城データ

城名:亀山城

別名:鷲部城

標高:33m

比高:27m

築城年:南北朝頃か?

城主:久枝氏

場所:広島県江田島市江田島町鷲部

北緯東経:34.234304/132.480257

亀山城はここ

 

攻城記

以前は民家があったようだが今はこの状態。

10年前ならあったと思われるので非常に残念。

攻城開始。

足を踏み入れるととても大きな屋敷跡がある。

江戸時代は城主の子孫が住んでいたと思われる。

広大な屋敷跡を奥に進んでいくと、本丸麓に行き着く。

切岸も素晴らしい!!

迂回して登ろうとすると、堀切発見。

別の角度から。

その先には墓所になっている。

ここも曲輪の跡。

その曲輪の先に進むと更に曲輪がある。

土塁もある。

反対側の本丸を登るとそこそこの平削地がある。

本丸から下を望む。

周辺を確認すると石段を発見。

江戸時代には本丸に代将軍という神社があったようだ。

向側東方の高地丸谷家付近にあったが明治六年鷲部の土居の亀山に遷された。

その後、本浦に疫病が流行し多数の死人が出たのでまた本浦に遷し、同三十四年また亀山に遷されて現在は土居家に祭られている

明治時代まではこの場所にあったと思われるが僅か100年でここまでになるとは。

 

亀山城からみた眼下の江田島湾。

当時ここの城主は海上警備の役割も担っていた。

亀山城の石垣。

江戸時代のものと考えられる。

この石垣は見る価値がある。

 



周囲はこのような石垣に囲まれている。

 

『芸藩通志』【亀山城】

 

『芸藩通志』の加筆修正。

古城山が亀山城のことである。

 

open-hinataより【亀山城】

 

余湖図【亀山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

城跡は江田島湾東の丘陵最先端部に位置する。

 

最高所の1郭は40m×21mの規模であり,三角形をしている。

 

北下に堀切を挟んで2郭(25m×14m),3郭(25m×9m)があり,3郭の北端には土塁を設けている。

 

堀切の西は20m×10mの郭となっている。

 

1郭東下には南北に細長い帯郭がある。さらに南東下には広大な屋敷地と思われる削平曲があり、その東西両側には土塁が残っている。

 

広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用

 

芸藩通志巻四十二に「鷲部城江田島にあり、鷲部は城主の氏なりや、今所伝なし」とある。

 

また、文化度国郡志には「鷲部古城跡一ヶ所城主并頃合等相知不申⋯⋯」とある。

 

土居氏は元亀元年以来、亀山城主として江田島湾を出入りする船の取締りに当たった。

 

今なお本丸、二の丸、三の丸の形態の跡をとどめている。

 

土居氏の墓地は中郷の観音山にあったが江戸時代の初期亀山に移し、さらに約二三〇年前現在の墓地二の丸に移された。

 

その際墓石は二の丸が狭いので全部埋められたといわれている。

 

城の歴史

貞和2年(1346):久枝通重が亀山城の城主となる。

 

大永3年(1523):大内義興の警固、江田島にも押しかけ、敵船一艘を引き取る。

 

永禄元年(1558):このころ後の亀山城主の土居氏が鷲部にくる。

 

元亀元年(1570):5代目久枝信清が庶人に下り、姓を吉原に改める。亀山城主が土居氏になる。

 

現在吉原氏は神奈川県鎌倉市に在住。

 

城主久枝氏について

南北朝時代に伊予国の守護で河野氏の一族である秀清、通重兄弟は家人を率いて北上し、兄秀清は能美嶋松尾山に弟通重は江田嶋の亀山 城に拠った。とある。

 

ときに貞和二年(一三四六)四月でこの人が後、久枝忠三通重と称し久枝家の祖である。

 

久枝氏は伊予和気郡久枝より興っている。

 

当時は興った地名をとって姓氏としたものが多く、久枝を称したのもそ の故と思われる。

久枝という地名は現在も残っており松山城の北西部に位置する。

 

久枝氏の家譜には「元亀元年故あって姓を吉原と改め、下城して庶人となる」とある。

 

『芸藩通志』巻四十一に

江田島久枝氏

先祖久枝忠三通重貞和二年(一三四六)甲斐より此に来り第五世農民となり、久枝を改めて吉原と称す。

 

第六世より世々里 。通重より今の次郎に至る十六世なり、初通重に従い来る家僕七人の裔、亦村内にありて、其の田宅、 給すと言う。

とある。

 

「甲斐より此に来り」とあるけれども久枝氏が河野氏の一族であり、伊予より北上したことは、確かである。

河野水軍の文献「予章記」によれば、 貞治二年(一三六三)高野高縄落城によりて中村十郎左衛門尉、久枝北方の所縁たる故に六郎通堯を能美島三吉浦に奉送、 通堯は能美、厳島両所に御滞留也、其比鎮西征夷大将軍史部親王御座間可参之由被申入処無子細令旨を被成

とある。

 

これにより、中村十郎左衛門尉と久枝氏が遠戚関係で、また河野通堯も遠戚関係にて能美に滞在したことが分かる。

 

中村十郎左衛門の居城は能美町中町にある亀山城(現八幡神社)である。

【広島県】亀山城・新蔵城・堀城・麓城【江田島市能美町中町】

このようにして河野一族の庶流が江田島に来島して在地勢力として拡大するなかで江田島の主となった。

 

1346年に来島し、1570年に庶人として下るまで224年間城主として君臨した。

 

また1593年以降も庄屋として江戸期を通じて、撫民して民をいたわった。

 

江田島の土地台帳を確認するとその土地所有者に「久枝氏」が多く記載しており、大地主だったこともうかがわれる。

 

城主家系図

通重以降

注:5代目信清が1506年没になっているが1570年に庶人に下り名を「吉原」に改めている。

 

信清ではなく孫の世代ではないか?

 

若しくは庶人に下ったのは1570年では無く1506年以前の話なのかもしれない。

 

久枝氏墓所

豪雨災害の後で土砂が流出して荒れている。

積み直し等は行われていない、荒れるがままなのは残念。

 

所感

●江田島に唯一ある城。

 

●城自体は広くないがその麓に広がる屋敷跡が広大である。

 

●久枝氏の後は土居氏が城主となっており、最近までは土居氏の屋敷もあり長屋門などもあったが現在は無い。

 

●恐らく江田島湾を行き交いする船の海上警備を担っていたと思われる。

 

参考URL

城郭放浪記(安芸亀山城)

open-hinata

 

参考文献

『芸藩通志』

『江田島町史』

『広島県の地名』

公開日2021/01/14

 

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