城データ
城名:三刀屋城
別名:尾崎城、天神丸城
標高:120m
比高:80m
築城年:戦国時代
城主:三刀屋氏
場所:島根県雲南市三刀屋町古城
北緯東経:35.29342/132.871571
攻城記
公園案内図、三刀屋公園になっており車で本丸近くまでいけます。
馬舎跡
馬舎跡付近から曲輪もしっかり残っている。
石垣の残欠も若干あり。
物見櫓台
往時がどのような感じだったか想像が膨らみます。
本丸跡
本丸は広い
本丸看板
こちらも若干の石垣、破城されたのかもしれません。
二の丸跡
矢穴がありますので確実に石垣です。
詳しく調べればまだまだいろんな発見があると思います。
何かしらの遺跡あり。
破城の残骸か
石の大きさはそこそこあり当時はこのような石垣がびっしり広がっていたと考えられます。
切岸跡
本丸からみた城下町。
その他城域。
余湖図
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の説明板
三刀屋城跡
この城は承久3年(1221年)以来360年余りにわたってこの地を支配した三刀屋氏(諏訪部氏)の居城のひとつであり、東西に連なる尾根を堀切によって独立させたいわゆる平山城である。
現存する遺構には、石垣や横矢構えなどの近世的手法もみられ、三刀屋氏最後の頃か堀尾氏の時代に元の支城を本城として整備し直したものと考えられる。
城の概要
概要
出雲国のほぼ中央に位置し、街道の要衝に築かれた城郭である。
三刀屋氏は三刀屋じゃ山城からこの地に居城を移したと伝えられているが、現在残る遺構は近世初頭の遺構である。
主郭は最高所と考えられるが、「破城」と近年の公園化にともなう車道の設置によつて破壊されている。
主郭北東端には天守台が築かれてい.た。主郭は石土居によって二段に分けられている。
主郭西端には深い堀切が築かれており、尾根筋に対してA一B一C― Dの防御ラインが築かれている。
普請は、主郭、主郭南の「伝馬舎郭」、「大門郭」周辺は十分におこなわれているが、「伝天神丸」周辺は不十分である。
水の手は「殿井手水路」と呼ぶ水路が伝わる。最終改修者は堀尾氏と考えられる。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
三刀屋城跡
三刀屋川と古城川に挟まれた丘陵端にあり、標高130メートル、中世から近世初頭の城跡。城山城とも三か 屋尾崎城ともよばれる、丘陵の尾根を 削平加工し、複雑な多数の郭群をつくる。
主郭は高さ四 メートルの櫓台をもつ第一郭で、西に第二郭、東に第三 郭・第四郭などをつくる。主郭の周りは数段の石垣で囲 まれており、石塁や土塁もみられる。
二郭の西側は大きな堀切としている。一段と低い東の天神丸側と南の大門側の郭群には石垣もみられる。
この城跡には北西三キロの大谷から引いた殿井手とよぶ用水路がある。
城山城は 本来支城的存在であったのが、尼子氏と毛利 氏の戦闘が激化した一六世紀後半に本格的な整備がなさ れている。
そして三刀屋氏の転封後に当地を支配した市川氏、あるいは毛利氏の後に出雲国を支配した堀尾氏により石垣を多用した大規模な改修がなされた。
城の歴史
承久3年(1221):諏訪部扶長により築城。
天文11年(1542):大内氏の尼子領進攻にて大内氏に下る。
天文12年(1543):大内方から尼子氏に再度寝返る。
天正16年(1588):毛利氏が三刀屋氏の所領を没収する。
慶長5年(1600):関ヶ原の戦い移行に堀尾氏が入城し近世城郭に改修する。
城主家系図
※歴代当主は名前が複数ある為1つを選定。
※諏訪部氏から三刀屋氏になるのは為扶あたりか。
城主の歴史
承久3年(1221):諏訪部助長が承久の乱の恩賞として三刀屋郷の地頭に補任される。
建武2年(1335):足利直義(足利尊氏弟)が諏訪部扶重に対して軍勢催促状を出す。
「可被誅伐新田右衛 門佐義貞也相催一族不日可馳参之如件
建武二年十一月二日 左馬頭(花押)
諏誚部三郎殿
明徳2年(1391):明徳の乱にて山名満幸が敗退、その後諏訪部氏は山名氏から離れていく。
明徳3年(1392):室町幕府から山名氏追討の御教書を発せられる。
また出雲守護に京極高詮がなり、諏訪部詮扶は京極高詮から三刀屋郷の安堵される。
明徳4年(1393):足利義満から惣領地頭職を認められる。
応仁元年(1467):応仁の乱にて守護京極持清の東軍として、出雲の赤穴氏、牛尾氏らと伴に上洛して西軍の斯波義廉の軍と戦う。
※三刀屋忠扶は京極持清の子京極勝秀から感状を与えられる。
文明16年(1484):京極氏による尼子経久討伐の命にて三刀屋忠扶も富田城を攻撃し尼子氏は城から逃れる。
文明18年(1486):尼子経久が富田城を奪還、このころ三刀屋忠扶も尼子氏に帰順する。
明応9年(1500):三刀屋忠扶が尼子経久から大原郡福武村(木次町西日登)を給恩として与えられる、又熊谷郷を取得する。
大永2年(1522):三刀屋頼扶が「三刀屋郷之内所々、尾崎、萱原、熊野上下」を尼子経久から再度安堵される。
享禄元年(1528):三刀屋頼扶が家督を三刀屋久扶に譲る。
依所々蒙仰新給進置候、其御一期之後新四郎殿可被渡申候也、恐々謹言
五月一日 経久(花押)
三刀屋対馬守殿
天文9年(1540):尼子晴久が吉田郡山城に出陣、その時三刀屋久扶も尼子軍として従軍。
天文10年(1541):このころ尼子氏から大内氏に帰順。
天文12年(1543):大内義隆の出雲侵略失敗により三刀屋久扶持がふたたび尼子氏に帰順。
天文24年(1555):尼子晴久から改めて知行安堵される。
「親父対馬守一跡并当知行之事不可有相違候、然者軍役其外諸式 可被相守近年之旨者 也、仍状如件
天文廿四年三月九日
晴久(花押)
三刀屋新四郎殿」
永禄元年(1558):毛利元就が石見の大森銀山を確保すべく進攻、尼子側として三刀屋久扶も参戦する。
永禄3年(1560):尼子晴久が死去するこのころ、三刀屋久扶は三沢為清とともに毛利方に帰順する。
永禄5年(1562):毛利勢が出雲へ侵攻する、その時に三刀屋城が補給路となる。
尼子氏も三刀屋城の補給時を絶つため攻めるが、宍戸隆家、山内隆通の援軍を得た三刀屋久扶は、八畔峠で熊野入道西阿が指揮する尼子勢を撃退し毛利元就から感状をもらう。
今度貴所依無二之御覚悟、其口無異儀候、御入魂之段更難申盡候、猶於弓矢本意者所帯等可申候、一切不可有疎意候、此等之趣隆家隆通可被申候、恐々謹言。
十二月廿七日
元就(花押)
三刀屋弾正忠殿
永禄6年(1563):再度尼子氏が三刀屋城へ侵攻するが撃退。
永禄8年(1565):三刀屋久扶が尼子氏の居城である富田城を攻める。
天正2年(1574):このころ尼子再興軍と戦う。
天正3年(1575):三刀屋久扶は元春の麾下に属し、毛利輝元への忠誠を誓約する起誓文を提出。
天正6年(1578):尼子勝久が上月城にて籠城、上月城攻めに三刀屋久扶も参戦。
天正14年(1586):豊臣秀吉の命にて九州征伐が行われる、三刀屋久扶も毛利氏に従って九州に渡り小倉城の戦いに参加。
天正16年(1588):毛利輝元が上洛する、この時、三刀屋久扶もこれに同行し徳川家康と面会、しかし、この件が密告されて毛利輝元の疑心を呼び所領を没収する。
城主石高
正式には不明、三刀屋頼扶が「三刀屋郷之内所々、尾崎、萱原、熊野上下」を尼子経久から安堵されたとして。
1834年当時の石高として
三刀屋村:277石
尾崎村:278石
萱原村:474石
上熊谷村:508石
下熊谷村:640石
西日登村:717石
で合計2894石となる。
戦国時代の石高と1834年の石高の違いや外の場所の所領等があるかもしれないので正確な石高ではないが、この程度の石高を有していても違和感は無い。
所感
●出雲国の国衆として三沢氏と共に大きく勢力を張っていたのが分かる城郭。
●大きめの石垣もあることから、後世に堀尾氏が改修した可能性がある。
●三刀屋氏は毛利家臣になりきれずに近隣国衆の三沢氏や赤穴氏のように家を存続できることが出来なかったが、子孫が紀州藩に3000石で仕えた、色々とあるが結局は国衆時代同等の石高を支給されて徳川紀州藩の藩士になれたのは良かったのかもしれない。
参考URL
参考文献
「三刀屋町誌」
「島根県の地名」
公開日2020/12/26