城データ
城名:広島城
別名:鯉城(りじょう)
築城年:1589年築城開始 1591年毛利輝元入城
城主:毛利輝元、福島正則、浅野氏
場所:広島県広島市中区基町
北緯:東経:34.402757/132.459071
攻城記
二の丸へ続く城門威風堂々としている。
石垣の作りも良く往時を感じさせる。
このような画像があったので復元できた。
木造部分は再建されているが、石垣の部分は400年以上前のもの。
水面に石垣が映る。
広島城の鏡石、小ぶりながらも存在感を示している。
当時はここにも門があったのでしょう。原爆で焼けた石垣もあります。
広島城の石垣(毛利時代の石垣)
これぞ石垣という感じです。
広島城に来たならば是非このアングルで見てみましょう!!
近づくとこのように立派なお城だと分かります。
まだ算木積みが稚拙な毛利時代の石垣。
圧倒的な存在感です。
石垣の上の天守閣が迫力あります。
絵になる広島城です。
毛利時代なのでまだ石垣の積み方も粗いです。
天守閣の一段したを回ることをお勧めします、静寂の中に歴史が詰まっています。
堀の幅も広く敵からの攻撃を防ぐ。
明治時代に大本営がおかれていたところ。
広島城の礎石(現在はこの場所に移転)
広島城天守閣(戦後再建)
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
広島城遠景。
夕焼けの中の広島城。
別の角度からの広島城。
広島城で一番最高のアングルがここになります!!
【おまけ】
モノクロで雰囲気出しました。
open-hinataより【広島城】
余湖図【広島城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
【正保絵図】安芸国広島城所絵図
毛利時代の広島城下絵図
新修広島市史第五巻地図の①より引用
毛利輝元が広島城を築城する時に立ち寄った場所。
城の概要
本丸・二の丸・内堀は史跡公園として良好に保存されており、広島市教育委員会によって二の丸表御門の復元等、整備が行われている。
市街化が進んでいるため、三の丸ほかの遺構を確認することは難しいが、近年、新交通システム建設や駐車場整備に伴う発掘調査が(財)広島市歴史科学教育事業団によって、また県立総合体育館建設に伴う発掘調査が県教育委員会によって実施され、中堀や外堀の一部が確認されている。
1588(天正16)年頃、毛利輝元が吉田の郡山城から本拠を移そうと企画し、築城される。関ヶ原の戦いの後は、福島・浅野の両氏の居城となる。
広島県中世城館遺跡総合調査報告書より引用
城の歴史
1588年:毛利輝元が豊臣秀吉に聚楽第にて謁見、その時に荘厳さを目の当たりにして築城を決める。
1589年:近隣の山を登り現在地に築城を開始。
1591年:島普請と呼ばれるほど軟弱な地盤の中での築城であったが、急いで築城して入城する。
1592年:豊臣秀吉が朝鮮征伐時に立ち寄るがまだ出来ていなかった。
1593年:石垣完成。
1599年:落成する。
1600年:関ヶ原の戦いで負け毛利輝元は萩に転封。
1601年:福島正則が入国。
1617年:広島に大洪水が発生。
1618年:福島正則が洪水で壊れた石垣を修復。
1619年:無断で修復した事を咎められ、福島正則は津軽へ転封。
1619年:福島正則の代わりに浅野長晟が入国、以後幕末まで浅野氏の城となる。
1868年:明治維新となる。
1871年:廃藩置県により広島県が成立、県庁を広島城本丸に設置、12月には軍隊の施設を本丸に設置(県庁は三の丸へ移転)
1875年:4月に歩兵第十一連隊が設置、6月には練兵場が設けられる。
1888年:師団司令部が設置させる。
1894年:日清戦争が始まり明治天皇が広島城内に移る。
1945年:原爆で広島城喪失。
城主石高
毛利輝元知行高:112万石
福島正則知行高:49万8,223石
浅野長晟知行高:42万6,500 石
所感
●毛利112万石の居城だけあり非常に立派な城です。
●原爆で失われたお城ですが、現存していたら国宝級になっています。
●福島正則が破城した部分もありますので一見の価値あり。
●毛利氏と浅野氏の築いた石垣の2種類あります。
●広島城を復元する動きもあり。
参考URL
公開日2020/12/13
最終更新日2021/05/24