城データ
城名:国府尾城
別名:甲尾城 甲ノ尾城
標高:123m
比高:120m
築城年:1475年には在城しており、その前には築城されていたと思われる
城主:隠岐氏
場所:島根県隠岐の島町下西
北緯:東経:36.206592/133.320021
攻城記

麓に看板があり分かりやすい

縄張り図

鳥居をくぐれば攻城開始


早速削平地が現れたがここは後世の改変か

更に登って行くと明らかに曲輪っぽいところが出てくる

やっと到着


国府尾神社

国府尾神社から見る西郷湾
行くなら朝日が昇る頃がいい

西郷大橋が見える


神社の奥は土塁がある


神社の奥側を降りると堀切がある


堀切からみた国府神社側


中世の墓らしい
国府尾城に関わるものか?

墓所側面にも曲輪がある

ここから最高部に登っていく

尾根を進む


所々に削平地がある

最高所に到着

佐々木氏を祀ったもの

ここが詰城か

東方面を望む

なんの工事をしているのか?

奥にさらに曲輪がある




石積みもある

更に下にも曲輪あり

下の曲輪部分


上を見上げる

麓まで戻ってくると矢竹あり

西郷大橋

西郷港
位置関係

全国Q地図より【国府尾城】

余湖図【国府尾城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
城の概要
西郷湾北岸に接する位置に所在し、 水運を意識した城郭である。
東側から北東にかけて八尾川が囲 む要害の地であった。 主郭は最高所の1郭と考えられ西側に虎口が築かれている。
主郭の南に築かれている堀切に井戸が認められる。 2郭、 3郭はまとまった面積を持ち、 中核的な役割をもっていたものと考えられる。
周囲に多くの腰郭を持つが、 近年の改変が著しい。 特に2郭東側から麓にかけての 施設は慎重に検討を行わなければならない。
主郭西北麓に堀切と土塁によって防御を固めた居館が築かれている。 隠岐氏の居城として知られる。
『島根県中近世城館跡分布調査報告書 第二集 出雲、隠岐の城館跡』より引用
城の歴史
建久四年(一一九三)に佐々木定綱が隠岐守護職となり、当初は宮田城を本拠としたと伝えられている。
「国代記」には国府尾城は「義時義輝之時」に「清政」が築いたとある。また「陰徳太平記』にも隠岐清政によって 国府尾城が築かれたと記されている。
文明十一年(一四七九) 三月付の京都清水寺の奉加帳にある「雲州佐々木 隠岐右衛門尉清正」と同一人物かと見られる。
なお、文明七年(一四七五)に隠岐清綱が「当城守護」のために西郷西分に所在する八幡田を隠岐国造に寄進しているが、この当城が国府尾城を指すものと考えられ、文明年間には隠岐氏の居城であったと考えられる。
天正十一年(一五八三)には隠岐経清が隠岐国分寺に八幡岳に在城して祈祷を行うように命じており、国府尾 城は八幡岳城と呼ばれていたことがうかがえる。
「陰徳太平記」では「家城八幡丸」で隠岐甚五郎に討たれたと ある。経済の死去により隠岐には吉川氏の代官が派遣され、矢尾村に館を築き、国府尾城は廃城となった。(中井均)
『隠岐の山城続出雲の山城』より一部引用
城主家系図

西郷町誌の家系引用(一部加工)
清政の関係が不明、清綱と同一人物の可能性も
経清には清泰(大和守)という弟がおり吉川家の人質となったとのことだが文献には出てこない
ただし、隠岐家は吉川家に確かにいる


岩国藩の家臣
所感
●なかなか行く事の無い隠岐島の城、城好きなら一見の価値あり
●国府尾神社からの西郷港の景色と最高所からの景色も楽しめる
●石垣があるっぽいが発見できず
関連URL
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』11
『島根県中近世城館跡分布調査報告書 第二集 出雲、隠岐の城館跡』
『西郷町誌』
『隠岐の山城続出雲の山城』ハーベスト出版
公開日2025/11/30





