城データ
城名:田原城2
別名:無し
標高:374m
比高:267m
築城年:不明
城主:不明
場所:広島県広島市東区戸坂新町~温品町
北緯:東経:34.433200/132.505488
攻城記
松笠山の奥の院を更に山頂方面に登っていく。
違うと思うが門石っぽい。
動物がいることが分かる。
鹿らしい。
北峰からの風景。
まだ城域ではない。
長い道をひたすら歩く。
やっと曲輪に到着。
本丸に到着。
本丸全景。
二ツ山も前方に見える。
次の曲輪、削平されているが堀切などはない。
南峰に到達。
こちらも曲輪跡。
山の奥に瀬戸内海が見える。
位置関係
open-hinataより【田原城2】
余湖図【田原城2】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【田原城2】
城の概要
同一尾根上の南側の先端部には田原城跡1、鏡山城跡、屋太山城跡がある。
最高所から南東に向かって延びる尾根上に、郭が二ずつ三群に分かれて合計六つの郭が配置されている。
それぞれの郭群の間には堀切は見られず、簡単なつくりとなっている。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
城の歴史
詳細不明、戸坂氏の城だったかもしれない、大永7年(1527)の戦いの可能性もある。
松笠山合戦 〜大永7年(1527)5月13日〜
「中山村史』によれば、「大永7年(1527)に、大内勢が府中で頑強に抵抗する武田方の白井氏を攻めているが、尾長から中山に越える「大内越峠」の名前は、大内軍がこの峠を越えて府中井氏を攻撃したことから付けられたものという。
「大内軍は5月5日府中城の攻ていたが、同月13日に白井氏救援の武田勢が背後に押し寄せ、松笠山で合戦が行われている。」とある。
また『戸坂村史』には「大内勢は、この合戦で戸坂や玖村(現安佐北区落合)まで攻め込んだが、府中城さえ落とす事ができなかった。戸坂の北側、小田の松笠山で合戦が行われたのはこの年の5月13日であった。やがて、享禄元年(1528)に大内義興が死去し、大内方は攻撃を一時中断せざるをえなくなる。」と記載されている。
この松笠山の合戦は、武田氏の配下である白井氏を大内氏から守るための軍事行動であるが、武田方の防御線からみても、戸坂城ー戸坂松笠山-中山田原城一鏡山城というルートを確保できれば、府中の白井氏を救うことができると考えられたため、府中は重要なものであった
『中山村史』より。
当然、戸坂を所領としている戸坂氏も、この合戦で武田の支配下の部将として大内軍との戦いに参加していたものと思われる。
所感
●城の造りとしては複雑でないため、臨時に造られた城なのかもしれない。
●そうなると、対大内氏の防衛戦線としてこの城が重要な意味を持つ。
●大内氏も結局、撤退することとなる。
関連URL
参考URL
参考文献
『中山村史』
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2024/01/14