の地頭職を与えらたのが安芸阿曽沼氏の始まりである。

 

阿曽沼氏の勢力圏は、戦国時代には広島湾岸の海田・船越にまで伸びており、鳥籠城に本拠を置いて安芸国屈指の 国衆武士として活躍するが、その城跡は荒山の内に含まれていた中野の海田境に近いところに存している。


阿曽沼氏北朝に加担

南北朝初期の安芸国守護は武田信武である。ついでその子の氏信が甲斐武円 芸国専任守護となり、以後子孫代々安芸国に定着するようになった。

 

その拠城は銀山城であり、標高四一〇メートルの武田山(広島市祇園)の山頂に築かれていた。

 

武田氏は早くから足利氏と行動をともにしており、つねに北朝方として活動した。

 

建武二年(一三三五)十二月、足利尊氏の挙兵に応じた安芸国の武将たちは守護武田信武のもとに集結しており、そこには逸見・周防・来吉川・毛利・熊谷らの名がみえる。

 

阿曽沼氏も同じように北朝側に加担しており、阿曽沼二郎(光郷)は、建武三年(一三三六)二月二十八日、足利尊氏から、「新田義貞の与類、安芸国に於いて蜂起すと云々、軍勢を相語らい誅伐せしむべし」と新田氏にくみするものを討つよう 命じられ、さらに同年九月十二日、伯耆国の宮方を討つよう命じられている。

 

新田義貞與類、於安藝國蜂起云々、相語軍勢可令誅伐、 縱雖為非職輩、被軍忠者、就注進可有恩賞、且ら路次往 反船、且ら浦々嶋々船、可懃宜之狀如件

建武三年二月廿八日

阿曽沼次郎(光郷)殿

『藩閥閲録巻三五-32』

 

観応の擾乱

足利尊氏は、暦応元年(一三三八)、征夷大将軍となり幕府の首長としての地位をかためた。

 

しかし弟の 直義にも全国の政務を統轄する権限を与えたので、発足当初の幕府は一種の二頭政治によって運営されることとなっ た。

 

それはまず尊氏の執事である高師直と直義との対立として表面化した。

 

貞和五年(一三四九)、直義が師直を執事の 地位から追放したのに対し、師直は武力によって直義を追いつめ、直義を引退させることに成功した。

 

これよりさき 公方として鎌倉にいた尊氏の子義詮は、ここで上洛して直義にかわった。

 

ところが直義は観応元年(一三五〇) 九州にいて幕府に叛していた足利直冬と呼応して挙兵し、尊氏・師直の軍を破り、直義方の武将は師直を殺すにいたった。

 

尊氏はいったん直義と和を結んだが、それは長くは続かなかった。

 

北陸に退いた直義は関東に入り、九州の直 冬と呼応して尊氏を圧迫したので、今度は尊氏が南朝と和睦し直義追討のため関東に下った。

 

そして、文和元年(一三五二)尊氏は鎌倉において直義を殺した。

 

こうして内乱は一段落したが、これ以後幕府の有力な武将の叛乱が続き政局は激動した。

 

安芸国内においても戦闘は続いた。

 

観応元年(一三五〇)直義は阿曽沼下野守(光郷)に対して、「師直・師泰議伐の事、 早く御方に馳せ参じ軍忠を致すべし」と自陣への加担を働きかけている。

 

しかし阿曽沼氏は守護武田氏などとともに尊氏方として活躍している。

 

観応三年(一三五二)五月、足利義詮は阿曽沼下野守に対し、「安芸国凶徒退治の事、守護人と相談し、一族ならびに同心輩等を相催し、忠節を抽んずべし」と守護武田氏信と相談し一族・同心の輩等を催して南朝方を討つよう命じている。

 

同年から翌年にかけて尊氏・義詮より阿曽沼氏に宛てた感状が数通あるが、文和二年(一三五三)二月十七日の尊氏の感状では、去年十一月十七日に阿曽沼氏の若党河田彦次郎が討死した戦功を賞している。

 

於安藝國、去年十一月十七日若黨河田彦次郎討死之由、  武田陸奥守(信繁)所注申也、尤以神妙、彌可抽戰功之狀如件

文和二年二月十七日  尊氏公御判

阿曾沼下野守(光郷)殿

『萩藩閥閲録巻三五-34』

 

また、同日の尊氏のもう一通の感状で「安芸国に於いて城郭を構え忠節致す」と述べ安芸において城郭を構え敵と対峙した忠節を賞している。

 

大内氏の傘下となる

阿曽沼・白井・野間三氏のうち、白井氏が武田氏の被官となっていたのに対し、阿曽沼・野間両氏は周防国から安芸国南部に大きく勢力を伸ばしていた大内氏の麾下にはいっていた。

 

大内義輿が大内氏の当主となった明応三年(一 四九四)からあまり年をへていない時期に、大内氏の重臣陶氏の一族陶宗景というものが義興に叛いて追討された が、すぐに没落して能美島に逃げ込んだ。

 

そこで義興は阿曽沼弘秀に命じ、これを私明したいので「海上の儀」はこのことに奔走してほしいと申し入れている

 

為陶中務入道宗景對治令進發候、即時沒落無念之至候、  落所未聞候、猶以隱置能美嶋(安芸国)候敗、可糺明候間、海上之儀別而御奔走可為祝着候、其外彼凶徒居住之在所候して、 壽求討捕候樣、可被加下知之条肝要候、仍左京大夫得此 旨、可申之由候、恐こ謹言

二月廿三日 (大内)義興判

阿曽沼民部大輔(弘秀)殿

 

『萩藩閥閲録巻三五-46』

 

 

また、これよりのちのことであるが、永正十二年(一五一五)、厳島神 主家の惣領が病死して後嗣がなく、同家の家督相続をめぐって庶家の小方・友田両氏が対立し、神主家麾下の神領衆 も両派に分かれて抗争していたとき、阿曽沼・野間両氏は友田方の草津の羽仁氏と結託し、警固船一〇〇艘ばかりを 繰り出して五日市の永明院宮崎山を一時占拠している。

 

これからも阿曽沼氏も相当な水軍力をもつようになったことがわかるが、その拠点はすでに進出していた海田湾頭であった。

 

応仁の乱当時の阿曽沼弘秀

応仁の乱時に安芸国内では、阿曽沼氏をはじめとして厳島神主・平賀・野間・天野・竹原小早川氏らが西軍に加わり武田・毛利・吉川・沼田小早川氏らが東軍に加わった。

ただし、毛利氏は当初は東軍であったが、西軍に属するようになる。

 

このような中で、大内方にいた阿曽沼氏も寛正二年(一四六一)末に大内氏麾下として、野間・平賀・竹原小早川家と一緒に東軍の支配下にあった西条の鏡山城を攻撃している。




この時期大内方として積極的に動き信頼されている証に、当主阿曽沼弘秀と「弘」という字が使われているが、恐らく大内政弘からの編諱だと考えられる。

 

また所領の範囲も中野から西は海田、船越あたりで東は西条平野にものび熊野の方にも知行地があった。

 

また大内氏は明応三年(一四九四)、義興が父政弘にかわって当主になる が、阿曽沼弘秀は義興から文亀三年(一五〇三)に周防国小周防 (山ロ県光市北部)で所領を与えられ、大内氏の被官としての性格を更につよめている。

 

尼子氏・大内氏勢力の間で

大内義興が永正五年(一五〇八))、細川政元のあとを継いだ同澄元方の軍勢を使 頂したことで、内海地域における東・西両勢力の抗争はおわった。

 

ところが、 義興の在京がながびき十年におよぶ間に、出雲国守護代からおこった尼子経久の勢力が山陰地方から芸備地方に南下し、また、いったんは大内氏に随従していた武田氏も大内氏に叛いて尼子氏と結んだため、義興が周防に帰国し芸備の奪還に乗り出すこととなる。

 

この時期において去就に迷ったのは芸備の国人領主みな同じであったが、とくに海田湾頭に位置した阿曽沼氏は、両勢力の間に翻弄されてつぎつぎと去就の態度を変えたため、大永五年(一五二五)と同七年の両度、この地域が戦火をうけることになる。

 

義興に随従して上京していた安芸の国人領主たちは、永正八年(一五一一)八月大内氏が大勝した山城国船岡山合戦に加わっているが、同年十二月には武田氏を除いてことごとく帰国している。

 

翌九年三月には、毛利興元ら安芸国の主要な国人領主九家が寄りあって国人一揆を結成し、たがいに協力し争いをおこさないよう盟約しており、 この国人一揆に阿曽沼弘秀・野間興勝も加わっている。

 

この盟約の第一項では、これからは将軍や諸大名の命令でも引きうけるか否かは衆中が相談して決めようといっており、この間まで随従していた大内氏とも距離をおこうとしている。

 

これは大内氏の威力が安芸までおよびにくくなり、同時に山陰の尼子氏の南下も眼前にあって、 政治的に不安定な状況になっていることを示している。

 

大永三年(一五二三)尼子氏の臣従する。

大永三年(一五二三)は、尼子・武田氏勢力が安芸国において一時大内氏勢力を圧倒した時期である。

 

同年闘三 月、厳島神主家の庶家友田興藤が武田光和らの援助を得て、大内氏の城番を己斐・桜尾・石道本城の諸城から追放し た。

 

この友田・武田氏の背後には尼子氏が存在していたのである。

 

ついで六月には尼子経久が大挙して安芸国に 進軍し、大内氏の重要拠点であった東西条鏡山城を攻め落とす。

 

毛利氏は尼子氏方となってその先鋒をつとめること になり、元就は当主の幸松丸(興元の嫡子))を擁して出陣している。

 

このとき平賀氏が率先して尼子氏方となって参戦 したのをはじめ、西条盆地周辺の国人領主のほとんどが尼子氏の麾下にはいっている。

 

阿曽沼氏も尼子氏方と なった勲功によって、西条盆地の中央部で旧領の東村に加えて寺家・三方・田口で三七〇貫の所領を尼子氏から安堵 されている。

 

大永五年(一五二五)鳥籠山城落城

大内方が西から攻めてきており、近隣の矢野浦に上陸し矢野郷をことごとく放火する。

 

このとき阿曽沼・野間両氏は尼子氏方であったが、ともに城にたてこもって一兵も陶軍に立ち向かっていない。

 

そしてこの四月七日には、さきに大内氏方となった毛利氏から宿老の志道広良が矢野浦に出向き興房と相談最中であるという。

 

おそらく阿曽沼・野間両氏は毛利氏の仲介で 大内氏に降伏を申し出て許されたのであろう。

 

陶氏の軍勢は西条盆地に進み、天野興定が拠る志芳庄の米山城(東広 島市志和町)を同年六月まで包囲攻撃するが、これも毛利元就・志道広良の仲介で興定は生命と所領を保証されて降伏 する。

 

大永五年六月に天野氏を降伏させてのち、陶氏の軍勢はさらに備後に進み同国黒山で尼子氏勢力と合戦している。

 

黒山の所在は不明であるが、双方の磨下の武士が数多く戦死するほどの激戦であった。

 

この陶軍備後出動の留守中に 武田氏の強引な手入れによって、阿曽沼氏は重臣の野村・大藤氏らが首謀者となって大内氏に謀反をおこした。

 

同年十二月になると大内氏の援軍として豊後の大友氏の軍兵一万が海・陸両路で来着したため、まず阿曽沼氏の鳥籠山域を攻撃した。

 

阿曽沼氏は大内氏方の勢いにおされて内部が分裂したら 降伏者が続出し、結局、同年十 二月末阿曽沼氏は野村木工允に責任をとって腹を切らせて開城降伏した。

 

大永七年(一五二七)鳥籠山城再度落城(阿曽沼弘秀から隆郷への移行)

大永五年末に開城降伏した阿曽沼氏は大内氏支援の大友氏が退去したのち、ふたたび鳥籠山城に拠って大内氏に反抗する。

 

しかし、こんどは表むきは阿曽沼であったが、実際は佐東から武田勢が入城してたてこもっていたのである。

 

陶興房は海田蒋頭の中心拠点鳥籠山域を攻め落とすため、まず 大永七年(一五二七)二月、熊野に陣を移して能野城を攻察するが、これには大内氏被官の石井・脇・弥富氏らとともに国人領主の天野興定も加わっている。

 

阿曽沼氏の重要な属城で鳥籠山の西のおさえとなっていた日浦山城を攻めた。

 

そして同年三月八日に鳥籠山城詰口の合戦となり、ついに同城は陥落した。

 

随落した鳥誰山城は大内氏の管理下に置かれたのであって、この城の攻撃軍に加わっていた大内氏の被官で豊前国宇佐郡出身の弥富依重が、城郭の城誘・普請を命じられている。

 

鳥籠山城は大内氏が海田湾頭を支配する拠点としてあらためて堅国に修築がすすめられたのであり、おそらく大内氏被官が城番として置かれ、阿曽沼氏が大内氏に忠誠を誓う体側が整えられるまで返還されなかったであろう。

 

鳥龍山城が陥落したとぎの阿管沼氏の当主はだれか判然としない。阿曽沼氏の系図には不自然なところがあり、弘秀に続けて広秀を置いているが、実は両者の間に隆郷が家を継いでいた時期があったと推定される。

 

おそらく鳥籠山城陥落時が弘秀から隆郷への交代の時期であろう。

 

年代不明であるが、平賀弘保から陶興房にあて、阿曽沼方で父子 が争い、一方が佐東の武田方と連絡をとっていると報告した文書がある

『平賀家文書七〇』より

 

阿曽沼氏家中は、武田(尼子)方と大内方に分裂し父子さえも争っていたことが知られる。

 

大内氏管理下で家を継いだ隆郷は大内氏色をつよめ、隆郷とい う名前もおそらく大内義隆の名字の一字を賜って名乗ったものであろう。

 

この時期における大内氏麾下の国人領主たちの名前を眺めると、毛利氏の隆元(天文十五年元就から家督を譲られる)、矢野の野間隆実(興勝の嗣子)、志和の天野隆綱(興定の嗣子)など、いずれも義隆の一字をもらっている。

 

阿曽沼氏も彼らとならんでおなじく「隆」の一字をもつ隆郷が当主であったとみてよいであろう。

 

大寧寺の変と阿曽沼隆郷

大内義隆の尼子氏討伐での出雲出兵敗北、それに続く義隆自身の政治への関心の低下などがあり、ついに陶晴賢によって討たれる、これを大寧寺の変と呼ばれる。

 

安芸の国人領主のなかには志和の天野隆綱のように、陶氏の陰謀に毛利氏から誘われて加担したものがあったが、高屋の平賀隆保や瀬野・海田の阿管沼隆郷のように、義隆方にとどまって陶・毛利勢の攻撃をうけたものもあった。

 

阿曽沼隆郷が義隆方にとどまった理 然としないが、おそらく義隆となにか因縁があったのである。

 

義隆が討たれた直後の天文二十年九月のはじめに、阿曽沼氏領北端の拠点であった奥屋の城を陶・毛利氏の味方となっていた久芳の領主久芳賢直が攻略し、阿曽沼勢は即時に没落した。

 

このこが同月二十日付で毛利氏から陶氏に報告されている。

 

また、熊谷信直が晩年の文禄年間にその功績をつらねて毛利氏に差し出した書状案によると、義隆と陶が引き分かれたとき、信直は毛利の重臣桂元澄とともに海田に出張し、野間氏は陶(毛利)方についたが、阿曽沼氏は引き退いたので信直の輩下がこれを討ったと 記している。

 

このように阿曽沼氏は、最初は陶・毛利方に対し抗戦したが、まもなく家中から熊度変更 が出て、当主の隆郷を隠退させ、その弟広秀を当主にたてて毛利氏に忠識を誓ったものとみられる。

 

新当主広秀は、翌天文二十一年七月には備後の宮氏が拠る志川滝山城(福山市)の攻撃に加わり、多くの 戦傷をうけて奮戦したことを示す軍忠状を毛利氏に提出し、その文書に陶氏が義隆の後嗣として押し立てた大内義長からも証判を加えられている。


毛利の家臣としての阿曽沼広秀

阿曽沼広秀はこののちにおこる厳島合戦には、その前哨戦 のときから他の安芸の国人領主より抜きん出て毛利氏の先鋒 となって奮闘する。

 

これは、彼が先代隆郷が反毛利の行動に 出た失点を取り戻そうとしたためでもあったが、当主交代の 際に毛利氏直臣の両井上氏や山本氏を重臣として迎えて、阿 曽沼氏の体制が毛利氏に密着するよう改変されていたからでもあった。

 

このように状況が変化した阿曽沼氏にとって、隠 退した隆郷は厄介な存在となったにちがいない。かれは日浦山城の別館に置かれていたが、隠退後まもない時期に阿曽沼 氏自身の手で抹殺されてしまったものとおもわれる。

 

「文化度国郡志」には隆郷の末路についての伝承が残っており、先代領主の悲惨な運命について里人たちが強い恐怖と同情をいたためだと考えられる。

 

天文二三年(一五五四)に毛利氏は陶氏と断行しその居城を攻めることとなる。

 

陶睛賢は毛利氏の挙兵を裏切りだといきどおったが、吉見氏と交戦中のため急な反撃ができず、陶勢の一部と毛利勢は天文二十三年六月五日に佐西郡甘日市西北方の明石口ではじめて合戦を行う。

 

阿曽沼広秀はこの最初の合戦に毛利氏旗本とともに奮戦したのにはじまり、厳島合戦前後を通じて、大内義長を長府(下関市)で討ち取る最後の戦いまでたえず毛利氏勢の先鋒をつとめている。

 

阿曽沼氏の当主広秀は毛利氏の庇護によって家を継いだのであり、彼の名前も平賀広相と同様に、 毛利氏の祖先大江広元の広の一字を与えられたものと推察される。

 

広秀の厳島合戦前後における他の国衆にはみられないどほの奉仕は、毛利氏に反抗した先代隆郷時代の罪を帳消しにし、旧領の回復を願ってのことである。

 

隆郷時代に没収されていた西条盆地の所領や、一時仁保島白井氏の手に渡っていた周防国小周防の所領ももどされている。

 

しかし、広秀はそののち武功を重ねるにつれて所領の拡大を望み、訴え出るが思うにまかせず不平をつのらせた。

 

毛利氏にとって、輝元が元服し家を継いだ代始めを機会に、出雲の月山富田城に総攻撃をかける大切な時期であるのに、広秀は訴えを聞きいれられないので出陣をしぶる態度に出て毛利氏を困惑させる。

 

広秀に親しい志和堀領主の天野隆重が、元就・輝元の意をうけて彼にもっと思慮をめぐらせ分別 するよう忠告を与えたこともあった。

 

広秀は永禄十年(一五六七)元秀に家督を譲るが、元秀時代には阿曽沼氏と毛利氏の密接度は深くなる。

 

元秀の妹は元就の七男で天野氏を継いだ元政に嫁していたが、さらに 妻に、輝元と小早川隆景の仲介で元就の四男穂恥元清の娘をむかえている。

 

朝鮮出兵と阿曽沼元秀の討死

秀吉は全国統一の余勢をかりて大陸出征を企てた。

 

毛利氏 は天正十九年(一五九一)三月、秀吉の命をうけて領国全域に 人口調査を行い、朝鮮出兵の準備を行った。

 

大陸出征の文禄・慶長両役とも、毛利氏は最大限の兵員を派遣して外征軍の中心となった。

 

阿曽沼元秀も部下を率いて両役ともに従軍するが、 外征も終わりに近い慶長二年(一五九七)十二月二十二日、彼らが守備していた蔚山城に明の大軍 が攻め寄せ、元秀はこれを迎え討って戦死する。

 

関ヶ原の戦いと阿曽沼元郷の萩移転

阿曽沼元秀の朝鮮討死の後に息子の元郷が家督を相続する。

 

慶長五年(一六〇〇)関ヶ原役 で、毛利氏が徳川氏に敗れて防長両国へ移封を命じられたことによる。

 

阿曽沼氏の当主元郷も部下とともに毛利氏に 従って萩に去って行く。

 

阿曽沼氏では翌六年病死した元郷の息女に天野毛利元政の次男を婿に迎え、毛利一 門に列したため知行も二五〇〇石(生産高)と優遇されたが、以前のように多数の家臣を召し抱えることができず多くの牢人を出した。

 

彼らのなかには上瀬野の野村氏、中野の熊野氏のように帰農したものもある。

 

また、高屋の平賀氏 一族数家が広島商人になっており、阿曽沼氏ではそのような具体的な例は知られないが、同氏の一族・家臣からも商 人に転じたものも出たであろう。

 

ここに数百年間、中野や海田、船越を支配した阿曽沼氏は在地性を失うこととなる。

 

城主家系図

 

城主石高

宝徳2年(1450):阿曽沼信綱が足利義政から所領を安堵される。

 

文亀3年(1503):阿曽沼弘秀が大内義興から周防国小周防に所領を与えられる。

 

大永3年(1513):阿曽沼氏、尼子経久の安芸国進軍に味方した勲功により、西条中央部で旧領東村に加えて、寺家、三方、田口で370貫の所領を与えられる。

この頃熊野にも進出しており当地も勢力範囲内であった。

 

天文22年(1553):阿曽沼隆郷が知行していた東西条の5貫文を八木弟法師に翌年にも東西条東村のうち5貫文を脇兼親にそれぞれ宛がっている。

 

弘治2年(1556):阿曽沼広秀が毛利氏から周防国熊毛郡小周防500石を与えられている(1503年に弘秀から与えられたところか)

 

1589年頃の所領として、阿曽沼豊後(元秀)が4813石余りを賜っている。

 

所感

●数百年間在地におり様々な戦も経験した為山城としての加工度は近隣の城に比べてずば抜けて精緻になっている。

 

●得に大永年間の戦は大規模なものであり、その後の改修で強固な山城になったものだと思われる。

 

●山城は整備されておらず藪化されている部分もあるが、丁寧にみていけばその大きさや加工度に圧倒される。

 

●家系図の中に隆郷の名前が無い、故意に削除されているのが歴史の悲哀を感じさせられる。

 

関連URL

 

 

参考URL

ウィキペディア(鳥籠山城)

城郭放浪記(安芸鳥籠山城)

よしだっ.com(鳥籠山城)

ウィキペディア(阿曽沼氏)

武家家伝(阿曽沼氏)

ウィキペディア(阿曽沼広秀)

ウィキペディア(阿曽沼元秀)

open-hinata

 

参考文献

『芸藩通志』

『萩藩閥閲録』

『大日本古文書 毛利家』

『大日本古文書 平賀家』

『毛利氏八箇国御時代分限帳』

『萩藩諸家系譜』

『大日本城郭大系13』

『広島県の地名』

『海田町史』

『瀬野川町史』

『熊野町史』

公開日2021/02/14

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