城データ

城名:岸和田城

別名:岸ノ和田城、滕城、蟄亀利城、千亀利城

標高:13m

比高:10m

築城年:1583年羽柴秀吉が中村一氏を岸和田城の城主とする。

城主:中村一氏、小出秀政、松平康重、岡部氏

場所:大阪府岸和田市岸城町

北緯:東経:34.458903/135.370495

岸和田城はここ

 

攻城記

美しい城。

二の丸。

本丸に進む。

立派な天守閣。

裏に回ってみる。

矢穴。

正面から。

 

位置関係

 

余湖図【岸和田城】

 

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

城の概要・歴史

 

建武元年(一三三四)以来、和田新兵衛高家・正武二代がかろうじて保ったと思われる「岸の城」から、いつ現在の地に移ったかはわからないが、当時の城が要害あるいは土居程度の城であったことは否めない。

 

また、和田氏が本拠の 河内にその活動拠点を移してしまい、岸和田には当時河内より連れて来た家臣といわれる溜(間)氏・女氏などが、館あるいは土居といわれる付城を岸の城の左右に営み、土着したと伝えられている。

 

楠木正成のあと、和泉守護となった山名氏清は、和田氏のあとへ、その一族といわれる春木の住人儀濃氏を入れたと伝えられている。

 

その辺を『泉邦四県 石高』は岸和田城の条に、「岸和田根元信濃民部大夫泰義、春木の住、此岸和田 御本丸其人之屋敷と云、後次第次第に広成、今の城天正之比迄天守もなく」と 伝えている。

 

また、同書は泰義の嫡子兵衛大夫泰連は和田を名のり、その子義明、その弟義基二代は岸和田を名のったとしており、義明の三男信濃彩女の子孫源大夫が、紀州徳川家に召し出されたとする。『かりそめのひとりごと』は、 「嘉慶二年(一三八八)南北御和睦の後は、将軍より和田が旧城をまうしたまはりて、今の城地にひきうつし、泉州守護代ととなへて住たれど、いかで守護の かなふべき、わづかにおのれが城を落されざるを専としてぞありわたりける」とし、義明の三男信濃栄女が今の天性寺の東に屋敷を営んだとして、信濃氏四代の在城を応永の頃から宝徳(一四四九-五二の後までとしている。 山名氏清没落の跡、応永七年に足利義満が岸和田庄の半分を石清水八幡宮へ 寄進したが、その当時は守護がいて守護代があり、さらに地頭あるいは土豪がいるという複雑な支配形態であったらしく、狭い地域に複数の城郭が存在したと思われる。

 

応永十五年には細川頼長が和泉半国守護となって岸和田城に入り、城主も兼ねて岸和田細川氏といわれる七代が、岸和田城とのつながりをもつようになる。 長享二年(一四八八)には岸和田根聡城が根来方から攻撃されて落城しており、 明応九年(一五〇〇)には時の守護細川元有が畠山尚順らに攻められて、岸和田城に敗死したりするようになるが、その前後から岸和田城には守護代として 松浦肥前守が在城したとみえる。『寺社覚』に「又郡代として明応・永正(一四 九二―一五二一)の頃岸和田に住し、大永年中(一五三一―二八)土井の城取建 とも云へり」とある。

 

現在、岸和田城公園となっている旧二の丸の西隅に武道場を建設した時、今の石垣の内側にさらに古い石垣の列が見つかっており、大永頃までは土居あるいは掻上城であったものと思われる。

 

また、享禄・天文の間(一五二八―五五)に細川家臣那和氏が在番したとするものもある。しかし、多くの地誌や記録には、古城から現在の城に移ったのは、 漠然と松浦肥前守の頃としており、永禄・元亀(一五五八―七三)から天正三年 (一五七五)まで松浦肥前守の在城が知られる。

 

が、その基はやはり信濃氏移住 の頃とするのが妥当と思われる。

 

永禄元年頃から三好義賢(実休)や十一存・安宅冬康の三好勢の岸和田在城 がみられ、同三年に義賢が岸和田城を大規模に造作して、安宅冬康と十河一存 を大将とし阿波の軍勢二千八百を籠城させたとみえ、相当の規模になっていた ものとみられる。

 

またこの時、四国淡路との連絡の便から、海に面した現在の二の丸付近が主郭となったのではないかと思われ、海を背負った南面する城郭の基礎ができ上がっていったと考えられる。

 

永禄二-四年と根来衆・畠山勢らが出張し、岸和田城を中心とした争乱が続 いた。

 

同五年、三好実休は久米田山で畠山勢との決戦に敗れ戦死し、岸和田城の安宅冬康も城を明けて退き、その跡へ細川刑部大輔が入った。

 

しかしそれも束の間で、三好勢を追った畠山勢は河内教興寺の戦に大敗し、岸和田を回復し た三好方では岸和田城に松浦肥前守を入れたといわれる。

 

同九年に岸和田衆が登場し、松永・畠山・根来の連合軍に加勢して三好三人衆と戦ったが、上野芝合戦に敗れて岸和田に引き籠もっている。

 

永禄十一年、織田信長は将軍足利義昭を奉じて上洛したが、その時すでに信長麾下に松浦孫五郎・和泉国衆の名がみえ、和泉は信長の勢力下となりつつあったと思われる。

 

元亀から天正の初めには松浦肥前守が城代として在城したが、天正三年には、 岸和田庄・岸和田城に関係するとみられる岸和田池建立の掟を定めているのが、 松浦肥前守とその家老であったといわれる寺田又右衛門で、のち又右衛門・安太夫兄弟が肥前守にとってかわり岸和田城代となったといわれる。

 

天正四年、信長は石山本願寺を攻めたが、毛利氏や瀬戸内の海賊衆が 投助のための兵糧を貝塚に運び、雑賀衆も加わって木津川口へ進み本願寺へ届けている。この時、これを迎え撃った和泉衆の水軍は大いに破られ、生き残ったのは寺田又右衛門・ 松浦安太夫などわずかであったという。

 

その後、岸和田城には寺田氏・松浦氏、さらに堀久太郎・蜂屋兵庫助らが詰めているのがみえるが、同十年の本能寺の変の直前には、雑賀党の内紛を避けて、鈴木孫一も岸和田城にいたらしい。

 

この以前、天正八年には、石山本願寺は信長の前に開城し、紀州鷺の森に移っている。

 

天正十一年、豊臣秀吉は大坂を城郭の地と定め、中村孫平治に和泉の国を領知させ、岸和田城に配し、和泉国武士をして中村一氏に属させ、根来・雑賀・ 粉河などの一揆にあたるよう命じている。

 

翌十二年、小牧・長久手の戦の留守 を狙って約三万といわれる紀伊雑賀・根来・粉河の一揆が進入し、手勢および 合力合わせて八千といわれた中村勢の守る岸和田・大津を襲い、岸和田城を中心に岸和田合戦が行われた。

 

この時天正十年に鷺の森から貝塚に移っていた 本願寺は、むしろ秀吉に協力を約した。同十三年、秀吉は雑賀・根来を攻撃するため岸和田城に入り、そこから貝塚の諸城を落としたが、貝塚ト半斎の仲介 によって積善寺・沢城を開城させている。

 

根来攻略ののち、秀吉は岸和田城に小出秀政を入れて城主とし、それまでの 中村一氏を近江水口に、松浦安太夫を伊勢壱生川に移領させている。

 

また、天 正十四年に和泉十万石を石川数正に宛行ったともいわれる。

 

初め四千石であった小出秀政の知行は、文禄三年(一五九四)には一万石に、 翌四年にはさらに三万石となった。『岸城古今記』には、この年から天守閣を造り始めて慶長二年(一五九七)に竣工したと記している。

 

『寺社覚』には、「天 正十五年より御城譜請、慶長三年に至て御成就、天守・矢倉御門・石垣出来、 此節目形三郎左衛門永吉屋敷替地を下されたり」とあるが、三万石の石高とな った文禄四年着工の説が正しいのではないかといわれている。

 

また、『泉邦四 県石高』には、「今之城、天正之比迄天守もなく堀・矢倉も麁相成に依て伏見 之御城天守・矢倉门等迄被成御电、石垣出来、小出播磨守御代之事、二·三 丸迄出来、又大坂御陣後、通筋堺町之門·堀・石垣·浜手石垣・南往還入口 門・堀・石垣等出来、須田次郎太郎殿奉行になり」とみえている。

 

慶長十九年、大坂冬の陣に際して岸和田城には小出吉英に添えて松平信吉を置いており、のちには松平信吉に替えて北条氏重を置いている。

 

元和五年(一六一九)、小出吉英は出石に移り、丹波篠山から松平康重が五万石で入城して 来た。

 

その頃のことを旧記に、「其以前ハ二ノ丸石垣迄汐差入り、芦原の所段々 ト海退に付、当時の伝馬口より坂口御門迄新廓出来、町家等建候由、夫迄ハ南 大手より東大手へ往還之所、当時の通り往来に相成候由、此時代伏見の城掃地 ニ成候=付、矢倉門等之建具所々引入て当城へも引入よし、依之五七之桐の紋 付候瓦に至り少々残有之也」とある。

 

また『石川正西聞見集』に、「きしのわた御拝領其年に、浜辺石垣日用にて公儀6被仰付候、御奉行は三好備中殿、其 冬中に石垣出来、備中殿江戸へ御帰ニ付面御礼として我等を被遺候、其時きし のわた城の様躰御老中御尋候間、有のまゝ申上候、先城主小出大和守殿普請無 之故門もへいも大破の由申上候へは」とある。

 

そのほか、『岸城古今記』にも、 「其以前者、二ノ丸ノ外石垣迄も汐 差入芦原之所、当時ノ通往来となる、 外側の御構御普請ハ松平二代之周防 守康映殿御代=出来、則播麻国之者 へ渡シ普請ニて、長サ一町ニ付銀拾 貫目宛にて出来ルト也、又一説にハ 石八神於寺山取寄築候由、石垣斗 之御普請にて、周防殿所替ノ後塀ハ、 岡部美濃守御代ニ出来ルト也」とし ている。

 

小出氏・松平氏の城郭の整 備にあたって、代官の須田次郎太郎 や三好備中守が奉行となっているのは、幕府(公儀)からの命令によるもののようである。 小出氏時代、城地が整備され、文禄三年検地では岸和田村高のうち、 御城下高引は百九十八石五斗とし、 松平康重の二割増高後の同高引は二百三十三石四升八合としている。

 

『日本城郭大系』12より一部引用。

 

城主(一族)石高

小出秀政時代:30000石

松平康重時代:50000石

岡部宣勝時代:60000石

 

所感

●城が美しく、往時はどこからでも見えた為、威容を誇っていたと思われる。

 

●石垣も立派であり、この石高でよくこのレベルの城が造られた。

※おそらく対豊臣対策で堅牢にしたものと思われる。

 

●堀からみる城も美しい。

 

関連URL

【大阪府】岸和田古城【岸和田市野田町】

 

参考URL

岸和田城(ウッキペディア)

城郭放浪記(岸和田城)

 

参考文献

『日本城郭大系』12

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