城データ
城名:茶臼山城
別名:無し
標高:171m
比高:160m
築城年:不明
城主:村井伯耆守
場所:島根県松江市山代町字茶臼山
北緯:東経:35.436117/133.094031
攻城記

茶臼山城遠景

登山道があり分かりやすい
『ガイダンス山代の郷』という場所で案内図ももらえる

進んでいく、最初は急峻で大変

尾根までいけば後は楽

堀切

本丸までは草刈りをされている

本丸


360度周囲を見渡せる
宍道湖方面

中海方面




茶臼山は山頂の標高が171mあり、 松江市内の大半を眺めることができます。 奈良時代の 『出雲国風土記』には神名樋野として 登場します。
風土記にはこの山以外に朝日山 (松江市) 大船山 (出雲市)、仏経山 (出雲市)の四つの神奈備山が登場し、ここから見渡すことができます。
神奈備山は祭祀の対象で、 現在も山中に眞名井神社や旧山代社と考えられる神社跡、滝や湧水地などがあり、 古代より神聖な場所と認識されていたようです。
ふもとには、 山代二子塚古墳や大庭鶏塚古墳などの古墳、 『出雲国風土記』に登場する二つの寺院 である山代郷北新造院跡、 山代郷南新造院跡や、官営倉庫群であ ある山代郷正倉跡など、 古墳時代以降の遺跡が多数みられます。
また、南に広がる意字平野は、「出雲国風土記』 にある 「国引 「き神話」の最後の場面に登場する場所で、平野中央には古代山陰 道が東西に走っていました。 古代山陰道には「十字街」と呼ばれ る交差点があり、 そこから南に行くと出雲国の政治的中心地であ る出雲国庁や意宇郡家が、 北に行く道は隠岐国へ向かうとされ、 実際に発掘調査で国庁跡が見つかっています。
中世には見晴らしの良さや交通の要地であることから、ここに山城がつくられ ています。
現在見える頂上の広い平坦地、大規模な堀り・溝などは戦国時代の山城の特徴をよく残しています。
遠くに見える山には、 戦国時代に尼子氏と毛利氏が戦った和久羅城跡や荒隈城跡、 白鹿城跡が北側に、南東には京羅木山城跡などがあります。
このように茶臼山は様々な歴史や性格をもち、頂上からは北側 の市街地景観と南側の古代的景観の両方を見ることができる貴重な場所と言えるでしょう。
平成25年3月 島根県教育委員会
看板より
位置関係

余湖図【茶臼山城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
概要
茶臼山城の築かれている山は出雲風土記に見える神名樋野に比定されている。
最高所からは、宍道湖と中海が見渡せる。 主郭1は最高所に築かれている。
東側に僅かな段差で2郭が続くが、 この北側 に虎口が築かれている。
連絡通路はここから主郭の北側に回り込み、 主郭西側の3郭、 4郭を経由し て5郭に至る。 3郭と4郭に囲まれた5郭は西側尾根筋からのルートと南側麓からのルートが合流する要地であるため、 桝形虎口と考えられる。
4郭の西側には大規模な堀切が築かれているが、 堀切の対岸に5郭からのルートとほぼ同じ高さにルートの痕跡が確認できるため、 ここに橋が架かっていた可能性がある。
この堀切の西側に小規模な堀切が確認できる。 2郭の東側にも大規模な堀切を築き、 東側尾根筋からの侵入を遮断している。 東側に小規模な堀切が確認できるが、普請は不十分である。 1郭北側に延びる尾根にも堀切が築かれている。
2郭東側の堀切北側に接して連続竪堀群が築かれて いる。 連続竪堀は北側に6本、南側に2本確認できる。
南側の方が規模が大きいが、 北側の堅堀は堀切に接し、また帯郭を破壊して築かれている。
帯郭による兵員の収容よりも竪堀による地形の破壊を 優先したと考えられる。 東側の尾根筋から侵入した勢力が、 比較的緩やかな北側に回り込むことを警 戒していたことが窺える縄張りである。
『島根県中近世城館跡分布調査報告書 第二集 出雲、隠岐の城館跡』
茶臼山の築造と改修
さらに注目すべきは、居館と周辺の景観が茶臼山の山頂部の発掘調査成果と符合することである。
茶臼山城跡の主郭 (中心となる曲輪)部からは、かわらけのほか青磁碗や白磁の皿・鉄釘・砥石等が検出されているが、出土遺物の大半は十五世紀から十六世紀のものである(考古二八六)。
したがって黒田館 の主は、日常の住まいである居館の防御を強化するにとどまらず、手近な独立丘陵を選んで山城を築造したと考えられる。
というのも、黒田館の内部は茶臼山の山頂から俯瞰されるから、 茶臼山城の築城者と黒田館の維持主体は同一と考えられるのである。
「雲陽誌」は同城跡の城主を村井伯耆守と記しており、地元では享保年間(一七一六〜一七三六)まで村井氏 山城と記憶され続けた。
村井氏は、三郎兵衛尉が尼子晴久の下で 「出雲州衆」と遇されていた (中世I九一四)。
出雲州衆とは「一族衆」と「富田衆」に対する出雲国在来の有力国人の総称である。つまり村井氏は、湯氏や大 野氏、佐々布氏や熊野氏などと並ぶ古くからの出雲土着の武士だったのである。
年未詳ながら秋上氏宛の村井清知書状 (中世II二一六七)は、村井氏の茶臼山城との関わりを推測させる史料といえる。
清知は、村方の者が伊弉諾山の木を盗み切っているとして山奉行に命じて厳しく成敗させると伝えるとともに、雪や風による倒木のあった時には、たとえ用材としては役に立たないとしても村井氏と秋上氏の間で 折半することにする、というのがこの書状の大意である。
茶臼山南麓の真名井神社は中世以降伊弉諾社と呼ばれ ていたから、村井清知のいうところの伊弉諾山とは茶臼山を指すとみてよかろう。
平地の居館の防御性の低さを危ぶんだ地方武士たちが、いざという時に立てこもろうと近場の里山を選んで山城を築いたことは、室町期以降、全国的に確認されているところである。
そうした山城は詰城といわれ、山麓の居館とのセットで根 (寝) 小屋式山城とも呼ばれることがある。
ただ根小屋は主に東国での呼び方で、中国地方 では土居が一般的である。
益田氏の三宅御土居跡と七尾城跡 (益田市三宅町・七尾町)は、その典型的な事例である。
そして、所領支配の拠点として山城を築く場合、領民が仰ぎ見るような姿の美しい山を選定したといわれている。
村井氏は、古代意宇の神名樋野に比定される茶臼山を選定してその詰城としたのであろう。ただ、元より現状の茶臼山城跡の縄張りや普請は、後世改変されたものである。
特に北側斜面に認められる連続竪堀からは、雲芸攻防戦か尼子家復興戦の時期に、毛利方によって改修されたことを推測させる。
おそらく、対岸の和久羅城(朝酌町、当時の史料では「羽倉」と表記) と呼応して、北側の眼下を流れる大橋川の水上交通路を警固する役
割を期待されていたのであろう。
『松江町史 通史編2 中世』 より引用
城の歴史
15世紀から16世紀に築城か
天文九年八月十九日付「江州竹生島造営之御奉加御人数之事」に村井三郎兵衛尉殿が記載されている
年不詳「村井清知書状」(秋上家文書212)に村井清知として記載されている
所感
●城というよりも登山として地元の人には認知されている
●本丸は綺麗に草が刈られているが、その他は草木に覆われている
●周囲から360度見渡すことが出来て抜群の眺望
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』11
『島根県中近世城館跡分布調査報告書 第二集 出雲、隠岐の城館跡』
『風土記の丘陵内遺跡発掘調査報告書Ⅶ』
『出雲の山城』ハーベスト出版
公開日2025/11/30





