亀山城、小奴可氏の詳細はこちらが詳しいです
城データ
城名:亀山城
別名:森次城、亀石城、亀割城
標高:590m
比高:40m
築城年:治承年間(1177年〜1181年)奴可入道西寂によって築かれたと云われる。
城主:奴可入道西寂、奴可氏、小奴可氏、鳥羽七良衛門政家、飯田新助、亀井武蔵守玆経
場所:広島県庄原市東城町小奴可
北緯:東経:34.991293/133.208253
攻城記
整備されており登りやすい。
比高はそこそこある。
曲輪跡。
要害桜を見下ろす。
二の丸跡。
亀山城跡
丘陵を利用して築かれた山城で、亀石城とも呼ばれ、本丸以下段状に郭が8カ所築かれ、いたるところに堀切や土塁がめぐらされている。西方のふもとが居館跡と伝えられ、一角に要害桜が名残りをとどめている。
この城に関する正確な史料は現存しないが、近世の文献によると、平安時代末期には、奴可入道西寂の居城であったとされ、その後、奴可四郎・奴可源吾・奴可平四郎・飯田新助・亀井武蔵守玆経らが居城したというが明らかでない。
戦国時代の永正年間から慶長年間までは、宮氏の一族である宮下野守定実・同隆盛・同盛常・同盛慶らのいわゆる小奴可宮氏が居城していた。
このうち隆盛は、尼子氏に味方し毛利勢と戦い戦死するが、その子盛常は、許しを得て毛利氏の家臣となった。
平成十九年三月 庄原市教育委員会
本丸。
本丸土塁。
本丸からの景色。
麓の看板。
余湖図【亀山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【亀山城】
拡大図。
城の概要
最高所の1郭南東側に土塁があり、さらに南東下には空堀が迷路のように設けられている
1郭の北から西下に最大規模の2郭があり、その北に堀北がある。
2郭の西下の郭は居館跡と伝えられ、北西隅には県天然記念物の「要害桜」が立つ。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
亀山城 東城町小奴可
小奴可盆地西南の亀山(標高五九〇メートル)に築かれた山城。
「備後古城記」「備陽六郡志」「西備名区」「芸藩通志」 などによれば、治承(一一七七~八一)から元暦(一一八四~―八 五)の頃、奴可入道西寂の居城であったという。
治承五年、伊予の住人河野通清が源頼朝の挙兵に応じ高縄城(跡地は現愛媛県北条市)にこもったため、平氏方の西寂は三千 余騎を率いて鞆浦(現福山市)から攻寄せ、通清とその子通 員を捕らえ殺したという。
その頃関東にいた通清の子四郎通信はこれを聞きひそかに帰り、翌年鞆浦に凱旋して 祝宴を張っていた西寂と子宗賢を襲って捕らえ、父の墓前で引回しのうえ鋸で首を引落したという(吾妻鏡、平家物語、源平盛衰記)。
その後当城には元弘年中(一三三一~三四) に奴可四郎、観応―貞治(一三五〇~六八)の頃奴可源吾、 明徳年中(一三九〇~九四)には奴可平四郎が居城したという。
戦国時代には宮氏の一族小奴可氏が本拠を置いたといい、小奴可隆盛は天文二二年(一五五三)尼子晴久に味方し備後国江田の旗返(現御調郡御調町)「ママ」で毛利氏と戦い戦死するが、家督を継いだ小奴可盛常は毛利元就・隆元の許しを得て毛利の家臣となったという。
また一説に戦国末期に亀井能登守永綱が尼子氏の幕下として出雲国から移ってきたとか、天文の頃には亀井武蔵守茲経が居城した とも伝える。
本丸は約一千一四平方メートルで、独立丘陵の頂上部を削平。
搦手の南東部分は高さ一・五メートル、幅二メー トル余に地山を削り残して土塁としている。
本丸の北側大手には一段下がって本丸を取巻く形で二の丸をつくり、 東側に二段の小郭を設ける。
二の丸の北側には丘陵をい 字形に切落した大空堀を設け、さらにその北側の丘酸先 端に二段の郭を設ける。
本丸の搦手は急崖で、その下にも郭状の平地や空堀が設けられる。
比高が低く小規模な城ながら本丸からは小奴可盆地が一望され、とくに諸方から盆地への入口すべてが把握できる地の利をえた堅固な山城である。
居館は本丸の西側の麓にあったと伝え、 約一千五〇平方メートルの郭状に築かれた平地が残る。
居館跡の北西の隅に要害桜とよばれる根回り六・五メート ルの桜の古木がある
『広島県の地名』より引用。
亀山城
明治三十一年、備後の奴可・三上・恵蘇の三郡は合併して比婆郡と呼ばれるようになった。
亀山城のある小奴可盆地はそれまで奴可郡に属し、「郡内第一 の広き郷にて、昔、郡庁のありし地なるべし」と『芸藩通志』は記している。
北方や西方を中国山地の山々に囲まれて、現在はのどかな山村の風情をみせるこのあたりも、往時は伯耆・備中と境を接し、枢要の地を占めたと思われる。
亀山城主であったといわれる奴可入道西寂は、治承四年、伊予の住人河野通清が反乱を起こして道前・道後の境にある高縄城に籠もったため、平氏 より鞆の浦から兵船をととのえて押し寄せ、これを討ちとったという。
しかし、 その後通清の子息四郎通信は遊宴中の西寂を襲い、父の墓前で引きまわしのうえ、首をはねたという(『源平盛衰記』『陰徳太平記』)。
この城は戦国時代には宮氏の一族である小奴可氏が本拠を置いた。
小奴可隆盛は天文二十二年(一五五三)、尼子晴久に味方し備後国江田の旗返で毛利氏勢と戦い戦死するが、家督を継いだ小奴可盛常は大叔父で郡山城内の興隆寺の住職策雲竹英の奔走によって毛利元就・隆元の許しを得て、毛利氏の家臣となった。
城は国鉄芸備線小奴可駅の約五〇〇m南にある小高い丘の上に築かれており、 この東側直下を国道三一四号線が南北に走っている。
本丸は丘陵頂部を三九m×二六mに削平し、背面の南東部分は高さ一・五m、 幅二m余に地山を削り残して土塁としている。
本丸の北側はこれをとりまく形で二の丸をつくり、東側に二段の小郭を設けている。
二の丸の北側には岩盤をくり抜いた空堀を設け、さらに丘陵の先端に向かって二段の郭を設けている。
本丸の背後には空堀や土塁で区切られたかなりの空間があるが、後世のタタ ラ製鉄による砂鉄採取城(鉄穴溝)で切られており、複雑な地形を呈している。
また本丸の西側の谷に面して居館があったという三〇m×五〇mの台地があり、 その一角には要害桜(県天然記念物)が影を落としている。
『日本城郭大系』13より引用。
城の歴史
治承5年(1181):奴可入道西寂が河野通清を討ったが、鞆で遊興中に息子の通信に急襲され、捕らえられる「平家物語」「源平盛衰記」
元弘3年(1333):奴可四郎が鎌倉幕府より奴可郡郡司に補せられ、後、摂州に移る。
足利尊氏の反乱により主人である北條仲時自害し殉死する。「西備名区」
観応元年(1350):奴可源吾が石州の三隅入道とともに足利直冬朝臣に従い三隅城に籠城する。高師泰が攻めるも落とす事ができなかった。「西備名区」
明徳2年(1392):明徳の乱にて山名氏清謀叛の時、大内義弘に従い、山名家臣の小林修理亮の軍を破る、その一人となる。「西備名区」
永正6年(1509):小奴可定実が土岐伊予入道一漁より神槍秘術の免状をされる。「譜録」
永正16年(1519):小奴可定実の嫡子である宮隆盛生まれる。(1553年の旗返城の討死の時に35歳の伝承から)
永正18年(1521):亀寿山城主宮政盛が小奴可宮氏(小奴可亦次郎定実)の柏村(新市町下安井)合戦の働きに対して感状を与える。「萩藩閥閲録」
同日付で宮政盛の嫡子親忠も同じ内容の感情を小奴可宮定実に与えている
「譜録」では大内方の宮政盛、親忠から感状を貰っていると記載されている
大永5年(1525):久代宮氏である宮高盛の臣で、亀割城主である鳥羽七良右衛門尉政家が小奴可にある社殿を改築し、社号を妙見宮と称え、篤く信仰したという。
妙見社は今の奴可神社。
天文2年(1533):毛利元就は後奈良天皇から叙爵をうけ、推挙してくれた大内義隆に興禅寺の住持、策雲玄龍(興禅寺2世)を礼の使者として送る。
天文3年(1534):毛利元就が亀山城を攻める、篭城中に小奴可の宮定実が病戦没する 嫡子の宮隆盛は毛利氏に降伏 「譜録」
天文5年(1536):毛利隆元を人質として大内へ差し出す時に小奴可の宮隆盛の叔父竹英も加える。
小奴可宮氏3代目の宮盛常が生まれる(父隆盛18歳の時)
天文21年(1552):宮盛常が大内晴英に家督のお祝いとして太刀を送り、その返しとして、同様に太刀を遣わす(返礼の使者は青景隆著)
当主は宮隆盛ではなく息子の盛常なのか、天文22年の間違えの可能性もある。
天文22年(1553):旗返(三次市)の合戦で、尼子方であった小奴可の宮隆盛は毛利軍と対し戦死する。
嫡子の盛常は若年(18歳)で、本領の内、久代は大内家預かりとなる「譜録」
天文22年(1553):12月3日付の書状で山内隆通は「宮家并東分小奴可」など久代宮氏の押領した地一切の領有を毛利氏に要求し、元就の承認を得ている「大日本古文書. 家わけ第15 (山内首藤家文書)216」
毛利隆元→策雲(竹英)へ
宮下野守隆盛討ち死にに際し、失った土地はそのうち返されるので安心しなさいと伝えている(5月12日)「萩藩閥閲録」
毛利元就→策雲(竹英)へ
久代御当主宮景盛に懇望し久代には12000貫を返納させて、1200貫ばかりにして貰いたいとの申し入れに、元就より異議なしとの返事を貰っている(11月1日)「萩藩閥閲録」
毛利元就、隆元→策雲(竹英)へ
毛利親子からそのうち本領安堵になるであろうとの沙汰がある(12月26日)
「萩藩閥閲録」
天文年間(1532~55):小奴可亀山城に尼子幕下亀井武蔵守茲経が居城していたという「備後古城記」
亀井武蔵守、亀に似た石があり、よなよな光を放つのでこれを砕いて天満宮の社を建てたので、この場所を亀割と伝える「備後古城記」
このころ後の辺城に飯田新助と亀井能登守永綱(秀綱か?)が居住「備後古城記」
亀井氏=元雲州須佐の城主 目代としてこれに住す 尼子晴久の一族にして飯田新助の後主なり「西備名区」
飯田新助=小奴可新助で久代宮氏の家臣であった「新山勝男氏所蔵文書の久代宮家之侍衆中にあり」
弘治3年(1557):小奴可の宮盛慶が生まれる(父盛常22歳)
永禄3年(1560):足利義輝より「下野守」を授けられる、上野信孝が伝える(2月20日) 「萩藩閥閲録」
(お礼として宮盛常から足利家へ太刀一振りと銭100疋、上野信孝に銭100疋を贈る)
上野信孝→宮盛常
太刀一振り、銭100疋を差し出した事へのお礼(8月8日)「萩藩閥閲録」
竹英が興禅寺で紫衣に転衣となり位を極める
永禄7年(1564):前南禅 竹英が妙寿寺の和尚となる 前南禅=元南禅寺 「明星院伝承」
永禄10年(1567):宮隆盛の叔父竹英が亡くなる。
天正元年(1573):小奴可の宮盛常が亡くなる(享年38歳)
天正6年(1578):奴可の宮元常が生まれる(父盛慶22歳)
天正9年(1581)村山檀那帳の中に中郡坂之分(安芸高田市向原町坂)に一合 帯 五明のし 宮中務殿が記載されている。宮中務は宮盛慶(1558~1599)のことで当時小奴可村にはおらず、中郡坂村にいた可能性もある。
天正14年(1586):前和尚の明叔元揚死去により元策が興禅寺の和尚となる、同時に妙寿寺の3世となる。
天正16年(1588):毛利輝元より宮盛慶へ「下野守」が伝達される。「萩藩閥閲録」
天正19年(1591):穂田元清を通じて小早川隆景へ愁訴(2月1日)
安国寺恵瓊、堅田元慶を通じて小寺鎮賢へ愁訴(11月8日)
国司就信をつうじて小寺鎮賢へ愁訴(12月4日)
慶長4年(1599):9月17日 宮盛慶死去
慶長5年(1600):関ケ原の戦いじて毛利氏が萩に移封、宮氏も萩に付き従う。
宮氏1591年頃の所領。
城主家系図
小奴可定実
初代:小奴可定実
官途名:下野守
通称:亦次郎
生没年:萩藩諸家系譜から 天文3年(1532)没
来歴:これより以前は不詳、本家は久代宮氏と伝えられるが詳しい事は分からない
戦の途中で病没とあるが、主家である宮下野家が亀寿山城落城時に同じようなケースだったので混同している可能性もある
竹英
初代弟:竹英
別名:策雲玄龍、(竹英東堂とも)
生没年:萩藩諸家系譜 永禄10年(1567)没
来歴:小奴可可定実の弟で、安芸国吉田の興禅寺の2世。
天文6年(1537)毛利元就の長男隆元を人質として大内義隆に差し出した際、従者として加えられている。
興禅寺龍東堂、策雲、竹英、玄龍なども号し興禅寺二世であった、興禅寺は元就以前から吉田郡山城内にあった臨済宗の大寺で、元就 は厚く崇敬していた。
また、1553年の旗返の戦いでは甥の宮隆盛が討死した事から、その息子盛常の進退や所領を安堵する為に奔走した。
疑問としては備北の小奴可にいる人物が何故安芸国の吉田にある興禅寺の2世になっているのかが分からない。
しかし、寺に僧侶として入り、尚且つ2世となるのであれば、それ相応の身分と勢力があったと思われ、小奴可宮氏が宮下野家毛家の一族に連なる人物であったと想像できる。
広島市東区明星院の記載で前南禅とあり南禅寺で修業をしたと思われるので宗派は南禅寺派かもしれない
元就が詠んだ詠草(和歌、俳句等の草稿)に興禅寺にて竹英東堂花をみせられしに
「かくはかり情けあるしの宿なれハ花の色香をなににたたへん」と詠んでいる
永禄3年~4年の芸雲和議では竺雲和尚とともに交渉にあたる
宮隆盛
2代目:宮隆盛
官途名:下野守
生没年:不詳であるが旗返の戦いで討死とあるので1553年で亡くなっている、譜録に35歳で亡くなったとあるので1519年生まれか?
来歴:小奴可定実の嫡男 天文年中の初期には大内氏に従っていたが、父、定実が尼子氏から寝返って大内に臣従。
しかし天文22年(1553)尼子氏に寝返り旗返城の戦いにおいて討死「本領之内、久代之地は大内氏の「預かり」になってしまう。
しかし、1553年当時はすでに家督を息子の盛常に譲っており不可解な行動をとっている、それ以前に久代宮氏の小奴可押領なのでかなり勢力を削減されており、また山内家が江田氏に尼子氏に寝返るように催促したように、小奴可宮氏にも催促したのかもしれない。
また天文年中には一時期尼子氏が侵攻していた時である、亀山城が尼子家臣である亀井氏が城代として入っていたことから強制的に尼子の支配下になっていたのかもしれない。
ともかく、重要な局面において、毛利氏に敗れ、その勢力はさらに削減されたと思われる。
宮盛常
3代目:宮盛常
官途名:民部太夫 下野守
没年:萩藩諸家系譜 天正元年2月15日死亡 享年37歳 1536~1573
来歴:宮下野守隆盛の嫡男 天文22年(1553)の旗返城の戦いにて父親の隆盛討死「本領之内、久代之地」は大内氏の「預かり」になってしまう。
理由はいまだ「若年」のための処置であったというが、この時盛常は元服をおえ、すでに17歳であった。
しかも天文21年(1552)12月23日付 「萩藩閥閲録巻149」により大内晴英→宮盛常(16歳)
宮盛常が大内晴英(大内家当主)に、家督のお祝いとして太刀を送り、そのお返しとして同様に太刀を遣わすとの内容の書類が残っており当時すでに家督相続をしていたことは確かである。
ともあれ小奴可宮氏は「久代之地」返還を求めて嘆願を繰り返すようになる
宮盛慶
4代目:宮盛慶
官途名:中務少輔 下野守
没年:萩藩諸家系譜 慶長4年9月17日死亡 享年42歳 1557~1599
来歴:宮下野守盛常の嫡男 豊臣秀吉の検地によって毛利氏も天正16年から秀吉の命に従い八カ国で検地を実施したこの検地の完了で毛利氏は譜代、外様層のみならず国衆有力家臣の本拠地にいたるまで実態把握が可能になり、家臣の知行がえを行う条件は整った。
そこで念願の久代之地の返還を行うことになった、1591年2月1日には穂田元清を通じて小早川隆景へ愁訴する。
また11月8日には安国寺恵瓊、堅田元慶を通じて小寺鎮賢へ12月4日には国司就信をつうじて、小寺鎮賢へ愁訴したが結局は小奴可宮氏には返還されず毛利氏の倉入地になったと思われる。
宮元常
5代目:宮元常
官途名:但馬守
通称:彦七 與左衛門
没年:萩藩諸家系譜 正保2年5月29日死亡 享年66歳 1578~1645
来歴:宮下野守盛慶の嫡男 1591年頃の所領として宮彦七30石とある1591年当時元常はまだ14歳なのでひょっとしたら父親である盛慶の通称かもしれない。
とにかく小奴可宮氏の本家は石高が30石であったことは間違い無い。
父親が1599年に亡くなると当主となったと思われるが、翌年の関ヶ原の戦いにおいて、主君である毛利輝元を一緒に萩に移り、ここに小奴可宮氏は終焉する。
慶長2年(1597)年12月28日付「萩藩閥閲録巻149」藩主輝元より「與左衛門尉」を許された。
元策
元慶弟:元策
別名:西堂
生没年:萩藩諸家系譜 寛永21年(1644)9月30日没
来歴:4代宮元慶の弟で、安芸国吉田の興禅寺の4世である。
興禅寺2世が初代小奴可定実の弟であり(曾祖父の弟)ゆかりが深い。
天正19(1591)10月26日付「萩藩閥閲録巻149」で興禅寺四世元策西堂へ、本領の件については、検地が終わってから沙汰がある旨の文章があり、この元策も実家の所領回復の為に奔走していたことが読み取れる。
天文14年(1586)に2世明叔元揚死去により妙寿寺の3世となる萩に移動になってからは防州山口妙寿寺の住職となる。
広島市東区明星院の記載で前南禅とあり南禅寺で修業をしたと思われるので宗派は南禅寺派かもしれない。
南禅寺 (なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)である。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。
宮忠理
傍系:宮忠理
通称:十兵衛
生没年:不明
来歴:小奴可定実の曾孫である 定実・・・房忠・・・良次・・・忠理 となる
1591年頃の所領として宮十兵衛 253石とある。
主家である宮彦七の家禄が30石に対して、宮十兵衛(忠理)の家録が253石というのは疑問が残るが槍働きで勲功があったのかもしれない。
十兵衛も主家の所領回復に奔走した事が窺われる。
天正19(1591)年12月4日付「萩藩閥閲録巻149」で小寺鎮賢から宮忠理へ何かしらの嘆願(所領回復か?)をした返事がある。
嫡男がおらず宮盛常の三男(少輔五郎)を養子に迎えるが正保年中に暇を願い出て断絶する、その後は不明
城主(一族)石高
当主としては30石と僅かばかりの石高しかなかった。
所感
●奴可入道西寂時代にここに城があったとしても本丸辺りに曲輪が僅かにあったものと考える。
●別の場所にも亀山という場所がありそこにも城跡があある。
※尚且つ古墓もあり信ぴょう性もある。
●小奴可氏は尼子氏についたばかりに当主が討死してその後は勢力を大幅に減退、江戸時代は萩藩士でも「無給通」という地位に甘んじた。
●特に久代宮氏からの侵攻もあったと思われ、当主がこの地にいなかった可能性もある。
関連URL
小奴可氏の詳細。
久代宮氏の本城。
参考URL
亀山城 -備後の城ー – 秋田の中世を歩く
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/04/30