城データ

城名:加井妻城

別名:青屋城、加伊津女城、飼地城、卑城

標高:223m

比高:59m

築城年:永正元年~大永3年(1504~1523)頃

城主:青屋出羽守友梅、三吉氏

場所:広島県三次市粟屋町

北緯:東経:34.767727/132.804636

加井妻城はここ

 

攻城記

加井妻城全景。

高速道路の麓に階段あり。

ロープもあるが危険。

最初の曲輪。

削平地が続く。

曲輪。

上方の曲輪を見上げる。

曲輪は綺麗に残っている。

謎の石列。

曲輪跡。

麓の堀切を見下ろす。

結構深い堀切。

堀切下から見上げる。

実際に戦があった城の為、色々手が入っている。

前方には勝山城がある。

位置関係

 

open-hinataより【加井妻城】

 

余湖図【加井妻城】

当時のイメージ図(余湖図コレクションより引用)

 

『芸藩通志』【加井妻城】

古城跡とし記載されておらず城の正式な名前は不明。

 

城の概要

1977年に一部発掘調査が行われている。

 

最高所の郭には背後(南側)を土塁・堀切で区画しており、北下に向って郭を連ねている。

 

4・7郭では多数の柱穴が検出され、小規模な建物跡あるいは、柵列跡が想定されている。

 

7郭は本城跡中でも最も大きな郭で、柱穴のほかに土坑・集石遺構などが検出されている。

 

8郭は堀切が確認されているが、その北方は削平を受けており郭の状況は不明である。

9郭では小規模な建物跡があり、飛礫と考えられる河原石が検出されている。

 

またここから多数のスラグが出土しており、鍛冶遺構の存在が考えられる。

 

出土遺物には輸入陶磁(青磁・白磁・青花)国産陶器(備前・瀬戸美濃)、土師質土器(すり鉢・鍋・香炉・皿など)土製品(土錘)、石製品(磨臼、砥石)、鉄製品(短刀・鋤先・鉄鏃・釘など)、青銅製品(笄・和鏡・鋲など)、古銭などがある。

 

本城跡は、輸入陶磁や国産陶器などから、15世紀後半から16世紀代に築城され使用されたものと考えられる。

 

など発掘調査報告書では城の性格を考察する際に陰徳太平記の記述を採用しているが、根拠となった1523(大永3)年の戦いは『新栽軍記』などにおいて史実ではないことが明らかにされている。

 

当該期における政治状況、あるいは地理的な位置関係などをみれば、三吉氏の界詰めの城としての機能を指摘した報告書の結論は否定されるものではないが、その根拠付けは慎重に行われるべきである。

 

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用

 

加井妻城

当城の東側には可愛川、北側にはその支流の上村川が西流して、眼下で可愛に合流し、城の西側には谷が入って、北に延びる狭い丘陵を形成し、 高所を本丸として階段式に郭を配置している。

 

この地は、上村川を遡ると、高橋氏の勢力下である高田郡高宮町に至り、 可愛川上流では宍戸氏と境を接しており、軍事上・交通上の要地である。

 

すな わち、三吉氏にとっては青河・志和智・川立などの可愛川流域の確保と、当時、 高田郡北部から石見国にかけて一万六千貫を所領していたといわれ、さらに拡大をはかる高橋氏の東進を阻止するためにも築城を必須としたのであろう。

 

当城をめぐる戦いについては、『陰徳太平記』によると、大永三年三月に、石見国出羽の城主高橋大九郎久光が当城を三千余騎で攻めて落城させたが、高橋父子は油断から討ち取られ、高橋勢は敗走したが、これは当城が三吉修理亮と数年来の争論の地であったことによる争いであるとしている。

 

そして、三吉勢は高橋氏の本城を攻撃するため、久代・高野山・木梨・楢崎氏らを味方として 五千騎で出羽城まで打ち出たが、高橋氏は毛利氏と姻戚であることから、毛利元就が加勢して三千五百騎で逆に攻めたため、三吉勢は各城の防備のため引き払って、三吉・久代・高野山の選兵八百騎と当城主青屋入道友梅麾下の青屋勢二百騎の計一千騎で防戦するところとなった。

 

毛利・高橋勢は当城を取り囲んだが、いくばくもなく大内義興が大軍を率いて安芸国に進攻し、尼子氏がいったん占領した西条鏡山城を取り戻したため、尼子経久が再び進攻し、鏡山城を攻略することになり、元就もこれに加わることになって、当城の攻撃は毛利・高橋勢の優勢のうちに和議が成立したようである。

 

しかし、三吉氏にとっては当城を廃城としても、この地域が軍事的に必要で あることに変わりはなく、ほどなく対岸に勝山城を築いたとみられる。

 

すなわ ち、加井妻城は三吉氏にとって堺詰めの城ということができる。

 

当城の成立は、永正―大永年間(一五〇四~二八)における三吉氏の可愛川流域の確保と、高橋氏の東方への勢力拡大に伴う結果とみられるが、その後は、 毛利元就の強大化、高橋氏の没落、三吉氏の安定化により加井妻城の役割は勝 山城へと引き継がれていったとみることができる。

 

なお、『高田郡誌』では、 勝山城を青屋城としている。

 

『日本城郭大系』13より一部引用。

 

城の歴史

文明2年(1470):このころはまだ宍戸氏の所領だった可能性がある。

『毛利家文書134 135』

 

134で、宍戸駿河守跡(除秋町、粟屋等)とあり、135で宍戸安芸守が駿河守の後継と推測して、文明2年1470年当時この粟屋村は宍戸氏の領内であったと思われる。

 

永正12年(1515):髙橋氏の当主である高橋元光が戦死して、弟の弘厚(重光)が松尾城主になる。

大内氏から興光の家督相続の承認を得る

『萩藩閥閲録巻89田総惣左衛門-1』

 

『萩藩閥閲録巻121ノ2周布吉兵衛153』

 

 

ここでは備後の入君で元光が討死しており、粟屋地域ではないことが分かる。

 

大内氏陣営(毛利、三吉、髙橋)  尼子陣営(無し)

 

大永13年(1516):この頃高橋氏が大内氏から尼子氏に寝返り、毛利興元に居城を攻められる。

 

2月29日に粟屋彌六(元忠)が松尾要害を攻めて勲功を果たしたことで興元から感状を賜る。

『萩藩閥閲録巻90粟屋七郎右衛門-2』

 

7月21日に河野左近太夫(春重)が松尾要害を攻めて勲功を果たしたことで興元から感状を賜る。

『萩藩閥閲録遺漏巻4の1河野-2』

 

大内氏陣営(毛利、三吉)  尼子陣営(高橋)

 

大永元年(1521):この頃までには、毛利も尼子に従う。

大内氏陣営(三吉)  尼子陣営(高橋、毛利)

 

大永3年(1523):『陰徳太平記』によると髙橋久光(元光父か)が当城を攻めて落城させたが、油断した後に討ち取られる。

 

その後、余勢をかって高橋氏の本城(二つ山)を攻めるが、姻戚関係であった毛利の支援もあり、諦めて加井妻城に帰城する。

※その時に三吉・久代・高野山の選兵八百騎と当城主青屋入道友梅麾下の青屋勢二百騎の計一千騎で加井妻城を防戦する。

 

逆に、髙橋、毛利氏が加井妻城を再度攻めるが、尼子氏の西条の鏡山城攻城戦に元就が参戦する為に和議を結ぶ。

 

その後、加井妻城よりも堅牢な勝山城に移る。

 

大永4年(1524):この頃には毛利氏も大内氏に寝返る。

大内氏陣営(三吉、毛利)  尼子陣営(高橋)

 

享禄3年頃(1530):この頃に高橋氏は毛利に攻められて滅亡する。

大内氏陣営(三吉、毛利)  尼子陣営(無し)

 

 

城主の青屋出羽守友梅

詳細不明、青屋出羽守友梅の「青屋」は「粟屋」の訛だと思われる、また友梅は出家した後の法名か。

 

出羽守は官位明なので、粟屋出羽守であるが、出羽守が誰なのか不明、三吉一族の誰かだとは思うが出羽守を名乗る人物が誰なのかは不明。

 

所感

●城は実は更に広くかなり堅牢であったと思われる。

 

●粟屋氏(三吉氏)であるが、『陰徳太平記』である軍記ものでどこまでが本当のことが分からない。

※そもそも大永3年にこの戦いがあったのか不明。

 

●この加井妻城の合戦は裏で元就が謀略を図った戦いとも云われる、理由として軍記物では久光の油断に乗じて城内に攻めてきたとあり、また高橋氏の所属(佐々部氏など)のものが寝返っていたりと不可解なことが多い。

 

●加井妻という奇妙な城名であるが苗字で「加井妻」姓の家が粟屋にあるらしい。

 

関連URL

【広島県】勝山城【三次市粟屋町】

近隣の城。

 

参考URL

加井妻城(ウッキペディア)

城郭放浪記(備後加井妻城)

西国の山城(加井妻城)

山城賛歌(加井妻城)

 

参考文献

『日本城郭大系』13

『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』

『広島県の地名』

『広島県地名大辞典』

『広島の中世城館を歩く』

『萩藩諸家系譜』

『毛利八箇国御時代分限帳』

『萩藩閥閲録』

公開日2022/03/19

 

 

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