城データ
城名:蔀山城(しとみやまじょう)
別名:士富山城
標高:775m
比高:220m
築城年:正和5年(1316年)山内通資によって築かれたと云われる。
城主:多賀山氏、児玉与三郎
場所:広島県庄原市高野町新市
北緯:東経:35.034949/132.933390
攻城記
蔀山城全景。
蔀山城跡
広島県指定史跡 平成4年10月29日指定
正和5年(1316)、山内通資によって築城された。標高775mに築かれた城は、東側と南側は急斜面の崖が切り立っている。
山頂に本丸を、東方に二の丸と三の丸を置き、主要部とし、ここから東・西・南に派生する尾根へ、30余りの郭が配されたという。
鎌倉初期、通資は相模国山内荘から来住し、蔀山城を築城。その後、元亨年間(1321~24)甲山城へ移ってからは、弟・通俊が在城することになり、家名を多賀山氏と改めた。
享禄元年(1528)には、出雲国の尼子氏に攻撃され、翌年7月に蔀山城は落城した。
その後、安芸の国毛利氏の軍門に降り、尼子氏との数々の戦いに参加したが、天正19年(1591)、毛利輝元により改易を申し渡され、築城以来275年にて廃城となった。
設置年月日 平成19年3月
設置者 広島県教育委員会・庄原市・庄原市教育委員会
攻城開始。
しばらくすると大山神社がある
※もともと山頂にあったものを山内首藤氏がこの地に降ろしたらしい。
堀切の跡。
本丸に到着するも整備されておらず。
二の丸。
二の丸からみた本丸。
三の丸。
井戸跡。
土塁跡。
四の丸。
木々の隙間から麓を臨む。
余湖図【蔀山城】
当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)
『芸藩通志』【蔀山城】
拡大図。
城の概要
山頂部とそこから北東・南東・南に延びる尾根上に郭郡を置き、北と西の尾根続きには小規模な堀切を配している。
1郭は公園化による破壊が見られるが、2段からなり、北側には土塁の痕跡が残る。
2郭と4郭はほぼ同じ高さで、その間には3m低く3郭がある。
3郭の南下には径2mの井戸状の凹みがあり、水をたたえている。この郭から南尾根の郭群へと通路が続いている。
1郭西下の堀切のさらに西側は延々と平坦地が続き、先端には土塁が設けられている。また、南西麓の大仙社周辺にも郭群が見られる。
この城は出雲、備後両国に所領を持つ多賀山氏の本拠であった。
1528(享禄元年)に大名尼子氏の攻撃を受け、翌年落城する。天正末期には毛利氏から所領を没収され滅んだようで、この城も機能を失ったものと思われる。
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用
部山城跡 高野町新市
神之瀬川北岸の部山(七七五・一メートル)に構えられた中世の山城跡。
神之瀬川が蛇行曲流する地なので、部山の 東麓と南麓を川が流れて堀の役割をなし、部山も東・南。 北とも急斜面で、ことに東と南は崖が切立つ。
麓の耕地部との比高は二〇〇メートル余。
また北の毛無山(一一五五メートル)と尾根続きのため、北に空堀を設け備えてい る。
本丸跡(二八メートルメ一〇メートル)の東西に多数の郭群が延び、さらに南と北東にも郭群が配置されている。
本丸東方にある三郭の下方には井戸があり、現在も岩層からの湧水をたたえている。
「芸藩通志」には「山内通資始て築き居る、後弟通俊に譲り、十八世居守し、通信に 至る、其後は毛利家より吉川広家をして支配せしめられ しといへり」とある。
山内氏は備後国地毗庄の地頭で、惣領の山内通資が地毗庄北部に位置する部山に居城を築き、正和五年(一三一六)関東から移住したといわれる(芸藩通志)。
その後通資は 同庄南部の本郷村(現庄原市)に居城甲山城を築き、部山城は弟の通俊に守らせた。
しかし、当地を含む地毗庄多賀村は山陰の有力国人尼子氏の勢力圏に接していることや、 鉄の産地である点で重要地であったから、蔀山城もその堅固さにおいては山内氏の数多い支城の中では三上郡高村(現庄原市)の雲井城に次ぐものである。
貞和七年一〇月二日付山内一族一揆契約連署起請文(山内首藤家文書)によると、署名者一一名のうち、通俊は惣領家に次ぐ位置に 署名している。
多賀村に居城があったことから、多賀山内氏と称したが、のち多賀山氏と称するようになった。
戦国時代には多賀村内に多数の出城を置き、白根氏・ 水間氏などの家臣を配した。
さらに雲州掛合(現島根県飯石郡掛合町)に支城懸合城(日倉城)を築くなど山陰地方へも勢 力を伸ばしたが、永正一一年(一五一四)一族間に分裂を生じ、この騒動のため多賀山家は相伝文書を失ったといわ れる。
翌年一〇歳で家督を相続した通続は(永禄二年一二月 「多賀山通続同家系図案」山内首藤家文書)、惣領家山内直通の娘を妻とし中興の主といわれるほど勢力を伸ばした。
通続は尼子経久に従っていたが大永六年(一五二六)大内方に転じたため、当城は尼子軍に攻められ、二年間領内を荒されさらに享禄元年(一五二八)尼子軍に攻撃された。
前記系図案には「享禄元年九月九日ニ尼子取詰当城、翌年七月十九日ニ、廿日惣固屋之者共尽粮、或者加味方陣、或者敵陣へ落、悉被討畢」とあり、通続とわずかの者がにわかの大風雨にまぎれ切抜けたが、重臣は討死したという。
大内氏没落後通続は再び尼子方となったため、天文四年(一五三五)毛利元就の攻撃を受け、ついに同二二年毛利氏に服した。
蔀山東麓を蛇行する神之瀬川の対岸には支城堀越城跡 があり、南麓にある台地は居館跡といわれる。
『広島県の地名』より引用。
城の歴史
正和5年(1316):山内通資によって築かれたと云われる。
貞和7年(1351):10月2日付 山内一族一揆契約連署起請文(山内首藤家文書)によると、署名者一一名のうち、通俊は惣領家に次ぐ位置に 署名している。
※貞和は6年までしかない。
『山内家文書25』
永正3年(1506):後に惣領家を継ぐ通続が生まれる。
永正11年(1514):一族間に分裂を生じる。
※多賀山通広が弟の花栗弥兵衛によって嫡男の又四郎と共に殺害され、蔀山城を乗っ取られる。
永正12年(1515):1月20日、檜木谷にて多賀山氏家臣の井上八郎右衛門尉が花栗弥兵衛と刺し違えて討ち果たしたため、通続は帰還して多賀山家の家督を相続する。
ウッキペディアから
大永6年(1526):このころ多賀山通続が尼子氏から大内氏に転じる。
享禄元年(1528):9月に尼子氏が攻撃を開始するし、一旦は山内氏・田総氏らの援軍により撃退する。
享禄2年(1529):7月に再度尼子氏に攻略され落城寸前までいくが、雨が降り出し、合戦は落居したとあり。攻撃側と防御側で停戦が成立したと思われる(正式な停戦は享禄4年頃か)ただし、最終的には尼子氏につく。
天文4年(1535):山内氏と毛利氏の間で講和が成立して大内側につく。
天文5年(1536):尼子氏が甲山城に侵攻して攻略する、山内直通が隠居し多賀山氏に嫁いで生んだ多賀山隆通を山内の当主にすることで事を治めた、再び尼子氏につく。
天文9年(1540):惣領家である甲山城の山内氏が尼子方として吉田郡山城攻め参陣したため、多賀山氏も参陣したと思われる。
天文20年(1551):大寧寺の変にて陶晴賢が大内義隆を滅ぼす。毛利元就は陶氏に協力して防長攻略を実施。
その間尼子の侵入を防ぐために、山内氏と盟約する。
※山内氏が大内側(陶側)につく。
しかし、一族の多賀山氏が尼子に寝返った為、毛利氏に討たれる。
天文22年(1553):惣領家である山内氏が毛利氏に帰属したため、おそらく多賀山氏も同様に帰属したと思われる。
元亀元年(1570):通続没(65歳)
城主家系図
備考:掛合町誌では以下の記載がある。
- 三郎兵衛尉通資
- 五郎兵衛城通俊
- 近江守通友
- 又四郎通春
- 新太郎通安
- 五郎次郎通倫
- 大和守通高
- 彦九郎通家
- 対馬守通宗
- 五郎大夫通康
- 出雲守通近
- 刑部大夫通忠
- 新兵衛通継
- 駿河守通憲
- 新兵衛尉通時
- 伯耆守通広
- 新兵衛尉通続(入道久意)
- 与四郎通定
- 左京進通信
- 左近通次
城主(一族)石高
山内家臣の為詳細不明。
所感
●高野町は冬は雪深い所であり、山も多く稲作にも適さない土地であるが、鉄が多く取れる場所であり重要なところであった。
●おそらく鎌倉御家人であったが山内氏もその点に目をつけ、在地化したものと考えられる。
●城は比高も高く、難攻不落である。
●多賀谷氏は山内氏の庶流であるが、主に島根県側に勢力を伸ばしていたと思われ、掛谷や花栗という地名が出てくることから勢力範囲だったと思われる。
関連URL
惣領家である山内氏の居城。
参考URL
参考文献
『日本城郭大系』13
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』
『広島県の地名』
『広島県地名大辞典』
『広島の中世城館を歩く』
『萩藩諸家系譜』
『毛利八箇国御時代分限帳』
『萩藩閥閲録』
公開日2022/04/02