城データ
城名:茶臼山城
別名:無し
標高:108m
比高:50m
築城年:不明
城主:大内輝弘 それ以前の城主は不明
場所:山口県防府市富海
北緯:東経:34.044357/131.628486
攻城記

茶臼山城遠景


海に面した城で逆に大内輝弘が逃れることができなかった理由でもある

旧山陽道を進んでいく



景色最高に良い

手懸岩

江戸時代は山陽道として利用、明治時代になると下に道ができる

中世に迷い込んだ感じ


ここら辺で戦があった

大内輝弘の墓

大内の家紋あり


棚田のようになっている

もう1基あり



一段上に登る

そのまま進むと防府方面に行くので一旦戻る

看板のあった場所の付近から登り口があるが普通は気づかない(草が繁茂)

ということで別のところから直登開始

急斜面ではないので比較的楽

比高も高くないのでサクサク登れる

腹切岩を発見
ここで大内輝弘が切腹したらしい

山頂まで到着

本丸部分


本丸部分は案外広い

三角点


周囲を散策する


全国Q地図より【茶臼山城】5mメッシュ

航空写真

余湖図【茶臼山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
茶臼山古戦場
大内義隆を滅ぼした商晴賢は厳島の戦いで毛利元就 に敗れた。
大内氏の旧領地を手中に収めた毛利氏は 豊後の大友氏と対戦し筑前立花城の攻撃にかかった。この時大友宗麟は、大友家に寄食していた大内輝弘に大内氏再 興を図る好機であるといって手兵二千を授け山口占拠を 目指して立ち上らせた。
輝弘は総大将となり本隊は秋穂浦に上陸し、永禄十年 (五五六九)十月十二日山口へ乱入し旧大内氏の居館に陣地を構えた。
これを見た毛利軍は筑豊を放棄し、吉川元春を追討 軍の総大将とし一万の兵をもって山口に急行した。
輝弘は秋穂浦に逃れたがすでに船はなく、やむなく海岸 沿いに東上したが右田岳の城兵の要撃に遭い辛ろうじて 脱出した一行は、浮野峠を越えて富海に出たがここにも一隻 の船影さえない。
しかしその前方椿峠には、徳山野上庄の杉次郎左衛門、海岸からは由字正覚寺の別当周音が、各々 手兵を率いて待機している。
輝弘は茶臼山に引き返して 最後の抵抗を試みたが、後ろからは吉川軍が迫ってくるし、遂に力つきて大内氏再興の夢もむなしく自害して相果てた。
ここにある石祠は正面に大内菱の紋を彫刻した笠 石があり内部には別當と刻まれた自然石があり さらに石祠の奥壁に「大内霊神」と彫り込まれているところから、輝弘の石祠と言い伝えられている。
平成三年一月吉日
牟礼郷土誌同好会
富海史談会
看板より
城の歴史
●築城年や城主は不明
●1569年に大内輝弘が毛利氏に反乱を起こしたが反撃にあいこの茶臼山城に来たが最終的には自刃で終わる
城主家系図

所感
●旧山陽道の散策にはもってこい
●街道沿いには大内輝弘の墓とされるものもあり確認必須
●茶臼山城には墓の反対側の山を登るが入口は分かりにくい
●単郭であるが南側の斜面もなだらかで兵の常駐は可能
関連URL
毛利側攻めてである正覚寺守恩(音)の城
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』11
『山口県中世城館遺跡総合調査報告書-長門国編-』
公開日2026/01/02


