城データ

城名:杉迫城

標高:15m

比高:10m

築城年:戦国時代か

城主:山本氏

場所:呉市和庄1丁目

北緯東経:34.245663/132.570872

杉迫城はここ

 

まずは杉迫城

攻城記

現在の明法寺の場所が杉迫城と比定される。

明法寺本堂:広い平削地もあり曲輪の機能を有している。

更に登ると公園がある。

階段状になっているが当時のものかは不明。

公園内最上部からみた風景。

この道は堀切の跡か。

 

道からみた杉迫城推定地

open-hinataより【杉迫城】

寺になっており当時の様子は不明。

 

続いて堀ヵ城

城名:堀ヵ城

別名:堀城

標高:5m

比高:5m

築城年:戦国時代か

城主:山本氏、末永氏

場所:呉市本町

北緯東経:34.246663/132.569538

堀ヵ城はここ

 

 

杉迫城推定地の公園から見下ろす。

宅地化されており全く現状をとどめていない。

 

 

城の概要

杉迫城

室町戦国時代にはこの城のある尾根先まで海岸線が達しており,海に突出した丘陵の先端をした海賊城であったと推定される。

 

この城は,呉衆山本氏の居城であった。

 

厳島合戦後の小早川領国下で末永氏の居城とされる堀城は,この杉迫城を基礎に改修したものと思われる

 

広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用

 

 

堀ヵ城

戦国時代にはこの城のある尾根先まで海岸線が達しており,海に突出した丘陵の先端賊城であったと推定される。

 

この城は,呉衆山本氏の居城杉迫城を接収し補修したものと思われる。

 

1554(天文23)年8月,小早川隆景は毛利隆元から呉・音戸の普請を命じられた。

 

翌年の厳島合戦頃,隆景は乃美宗勝にその城番として誰が適任であるかを相談している。

 

その後,末永氏の居城となっているので,未永氏が城番として配置された可能性がある。

 

広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用

 

 

 

『芸藩通志』に加筆修正。

山本氏について

元々は伊予国にいたが、南朝方の河野氏に敵対して伊予から追い出された。

 

その後を山本氏は安芸国の呉に進出して「檜垣氏」「警固屋氏」と「呉衆」という小領主連合を形成し、周防の守護大名大内氏に属した。

 

居城を杉迫城に定め呉保の領域を支配し、周防大内氏の領国となった、東西条内の広にも給地を与えられた。

 

 

尼子氏の安芸侵攻

永正10年(1513)年頃から尼子経久が勢力拡大し安芸国まで支配下に治めていた。

 

尼子軍の南下を機に矢野の野間氏は積極的に尼子方につき、一気に呉地方を支配下におさめた。

 

本拠の呉・警固屋を奪われた「呉衆」は、尼子方に降伏することなく大内方にとどまった。

 

 

大内氏の反撃

その後、大内氏は大永4年(1524)、ようやく佐西郡廿日市桜尾城の厳島神主家と神領衆を従属させ、本格的反撃の準備を進めた。

 

小早川弘平は、6月5日、神領方面に派遣していた賢勝に対し、賢勝指揮下の警固衆を増強するために「倉橋右馬助」・「能美兵庫助」「長浜」桧垣大四郎・神兵衛両人」に各1艘、自ら乗船して出陣させ、小早川からも1艘出陣させた(県史V)。

 

大永5年(1525)3月に安芸国人衆の中心、毛利元就を帰服させることに成功した大内義興は、尼子方に対し全面攻勢に転じ、大内軍司令官陶興房は、尼子方国人衆攻略のため、各地に転戦する。

4月5日・6日両日、陶軍は廿日市の本陣から渡海し、矢野の野間氏を攻撃した。

 

同じ日、の作戦に呼応して瀬戸城の賢勝率いる小早川警固衆・呉衆らは呉方面から野間方を攻撃するため呉千束に上陸して「呉千束要害」(海上自衛隊呉地方総監部の掘切をはさんだ城山)を前進基地とし、集落(呉教育隊、市民公園=練兵場。近世の呉町)に火を放ちこの方面を制圧した(県史V)。

この戦いで呉から野間勢を排除した呉衆「山本氏」・檜垣氏・警固屋氏らは、ようやく旧領を回復した。

 

厳島合戦後前夜

天文23(1554)年5月、毛利元就は陶晴賢との提携を破棄し、一挙に佐東銀山・己斐・草津・桜尾の諸城及び厳島を占領した。

 

晴賢の石見攻めに瀬戸賢勝の配下として参加していた呉衆・多賀谷氏・能美氏の「三ヶ島衆」は、毛利氏に人質を差し出していたが、吉見攻めの陣中にあった山本四郎賢勝は、7月、人質を見殺しに「呉惣衆中」を率いて陶=大内方に立つ意思を表明した。

 

倉橋・蒲刈両多賀谷氏、能美氏も同調した(県史V)。

 

一方、瀬戸(浦)賢勝は、8月2日の津和野合戦を最後に戦場を去り、瀬戸(音戸町)に帰った(『閥閲録』69)。

長い間、ともに戦った浦賢勝と三ヶ島衆は、ここで決別したのである。

 

以後、賢勝は瀬戸城を拠点に、これまで味方として戦ってきた呉衆ら「三ヶ島衆」と、敵として戦うことになる。

「三ヶ島衆」の大内=陶方への復帰に対抗して、8月、小早川隆景は、賢勝の帰国を待たずに呉地方を接収して呉・瀬戸に要害を建設した。

呉衆は帰るところを失った。

 

9月、帰国した賢勝・宗勝父子が率いる小早川警固衆、瀬戸要害・呉要害を基地に、同じ時期に帰国した陶方、白井賢胤・「三ヶ島衆」らが活動拠点とする能美島周辺に出没して敵船を攻撃し、同29日、毛利方阿曽沼軍とともに総攻撃をかけ、能美島を占拠した。

 

このとき能美氏は降服した(『閥閲録』48ほか)。

 

能美島を失った呉衆・多賀谷氏ら陶方警固衆は、10月、弘中新四郎にかわって「警固奉行人」(大内水軍総司令官)に任命された仁保島の白井賢胤の指揮下で活動することになった。

 

翌24年=弘治元年に入ると、白井賢胤率いる陶方警固衆は制海権の回復をめざし広島湾頭で活発活動を展開する。

 

「正月1日佐西郡草津、同佐東川内矢賀·尾長、 同18日佐東浦河口、3月15日呉浦を襲い、呉浦では小早川方船を1艘討ち取っている(県史V)。

 

この頃、矢野の野間隆実が毛利氏にそむき、3月晦白、白井(本拠を失った呉衆も加わっていたであろう)・野間連合軍は仁保・海田で毛利阿曽沼軍と合戦して敗れ、4月11日、隆実は毛利軍に矢野保木城を攻められ降伏した(『陰徳太平記』ほか)。

 

5月、小早川隆景・瀬戸(浦)宗勝の命を受けた有田拾次郎が多賀谷氏のもとに降伏をすすめる使者として派遣され、この降伏勧告を受け入れて小早川氏の軍門に降った(『閥閲録』168)。

 

この降伏勧告を拒絶した倉橋多谷氏は、8月、圧倒的な小早川軍の攻撃をうけて丸子山城は落城し、多賀谷興重は城を枕に討ち死にした。

瀬戸(浦)氏率いる小早川警固衆は倉橋賀谷氏を支援していた白井賢胤率いる陶方警固衆を大いに破り、追い払った(県史V )。

 

以上の厳島合戦の前哨戦ともいえる広島湾・呉湾での毛利方・陶方警固衆の一連の海戦では、瀬戸(浦)賢勝・宗勝が指揮する小早川警固衆が、白井賢胤・山本賢勝が率いる陶方警固衆を圧倒した。広島湾の制海権は毛利方が抑えたのだった。

 

これによって「呉衆」は瓦解したと思われ、「呉衆」の一員であった、山本氏も没落したものと考えられる。

 

末永氏について

『芸藩通志』は、和庄堀城に末永常陸介景盛という城主 がいたことを伝えており、『呉市史』などは末永景盛を戦国期 きっかわ の呉の領主として特筆し、野間氏の家臣で野間氏滅亡後は吉川 氏の家臣となった吉浦末永氏と混同している。

 

小早川氏の有力 家臣の末永景盛は吉浦末永氏とは別系統であり、また呉とは直接の関係はない。

 

『芸藩通志』の記述は、厳島合戦を前に小早川氏が呉を占領したとき、景盛の子息景道が呉城番になったことが誤伝されたものであろうか。

 

景道は呉衆の知行地を没収し小早川家の家臣たちに給与したさい奉行人(担当者)として 署名しており、小早川隆景による呉占領・没収所領配分政策の責任者だったから、呉城番だった可能性は高い。

 

小早川隆景が乃美宗勝に城番として誰が適任か相談している。

『萩藩閥閲録』巻11ノ1 26

 

呉其表城番之儀誰々可然候してん哉、先々内談申候、御思案之旨承候して々可得其心候、雖難申分候此者口上二申候

恐々謹言

八月七日     隆景 御判

「兵まいる  又四 隆景」

※一部解読不明なところあり。

 

末永景道は後に磯兼氏を名乗っている。

磯兼景道

 

末永家(磯兼家)家系図

これから以下の事が分かる。

●小早川氏家臣の末永景盛の息子である景通は杉迫城の城番になるが、これを小早川隆景は家臣の能美宗勝に相談している。

●宗勝からすれば自分の義理の弟に当たる景通を城番にすることで安心出来る。

※景通の時に末永から磯兼に改姓している。

●また、景通には男子がいなかった為、宗勝の三男(景綱)を景通の娘と婚姻させえて磯兼家を継がしている。

●磯綱は元和2年(1616)に死去から推測してその義父である景通は1580年頃に亡くなっているか。

 

 

城の歴史

天文12年(1543):「与州表」で敵船一艘を切り取って頸を討ち取り、左手に矢傷を負ったことについて大内義隆から感状を得る。

去天文十二年十二月甘三日於与州表懸合敵船、同暮梁瀬 市助舟一艘切取之時頸一討捕之、被矢疵左手之由(冷泉)隆豐注 進畢、尤神妙、彌可抽戰功之狀如件

天文十九年五月廿一日   大内義隆ノ判

山本玄蕃允(房勝)殿

 

天文14年(1545):山本房勝は大内義隆から所領を安堵されている。

大内義隆ノ判

周防國玖珂郡楊井庄内六拾四石七斗、安藝國東西條廣浦内參石、同國吳保内貳拾壹貫余、豐前國仲津郡貞末内參 石五斗地等事、任當知行之旨、山本彈正忠房勝可領掌之 狀如件

天文十四年七月甘三日 

 

天文23年(1554):3月、山本房勝が息子の賢勝への譲状が大内氏によって裁許されこの頃には家督を子に譲っていたとみられる。

大内義長ノ判

父甲要守房勝一跡之事、任去天文廿二年三月十九日裁許 ・同年三月三日讓与狀之旨、山本四郎賢勝相續可領掌之 狀如件

天文甘四年七月五日

 

天文23年(1554):7月陶晴賢の石見攻めに瀬戸(浦)賢勝の配下として参加していた呉衆・多賀谷氏・能美氏の「三ヶ島衆」は、毛利氏に人質を差し出していたが、吉見攻めの陣中にあった山本四郎賢勝7月、人質を見殺しに「呉惣衆中」を率いて陶=大内方に立つ意思を表明。

 

8月:8月2日の津和野合戦を最後に戦場を去り呉に戻る。

 

9月:浦賢勝・宗勝父子が率いる小早川警固衆が、呉を占拠。

 

10月:「警固奉行人」(大内水軍総司令官)に任命された仁保島の白井賢胤の指揮下で活動する。

 

天文24年(1555):大内義長から房勝の子賢勝に跡目を相続する許可が正式に出される。

 

弘治元年(1555):5月小早川隆景・瀬戸(浦)宗勝の命を受けた有田拾次郎が多賀谷氏のもとに降伏をすすめる使者として派遣され、この降伏勧告を受け入れて小早川氏の軍門に降った(『閥閲録』168)。

 

この頃山本氏も小早川氏の軍門に降ることとなる。

 

城主家系図

その後の山本氏

弘治元年(1555)頃に山本氏は小早川氏の軍門にくだったが一族が根絶やしになった訳ではない。

 

小早川家中と思われる有田拾次郎が入って家をつぎ、一族の中には多賀谷氏跡の倉橋島を知行した者もいた。

 

先度令申候之處委細示預候、本望候、如仰代々無御等閑 筋目候、於向後■尚以可申承候、仍(宇都宮)豐綱江以使節申候之處、從途中罷歸候之条、重而善應寺進之候、每事御分別候て堺目等之儀彌静謐之様、御入魂尤可為本悦候、將又 我等父子間之事、霜臺依覺悟相違候如此候、雖然所々悉々拙者存分之儘成行候、可御心安候、父子和睦之儀以 時分、從是豐綱江可令申候、猶旨趣自松末備后守所可得

御意候、恐こ謹言

七月甘四日 (河野)晴通 判

 

山本彈正忠房勝 後玄蕃允 甲斐守

山本四郎賢勝  法躰宗源

有田又兵衞  始十次郎

     山本之家續仕候

山本五郎兵衞

山本宇兵衞

            浦圖書家來 山本宇兵衛

『萩藩閥閲録』巻168 浦図書家来 山本宇兵衛から

これにより、山本家は有田十次郎が家を継ぎ、浦氏の家臣になったことが分かる。

 

『毛利家文庫二三譜録や一六五』

山本藤左衛門直矩家伝書

山本和泉守義長

一芸州倉橋島領知仕居候処、 元就公厳島御合戦之砌より奉仕地ノ三ヶ島、桧垣・脇・ 山県・山本之四家御船手警固役相勤候通申伝候、野島家之手二付候哉、又者各前支配有之候哉、不分明候、 元来者御船手筋にも無御座候得共、武勇之器量御撰被成、海上物奉行トシテ上乗被仰付数度御用ニ立遂忠節 候、其後隆景公高麗御渡海之節、宮王丸と申御船御預 被成御供仕、御帰陣之時為人質カクセイと申女召連罷 帰を以其子孫罷居候通申伝候、其節御感状等数多被成 下頂戴仕居候処、執之代二粉失仕候哉、只今所持不仕候間、委細不分明候事、

 

『毛利家文庫二三 譜録や一六四』 

山本五左衛門孝伯家伝書

山本源右衛門信之

伝記不審、信之先祖芸州豊島郡倉橋島領知仕居候、其後伏見より出目御打入之節御船頭役ニ而御供申上候由申伝 候、御判物御奉書類紛失仕、時代年月等不相知候、

 

倉橋島を知行した旧呉衆の山本和泉守義長は、朝鮮侵攻にさいし、小早川隆景から「宮王丸」という船を預かって渡海し、「カクセイ」という女性を捕虜として連れ帰ったという。

このように旧呉衆の生き残りや配下の民衆たちは小早川水軍の一部に編成され、 数多くの戦闘に動員された。

まあた、山本氏の一族が関ヶ原以降に毛利について長州に移ったことが分かる。

 

城主石高

1545年当時の山本房勝の所領として大内義興から

周防国玖珂郡柳井の内:64石7斗

安芸国東西条広浦の内:3石

呉保内:21貫

豊前国中津郡貞末内:3石5斗

を与えられている。

 

 

 

 

所感

●呉衆の代表として呉保内に小勢力を維持していたが歴史の狭間で消えていった。

 

●しかし子孫、一族は毛利氏の長州移転でついていったものもいる。

 

●房勝は陶興房からの編諱、賢勝は陶晴賢からの編諱だと思われ、陶氏とは強い絆で結ばれており、毛利に寝返ることは出来なかった。

 

その他呉衆居城。

 

【広島県】龍王山城【呉市阿賀中央】

 

参考URL

戦国日本の津々浦々(山本勝賢)

戦国日本の津々浦々(山本房勝)

open-hinata

 

参考文献

『音戸町誌』

『芸藩通志』

『萩藩閥閲録』

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『中世の呉』(呉市史編纂委員会編『呉市制100周年記念版 呉の歴史』)

『倉橋町史 資料編Ⅱ』

公開日2021/01/23

 

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