城データ
城名:禅定寺城
別名:無し
標高:83m
比高:50m
築城年:不明
城主:不明
場所:島根県松江市八雲町西岩坂
北緯:東経:35.405408/133.097153
攻城記

岩坂不動尊から登っていく


往時ここに寺があったのか?

不動尊の裏山から登っていく

そこまで急峻ではないので登りやすい


三角点に到着
ここは城域ではない、ここから南西に向かう

ただし、このようなシダの繁茂で行く事困難。

ずっとこのようなシダの道が続く。
その先までいったが、途中時間がなくやむなくここで終了
先には鉄条網で囲われたところがあり、地図通りに行くことが難しいので方向感覚を見失う可能性あり
位置関係

余湖図【禅定寺城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
概要
西岩坂から東岩坂に通ずる通路を見下ろす、 低位丘陵の頂部に地取りしている。
付近には 「土居屋敷」という地名が残っており、 もともとこの地の領主によって築かれた山城を、 戦国期に繋ぎの城として改修したものであろう。
なだらかな丘陵の稜線を堀切で切断して侵入を困難にしているが、切岸の加工の不十分な郭も残されており、途中で普請が放棄されたものかと推定される。
『島根県中近世城館跡分布調査報告書 第二集 出雲、隠岐の城館跡』
【城史】
城史は不明で、「雲陽誌」も「城主年歴知れず」として、 里人はこの山を禅定寺というと記しているだけである。
しかし、地域内の交通路としては重要な地点である。
当城の西側の意宇川の谷をさかのぼると熊野に至り、さらに大原郡へつながる。 谷を途中で西方に折れて平原忌部を経由すると玉造に至る。また当城から北進すると日吉・大庭をへて大橋河畔に至る。 東進すると出雲郷から中海沿岸に至ることができる。
したがって、尼子清貞が出雲国の守護代の地位から自立を高める過程の戦闘で、この地域はしばしば登場する。
応仁二年(一四六八) 七月、清貞は、出雲郷の春日城に立て籠もった下河原宗左衛門尉を攻め、同日に岩坂・外波の敵を討ち、九月には大原郡大東の馬田城玉湯の岩屋城を攻略している。
おそらく、この地を経由して移動したのであろう(京極生観感状 『佐々木文書』)
また、天文十一年(一五四二)の大内義隆の出雲侵攻戦において吉川経興は平原で越したといい、富田城に 向かうにあたってはこの地を経由したのであろう。
なお、 雲芸攻防戦(一五六二~六六)と尼子家復興戦(一五六 九~七一)の両度、熊野氏は尼子方として毛利勢と戦ったから、毛利方もこの地を交通路として利用したのであるしたがって当城は、後に述べるような普請の状況からみても、交通路を安全にするとともに駐屯空間を広くとった、繋ぎの城として毛利方によって築造されたと考えられる。(山根正明)
『出雲の山城』より一部引用
城の歴史(推測)
応仁2年(1468):7月尼子清貞が春日城を攻めるが同日に岩坂においても敵を打つ(この城も利用されたか)
天文11年(1542):大内義隆の出雲侵攻戦にてこの地を経由する
1562~66:雲芸攻防戦 1569~71:尼子家復興戦にて尼子方の熊野氏と毛利氏が戦うがその時もこの地を経由した
所感
●僅かな時間しかないため三角点からシダを進んだところまでで断念したが、別の尾根からもいけるよう
●岩坂不動尊は近代に移転したので、中世にはこの場所に禅定寺があったか(禅定からして禅宗系)
●造りが甘いようなので、領主の城というよりか、緊急的に作成した城かもしれない
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』11
『島根県中近世城館跡分布調査報告書 第二集 出雲、隠岐の城館跡』
『出雲の山城』ハーベスト出版
公開日2025/11/30





