城データ

城名:唐櫃城(からうとじょう)

別名:櫃ケ城、かろうとノ城

標高:299m

比高:60m

築城年:不明

城主:木原駿河守元信

場所:鳥取県八頭郡智頭町木原

北緯:東経:35.2392242/134.2251547

唐櫃城はここ

 

 

攻城記

麓にある石柱と看板。

 

智頭町指定文化財

史跡唐櫃城跡

別名「櫃ケ城」「かろうとノ城」

所在地大字原字古城迹

山頂の本丸(標高二九九メートル)を中心に、七ヶ所 の曲輪、大きな堀切、空堀、石垣などが見られる。

 

戦国 時代初期の築城で、佐々木氏の居城と伝わるが永禄・元 亀年間(一五五八〜七二)作州・矢筈高山城の草刈氏・草刈伊賀守景継らに攻められ落城した。

 

その後草刈氏は天正十一年頃まで、唐櫃城を淀山城と共に因幡の重要拠点として使用した。

 

この唐櫃城は本町の代表的な山城遺構で、歴史背景も確 かな貴重な史跡である。

 

平成七年三月

智頭町教育委員会

唐櫃城全景。

近隣には戦国時代以前の五輪塔や宝篋印塔があった。

この地域で戦があった時のものであろうか。

城まで削平地があるが城域かは不明。

城域に到着。

石段か。

石積みか。

切岸。

こちらも石垣のような感じをうける。

石碑がある。

本丸は広い。

戻ってきて再度城を臨む。

 

草刈氏石碑

道なりにそのまま岡山県の方に走っていくと、唐櫃城を落城させた草刈氏の碑文がある。

 

余湖図【唐櫃城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要

横田集落と木原集落の間、東へ突き出た尾根の頂部に位置する。

 

主郭の南東には虎口が、南側の腰郭には石積みが確認できる。

 

『因幡誌」によると木原駿河守元信が築城し、永禄・元亀年間草刈氏と合戦を交えたが敗れたといわれている。

 

『鳥取県中世城館分布調査報告書第一集(因幡編)』より引用。

 

唐櫃城

唐櫃城は智頭町木原の水口集落の東にあったが、木原駿河守の居城といわれ元信の本姓は佐々木氏で、初め赤松円心に従っていたが、応仁(一四六七~六九)以来の大乱に乗じて、美作を経て八頭郡の地を経略しようと本城とし、石原に出城を構えた。

 

そして、唐櫃城は元信と家臣小林らが固め、出城は草刈・石田氏が守って、近隣に威を振るった。

 

その後、美作矢筈城主草刈伊賀守は、毛利氏の命によって元信を討つため横田に城を構え唐概城を攻撃したが、守りが堅く数年に及んでも抜くことができなかった。

 

そこで、伊賀守は西宇塚の岡城主国政氏と謀り、偽って敗走した。

 

それをみた元信が大挙これを追撃して美作に進入したところを、背後から国政氏が襲いかかり、前面からは踵を返した伊賀守に挟撃されて、元信はなす術もなく潰滅した。

 

なお、元信の子孫は農民となって木原の地に住し、家臣の小林・草刈・石田氏らもそれに従ったといわれる。

 

東を大手とし、山頂には、五四m×二一・六mほどの平地と、約一四・ 四m平方の平地とがある。

 

『日本城郭大系』14より引用。

 

城の歴史

永禄~元亀年間(1558~73):この頃近隣の草刈氏と戦う木原駿河守元信はたびたび退ける。

 

元亀以降:近隣の国政氏の内応にて元信は討死する。

 

城主家系図

所感

●智頭から津山に抜ける国道から標識があり気になっていたので行ってみた城。

 

●土豪クラスの城であるが、本丸部分は削平地も広い。

 

●一部石積みも見られる。

 

関連URL

参考URL

山城攻略日記(唐櫃城)

古城盛衰記(唐櫃城)

木原氏(ウッキペディア)

 

参考文献

『日本城郭大系』14

『鳥取県の地名』

『鳥取県地名大辞典』

公開日2021/12/11

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