城データ
城名:平田城
別名:手崎城、薬師寺城
標高:53m
比高:45m
築城年:応永年間から大永年間頃(1394~1528)までは、出雲国守護京極氏の家臣多賀氏の居城であったと伝わる。
城主:多賀氏、飯野氏、牛尾氏
場所:島根県出雲市平田町(愛宕山公園)
北緯:東経:35.440044/132.818773
攻城記
平田城全景。
曲輪だったと思われるが改変されている。
曲輪には神社がある。
本丸部分。
平田城跡
平田城は別名を手崎城・薬師城と呼ばれる中世の山城です。
応永から大永年間(1394~1528)まで、京極氏の家臣多賀氏が根拠としていましたが、その後尼子氏が再興をはかって根拠としていた高瀬城(簸川郡斐川町荘原)に対して、毛利方が入城したことにより、このあたりで両者による合戦が行われたといわれています。
この場所が主郭のあったところであり、周囲にも付属する郭が築かれ、西1の郭・西2の郭などに当時の面影を残しています。
また、郭の附近には堀切があり、当時の城郭構造を知ることができます。
平田市
公園となっており整備もされている。
前方右の城は鳶ヶ巣城。
出雲平野を見渡す。
西1郭。
西2郭
帯郭。
周辺部。
日本海
平田城から日本海はすぐに行くことが出来る。
絶景も満喫できる。
余湖図【平田城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
平田港は、室町時代には中国にまで知られた内陸港で、雲芸攻防戦において毛利氏は兵姑基地としてこの町を重視した。
尼子家復興戦においても、尼子方の米原綱寛が執拗に当城を攻撃した。
現状は、市民公園とされたためにずいぶん撹乱されているが、標高53メートルの主郭を中心に、やや屈曲した東西の稜線上に郭を配し、その間を堀切で切断する縄張りだったと推定される。
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
平田城
平田城は平田の市街地にある愛宕山にあった城で、別名を手崎城・薬師城ともいわれ、現在、桜の名所として愛宕山公園になっている。
東に大山、西に三 瓶山を望み、平田市街から簸川平野の東半を眼下に眺望できる景勝の地である。
『雲陽誌』には山に薬師堂があったことから薬師山とも呼ばれたとあり、『雲陽古城跡』には薬師城の名で記されている。
当城には応永から大永年間(一三九四~一五二八)まで、京極家の家臣多賀氏 かけや が拠っていたが、尼子氏により飯石郡掛合へ移され、そのあと飯野氏が入ったといわれる。
元亀元年(一五七〇)、尼子氏の再興をはかる尼子勝久らを撃退す るため出雲に入った毛利元就は、湖北の地を固めるべく吉川元春を鳶ケ巣城に 配し、平田城にはその臣岡又十郎元長・牛尾大蔵左衛門らを入れ、尼子方の高 瀬城主米原綱寛と合戦をくり返した。
なお、現在の公園一帯は当時の古戦場の跡である。
『日本城郭大系』14より引用。
平田城
毛利氏の戦略拠点として鳶ヶ巣城の後にこの平田城を物資の中継基地として強化されていった。
1570年に尼子氏再興軍が蜂起すると平田城には直属の鉄砲衆が配属されており、毛利方もここがそれほど重要なものだと物語っている
このような戦略的重要性に注目した尼子勝久方では高瀬城の米原綱寛を先方として執拗に「平田城」の奪取を図っている。
永禄12年(1569)と推定される書状では尼子勝久が、尼子方に降った綱寛に対して、当知行分や賀茂700貫とともに「平田300貫」を与えているのもその証左であろう。
『島根県の地名』より一部抜粋。
城の歴史
応永年間(1394~1428):京極家臣の多賀氏により築城されたと伝わる。
大永8年(1528):尼子氏が多賀氏に代わり飯野氏を城主にする。
永禄5年(1562):毛利の尼子征伐時に城を攻め落とす。
元亀元年(1570):尼子再興軍の蜂起をうけて、牛尾大蔵左衛門が入城し、高瀬城の米原氏と死闘を繰り広げる。
所感
●現在は愛宕山公園になり一部改変されている部分もある、本丸を中心に改変の少ないところもあるので、そこを中心に散策。
●比高は50m弱しかないが、見晴らしはよく、遠く宍道湖南の高瀬城からの攻撃もいち早く分かったと思われる。
●往時は出雲平野もそこまで開発されておらず、城の近くまで湖がきていたと思われる。
●毛利の尼子攻めも佳境になってくると、鳶ヶ巣城よりもこちらの平田城に物資を集積するようになっており重要度が増した。
関連URL
尼子再興軍蜂起の時に高瀬城の米原氏と死闘を繰り広げた。
尼子征伐時には鳶ヶ巣城と綿密に連携を取り合っていたと思われる。
参考URL
参考文献
『島根県中近世城館跡分布調査報告書』
『日本城郭大系』14
『島根県の地名』
『島根県地名大辞典』
『出雲の山城』
『萩藩諸家系譜』
『萩藩閥閲録』
『毛利八箇国御時代分限帳』
公開日2021/12/25